まずい、風邪を引きました。今日は散歩も慎んで、家でおとなしく過ごします。ネタは・・・ そろそろアップしなくてはと気になっていたウォークについてです。お付き合いください。
2月8日、久しぶりに東海道ウォークを実施しました。骨折以来、ペースダウン。さらに来月の抜釘手術でまた中断。浜松は遠いけど、歩みを止めず頑張ります。亀の歩みで前進。
いつものように、まず、バイブルにしていますガイドブック『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(八木牧夫 山と渓谷社)でチェックポイントとされている名所・旧跡の写真を中心にアップしてまいります。
午前9時12分、JR静岡駅のロータリーです。県庁所在地だけあって、広くて大きいですね。さあ、今日もがんばるぞー
西郷・山岡会見碑
駅前の賑やかな通りにありました。静岡市指定史跡です。
説明板をアップします。
江戸城のあけわたしをめぐる重要な会合が、ここ伝馬町の松崎屋源兵衛宅で行われました。「無血開城」なんて、この時代によく決断されましたね。山岡鉄舟のすごさに、ただただだ脱帽です。
鉄舟さんのすごさがわかる説明が、大きな看板で漫画になっていました。静岡の人にとって、ヒーローですね。子どもたちも、良く知っているのではないかしら?
山岡鉄舟さん、当時33歳、身長183センチ、体重100キロ。大きいですねえ・・・!
33歳でこの決断力。それに引き換え、今の日本のリーダーはどうなっているの? だれかコロナをとめてください・・・
上伝馬町本陣脇本陣跡
前回のウォークでもアップしましたが、本陣跡・脇本陣跡の石碑は、駿府貫目改所跡とともに、そろって「眼鏡市場静岡本店」ビルの前にありました。
慶喜隠棲の地
徳川慶喜が、20年間過ごしたという「浮月楼」は、もともとは幕府の代官屋敷だったそうです。繁華街の中心にありました。ひっそりとたたずんでいる感じでちょっと見つけにくかったけれど、石柱でそれとわかりました。
お店の私有地のようで、ちょっと入りにくかったけれど、意を決して中へ。失礼します・・・
早速、「慶喜公お手植の竹」なるものが目につきました。
慶喜公は宝台院から明治2年にこちらに移られました。この竹は宝台院から持ってきたもの。当時は珍しい品種で、慶喜公の新し物好きが窺えると書いてあります。
確かに慶喜さんは、残っている写真を見るに、ダンディーでモダンな紳士でありましたね? 好きな歴史人物のひとりです。
奥の方をそっとパチリ。これ以上は無理かな。
お店の車が停まっていました。今でも「浮月楼」と言う名前で営業中。
「浮月楼」のホームページを見つけました。料亭、婚礼、催事など、いろいろやってます。お食事は、懐石料理が5000円くらいから。
併設のホテルもあります。ホテルガーデングランドスクウェア静岡
札の辻
由緒ありそうな通りが交差するところはいろいろあってわかりにくかったけれど、こちらです。説明板もアップします。
札之辻町の町名は、ここに高札場があったことに由来します。(お触書を掲げる場所ですね。)
七軒町通りと呉服町通りが交差する駿府城寄りの中央に建てられていました。元禄5年の記録によると、札之辻町の家数は11軒、人数は132人でした。商家が軒を連ね、多くの人で賑わっていたそうです。
現在でも、なかなかの賑わいでした。街が「生きてる」って感じがしました。
津島神社
一階は町内会の防災倉庫でした。階段を上った上にあります。縁起アップします。
いろいろ書いてありますが・・・天明5年(1785)創建の疫病除けの神様だそうです。(すごくざっくりですね)
階段を上ってパチリ。
感應寺
ガイドブックには特に説明がなかったのですが、説明板があったので良かったです。アップします。
またまたざっくりですが、家康の側室・お万の方にゆかりの日蓮宗のお寺だそうです。
お万の方が、家康の百か日の法要(放生会)を、ここで行ったことを記す石碑です。
放生池は、昭和20年6月に戦災で焼失し埋没しましたが、その後縮小再建されました。
本堂です。ゆかりのお寺だけあって、立派ですね。
本堂脇のしだれ梅がとてもきれいでした。
善然寺
浄土宗のお寺です。なぜチェックポイントなのか、ガイドブックに説明はなく、現地にも説明板はなく、謎です。
秋葉神社
またまた屋根の上の神社です。この辺り、このパターン多いの?
階段を上ったところです。こじんまりながら、きれいにお掃除されていますね。
ガイドブックにも現地にも説明はなし。なぜチェックポイントなのかは、ここも謎。
唯一の手掛かりは、これ。町内の守り神様かな?
一里塚跡
やっと見つけた一里塚跡。というのも、新しい通りに変える以前の塚位置のため、街道から外れているのです。最後はグーグル先生に頼って、突き止めました。
一応、このような立札がありますが、ここに来るまでが難儀でした。
立札の裏側、あまり読めませんが、一応アップします。
街道ウォークをしていますと、一里塚の保存のされ方が実に様々で、興味深いです。やっと札が立っているところもあれば、立派に再現しているところもあり・・・
中には、立札さえない、特定できないのもあったような。
駿河伏見稲荷神社
こちらも、ガイドブックにも現地にも説明なしです。写真だけアップします。
法栄寺
ガイドブックには特に説明がなかったのですが・・・
左側の大黒天様が、東京の谷中より出土したものだそうです。出世大黒天ですって。
他に特に何があるというわけでもなかったのですが、左側に写りこんでいるおばあちゃんが、熱心に大黒様にお水をかけていて、しげしげと説明を読んでいる私になんやかんやと話しかけてこられ、それをくろやぎと拝聴し、20分くらいもお話を聞いてしまったのであります。ほんわかした思い出の残る場所になりました。このことについては、以前のブログでも触れています。トラヤのマスクのおばあちゃんです。
二丁町碑 稲荷神社
神社の境内に碑があります。
二丁町は遊郭で、元は七丁ありましたが、五丁は江戸吉原に移転したということです。
境内の説明板をアップします。
しかしながら、家康がいくら偉い人だからと言ったって、住民のすさんだ気持ちを和らげるために遊郭を誘致したというのは、どうなんだろうか?
この日は、遊郭の仕事に就いた女性たちの苦労に思いを馳せて建てられたもの。街道を歩いていると、こういうの、よくありますね。
二丁町大門
ついに特定できず・・・ 残念。
位置的に、この公園の中かな?と思うのですが。わかりません。
由比正雪碑
由比正雪がここで自刃したという墓碑。
実は、由比正雪の碑、特に説明板はなく苦労しました。
変な三角地帯の公園をくろやぎとごそごそ動き回って(怪しい動き)、やっと見つけました。いろいろな石碑があって、よーーく見たら、こちらに「由比正雪」ときざまれておりました。ふーー、疲れた。
ちなみに、もう一つ、ガイドブックに載っている目印のおそばやさん「カドヤ」は、ブロックひとつずれていました。
安倍川義夫碑
帰ってきて改めて説明を読みましたが、いい話ですネ。
川越人夫を頼もうとしたけど渡り賃が高かったから自分で歩いて渡ったら、川の中にお財布を落としてしまった。近くにいた人夫が拾って追いかけて財布を渡します。落とし主はお礼を差し上げようとしたけれど、人夫は「拾ったものを落とし主に返すのは当たり前」と言って、受け取らなかったそうな。代わりに町奉行が褒美のお金を人夫に渡したということです。
石部屋
安倍川の手前にある石部屋。
文化元年(1804)創業の、名物安倍川餅の老舗です。ここの感想については、以前に詳しく書きましたので、よろしかったらご覧ください。今回は写真だけをアップします。
安倍川餅を食べて、いよいよ安部川を渡ります。一区切りと言うことで、ここで一旦ブログを閉じます。長々お付き合いくださり、ありがとうございました。