街道ウォーク 岡部→藤枝の後半です。
「す〇や」の牛丼でチャチャッと昼食。エネルギーチャージして、再び元気に歩きだしました。先はまだまだ結構長い。がんばるぞー。
- 名残り松
- 東大木戸跡
- 濱小路
- 成田不動
- 左車神社
- 町境標石
- 大手口
- 町内安全常夜燈
- 養命寺
- 白子由来記碑
- 慶全寺
- 蓮生寺
- 秋葉山常夜燈
- 藤枝だるま店
- 若一王子神社御神燈
- 若一王子神社
- 神明神社
- 大慶寺
- 下本陣跡
- 上本陣跡
- 問屋場跡
しずてつストアをはじめ、この辺りお店が集まっていて、無事に昼食をとることができました。
県道を横断し、モスバーガーの脇を入ります。目印はモスバーガー。
モスバーガーを入ってから1本目を左折しますと、こんな静かな道に。
名残り松
確かに、名残り松。でも、さっき見てきた松並木の印象が強くて、あんまりびっくりしなかったです。ゴメンナサイ。
東大木戸跡
これより、藤枝宿になるのですね。と言いたいところですが、ここでいいのかな? 木の杭が1本立っていますが、文字が判読できないので確証がありません。位置的にここで間違いないとは思うのですが。
木の杭を含めた全景は、こんな感じです。
濱小路
標柱に、「是より焼津港まで一里余」と書いてあります。よかった、今度は判読できた。
標柱の先の道がこちら。濱小路。ここを行くと焼津港なのかぁ。なんか、すごいね。
成田不動
かの有名な成田山新勝寺の末寺です。
上の方が影になって読めないのですが、説明板をアップします。
建長四年(一二五二)後嵯峨天皇の第一皇子宗尊新王が将軍となるため京都から鎌倉へ上る途中、ここ藤枝で乗っていた御所車の左車輪が折れてしまいました。そこで車を修理する間、照光院というお寺で休息され、照光院は「左車山 休息寺」と改名しました。また、壊れた左の車輪は、お寺の裏に埋めて神社を建立し、左車神社と名付け、この辺りの地名も左車となりました。
戦国時代になり、お寺は二度焼失し廃寺同然となっていましたが、明治になって成田山新勝寺の御分身を拝受し成田山の末寺としてぜんざいに至ります・・・
といったことが書かれています。
左車神社
さて、お寺とセットの左車神社ですが・・・
お寺の裏手に回っても、それらしいものは見当たりません。
このような案内表示がありましたので、その通りに細道を入っていきますと・・・
ん? なんだこれ?
位置的にはここで間違いなさそうですが、なにもないぞ。強いて言えば、イチョウの樹がご神木っぽいかも。たぶん、新しい道路を通すために、移転したか取り壊されたかしたのですね。本日最大のびっくり。
他の方のブログ(2019年5月)を拝見したら、この場所に小さなお社が写っている写真が載っていました。現在、神社はいずこに?
町境標石
左車神社のショックをやや引きずりながら歩いて行きますと、信用金庫の前にちょっと目立つ石像が。
しかし、これに気を取られてはいけません。信用金庫の看板の足元の小さな標石こそ、チェックポイントの町境標石なのです。
近づいてよく見ますと、「従是西下伝馬 従是東左車」と刻まれています。
標石を含めた街道全景です。
大手口
田中城の大手木戸があったという「大手口」は、決め手になる表示が見つからず。モヤモヤしますがないものは仕方がありません。バス停の写真をアップしておきます。
この道が、田中城に続いていたのでしょうか・・・
チェックポイントにはなっていませんが、歩道上に「問屋場跡」の表示を見つけましたので、パチリしました。
「問屋場跡」表示のある場所の全景です。
町内安全常夜燈
どっしりと目立つ常夜燈。これは見逃しようがありません。奥に恵比寿大神大黒天が祀られているそうです。ガイドブックに書いてあったのに、なぜか見落としました。なぜ見落としたんだろう? そのかわりなぜか、常夜灯が設置されている広場のベンチが七福神なのが面白くて、パチリした私です。ウォーク後半で、集中力がやや切れてきたかも。
養命寺
常夜燈のある広場の向かいにあります。弘法大師作の石地蔵があるそうです。確かに、「南無延命地蔵菩薩」という赤い幟が出ていますね。
これよりアーケード通りとなります。
その名も「ショッピングプロムナードさわやか通り」。
白子由来記碑
アーケード通りの歩道上に、まず表示がありました。
こちら小川眼科医院の入り口にあります。手前の大きな看板に目が行ってしまいますが、奥の石碑がそれです。
石碑には、なぜこの辺りを「白子」と呼ぶのか、地名の由来が説明されているようです。それだけではどうもわかりにくいので、看板にていねいな説明書きが掲げられていました。なかなか親切。
織田信長に招かれて徳川家康が上洛していた時に、折しも本能寺の変が起こり、畿内が大混乱となってしまいます。家康はなんとか伊賀路を超えて伊勢の国の白子に到着。小川孫三が白子港から夜に紛れて小舟を出して、無事に家康を三河へ送り届けました。後でこのことを詳しく聞いた家康は、当地に居住することを許し、この地を新白子と名付けました。
ということが書いてあります。書き出しが「家伝によると」となっているので、この看板を設置したのは子孫の小川眼科さんなのですね。ありがとうございます。
慶全寺
街道より一本入った静かな通りにあります。ガイドブックによれば、長篠の戦いで戦死した田中城主三枝虎吉の息子三人の菩提を弔っているお寺とのことですが、門が閉まっていたので外観のみです。
蓮生寺
街道から、このような参道に入ります。しっとりとした静かなお寺です。
ガイドブックによれば出家した熊谷直実が泊まり、念仏十篇を唱えると、池に清蓮花が咲いたとか。肝心の池は、この本堂のある場所よりさらに北にあります。足を延ばしたいところですが、時間が限られているので先を急ぎます。
秋葉山常夜燈
長楽寺というお寺のもののようですね。
藤枝だるま店
創業170年の老舗という、大変有名なお店です。楽しみにしていたのですが、この日はお休みでした。もっと大きなお店を想像していたのですが、意外にも普通の感じ。
若一王子神社御神燈
若一王子神社
藤枝の地名の由来になった神社です。
説明板をアップします。
源義家が奥州争乱を平定するために下向した際、ここ若王子神社に立ち寄り武運長久を祈願しました。そのとき神社の古い松の木に今を盛りと藤の花が咲いていたのをみて
松に花咲く藤枝の一王子 宮居ゆたかに幾千代をへん
という和歌を詠み、自身も松を手植えしました。その後、この松を千歳の松と呼ぶようになり、この辺り一帯は藤枝と呼ばれるようになりました。
ということが書いてあります。
境内には現在は松というよりは、様々な樹木が繁り、こんもりとしておりました。
「疫病終息祈願」
はあ、これに尽きますね! 世界全人類の願い。
神明神社
ガイドブックによれば明治天皇藤枝行在所址碑があるそうですが、見落としました。(今回そういうの、多いですね。反省)
替わりにと言ってはなんですが、大きな銀杏の木に目が奪われておりました・・・
大慶寺
日蓮上人お手植えの久遠の松(樹齢700余年)が有名だそうですが・・・
あ、これですね! 塀の外からでも目立ちます。
説明板をアップします。
田中城祈願のお寺です。
下本陣跡
下本陣跡・上本陣跡・問屋場跡と、ごく近くにまとまって、歩道上に表示があります。こちら、まず下本陣跡。
跡地はこのようになっています。
上本陣跡
続いて上本陣跡の路上表示と跡地風景です。
問屋場跡
問屋場跡は交番になっています。
大きな看板もありました。江崎パーキングさん、ありがとうございます。
安藤広重の東海道五十三次の版画になった場所です。
版画はこちら。
問屋場跡を含めた街道の様子。なーるほど。
さて、この日のウォークはここで終了となりました。が、実はこの後、街道ウォークとは別に過酷な時間が。というのもここからバスで藤枝駅まで行くつもりだったのですが、ちょうどバスがなくて、寒い中をじっと立って待っているよりはと、せっせと歩いたのであります。あー疲れた。
藤枝駅です。次回はここから先ほどの場所までバスで戻ってウォークをスタートさせます。
ここまでお読みくださりありがとうございました。そう遠くないうちに、今回のウォークの「まちなみ」について書きます。またよろしくお願いいたします。