つい先ほど、我が家の次女が一人暮らしをするために、家を出て行きました。・・・寂しいです。しかし、その感情は親の勝手なので深く考えるのはやめました。
『おおきな木』(シェル・シルバスタイン)という絵本があります。
「おおきな木」と小さな男の子は仲よしでした。男の子は、木のそばでかくれんぼをしたりして、毎日遊びました。
やがて男の子が大きくなると、少年の仲よしは木から彼女になりました。少年が、遊ぶためのお金が欲しいと言えば、木は、りんごの実をたくさん落して、これを売ってお金にしなさいと言いました。少年が大人になって家が欲しいと言えば、枝を切って売ればいいと言いました。
旅に出たいと言えば、木を切って舟を作ればいいといいました。大人になった青年は、躊躇することなく、切り株だけのこして、持って行ってしまいます。
それから長い年月がたって、男の子でも少年でも青年でもなくなった年老いた男がやってきたとき、切り株になってしまった木が悲しそうに声をかけます。「坊や、すまないね。もうなにもあなたにあげるものはないのだよ。」と。
すると男は答えるのです。「もう何もいらない。疲れたので休みたい。」
「それならば」と喜んで切り株になった木はいいます。「私のところに、腰かけなさい、坊や。」
手元に本がないので、正確ではありませんが、ざっとこんな感じです。
最初、読んだときはピンときませんでした。この本が好きだという人にたくさん会いましたが、私は好きでも嫌いでもなかったです。そのうち、なんだか悲しいなと思うようになり、今では、私はこの木と一緒だな・・・なんて。
子どもが小さいうちは、彼らにとって良かれと思うことは、事情が許す限りなんでもやってみました。「百聞は一見に如かず」を旨とし、なんでも経験させたいと、あちらこちらへ一緒に出掛けました。
でもそのうち、親にできることはそんなにないなと思うようになりました。出来ることの最たるものは、学費を出すこと。
就職すれば、それも必要ありません。雨風のしのげる家と、温かい食事くらいしか。「ああ、もう本当に、できることはないなあ」と思っていた矢先の独立宣言。そのとき、この『おおきな木』を思い出したのです。私は「おおきな木」みたいだな。
「疲れて戻ってきたら、私に腰かけなさい。」という切り株のようになればいいのだろうか? そうかもしれない。でも・・・私は、切り株にはならないとさっき決めました。
『おおきな木』と同じ作者のシェル・シルバスタインによる『ぼくを探しに』という絵本があります。これもファンが多い作品です。
何かが足りない
それでぼくは楽しくない
足りないかけらを探しに行く
ころがりながらぼくは歌う
「ぼくはかけらを探してる、足りないかけらを探してる、
ラッタッタ さあ行くぞ、足りないかけらを……」
こんな出だしで始まるこの本は、最後まで軽やか。「ぼく」は丸い図形。15度ほどかけていて、そこがパックンしている口みたい。「ぼく」はこの15度分の「かけら」を探しにころがっていくのだけれど、なかなかぴったりしたものに出会えません。あるものは大きすぎ、あるものは小さすぎ、あるものは・・・
これはぴったりかなと思ったとき、相手のかけら(パーツ)は言い放ちます。「ぼくは、かけらなんかじゃない。だれのかけらにもならないよ。ぼくはぼく。」(これも手元に本がないので正確ではないのですが、だいたいこんな感じです。)
私は、この部分がとても好きです。私は、だれの一部でもないし、これからもなりません。
結局、「ぼく」はかけらを見つけることはできず、これからも探し続けていくのです・・・
よく「自分探し」といいますが、一生かかっても自分を探すことはできないし、探せてしまったらつまらないでしょう。
私は学校司書をしていますが、この本をよく、中学1年生の最初のオリエンテーションで読みました。(今は小学校勤務です。)「図書館へようこそ。図書館は自分探しの旅のヒントがいっぱい」みたいな感じでね。
でもね、中学生にそう語りかける一方で、自分もまた、この本に共感していたんだなあと思います。私は「おおきな木」よりこちらの方がずっと好き。
3人の子どものうち一人が巣立って、ぽっかり穴が空きました。穴を埋めるパーツを探しますか?
いえいえ、穴だなんて思いません。これは自分探し。穴ではなくて新しい「はじまり」です。
骨折して長期入院したとき、家族の中の何かが崩れた気がしました。あの頃から、次女は職場と家が遠いと感じるようになり、都心に住むことを考え始めたらしいです。骨折しなければ、次女はまだ家にいたかもしれません。苦い思いをぬぐうことはできませんが、仕方がありませんね。
次女の新たな「はじまり」を応援したいと思います。切り株にはならないけれど。
私はかけらを探し続けます。
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