このタイトルを見て、「あれ?」と思った方もいらっしゃるかもしれません。そう、茅ケ崎は宿場町ではないんですよね。宿場と宿場の間の「間の宿」と呼ばれるところらしいです。そのことについては後日、「クローズアップ茅ケ崎」で記事にしますね。
さて、なぜ次の宿場・平塚まで行かずに茅ケ崎なのか? 理由は単純。藤沢→平塚の13キロの距離は、まあまあ遠い。歩けなくもないけれど、この間、見所・チェックポイントが多め。終着点に着く時間を気にして、見るのが駆け足になるのは残念です。
ちょうど真ん中あたりが茅ケ崎で、しかもJRの駅の前を通ります。「ここでいったん休んだら?」と言われているようなもの。というわけで、次回は藤沢→茅ケ崎で決定です!
早速、事前チェックをしましょう。
- 紙問屋(桔梗屋)
- 藤沢御殿跡
- 本陣跡(蒔田源右衛門本陣跡)
- 小松屋
- 妙善寺
- 常光寺
- 永勝寺
- 義経首塚
- 白旗神社
- 上方見付跡
- 真源寺
- 光妙寺
- 旧道痕跡
- 引地橋
- 養命寺
- おしゃれ地蔵
- 柏山稲荷神社
- 八坂神社
- 小さな神社
- 八坂神社
- 大山道道標
- 一里塚跡
- 二ツ家稲荷
- 西國巡礼供養塔
紙問屋(桔梗屋)
桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家です。本社は横浜に移転しましたが、現在も藤沢の店蔵は支店として営業を続けています。土蔵造の店蔵は、黒漆喰仕上げで1階に重厚な観音開きの塗籠戸を吊るなど、優秀な左官技術を伝えています。文庫蔵は当地で近世に遡る貴重な例で、店蔵とともに東海道の旧宿場的雰囲気を伝えています。
藤沢御殿跡
妙善寺から東に五分程歩くと御殿橋があり、足をのばして川沿いに登ると陣屋小路の石仏郡があります。江戸時代の初め頃、藤沢にはまだ本陣がなかったので、将軍は自らの宿泊のために今の藤沢一丁目あたり(藤沢公民館付近)に藤沢御殿をつくりました。絵図面によると東西約193m、南北約113mの長方形の区画で、記録によると「慶長五年(1600)に家康が宿泊して以来、寛永十一年(1634)に家光が使用したのを最後に廃止の道をたどりました。御殿の周辺には御殿を管理する代官陣屋が配置され、陣屋小路をはじめ御殿辺などの地名や陣屋橋、御殿橋といった橋の名に今では往時のなごりをとどめているのみです。
本陣跡(蒔田源右衛門本陣跡)
このあたり一帯が藤沢宿のあったところで、歩道には本陣跡を記す案内板がたっています。本陣というのは、宮家、公家、大名が休泊した施設で、13間あり、一般庶民は休泊できませんでした。江戸時代初期は大久保町の堀内家が藤沢宿の本陣でしたが、類焼のため坂戸町の蒔田家が明治三年まで約百二十年間その要職にありました。総坪数約400坪、門構え庭園等があり堂々たる家でしたが、現在は妙善寺にその墓域を残すのみとなってしまいました。藤沢宿には、享和三年(1703)当時で、本陣1軒、脇本陣2軒、旅篭46軒がありました。また、人馬の割付・管理を行う問屋場が旧大久保町(近藤眼科医院付近)と旧坂戸町(消防署本町出張所付近)に設けられていました。
小松屋
旅籠小松屋源蔵跡
妙善寺
白旗神社から白旗川ぞいに東に向かい、市民病院前から道沿いにカーブして南へ進みます。100mほどいった十字路を左折すると、左手に妙善寺(日蓮宗)のいらか屋根の山門が見えます。創立は永正元年(1504)、墓地の一角には本陣職を務めた「蒔田家」の墓が往時の隆盛を偲ぶようにたっています。
常光寺
旧東海道(現国道467号線)から消防署の脇を入ると、明治五年に警察署の前身である「邏卒屯所(らそつとんじょ)」が置かれた常光寺(浄土宗)があります。創立は元亀三年(1572)、本堂左脇に市指定文化財の「庚申供養塔」が2基あります。万治二年(1659)の銘をもつ庚申塔は、庚申講中が建立した浄土宗系のものとして貴重です。もう1基(寛文九年銘・1699)は、笠石が軽快な感じを与えます。墓所を包むようにひろがる約7900㎡の静かな寺林は、天然記念物として市の指定を受けています。ひときわ目を引くのは、高さ約25m、推定樹齢300~400年にもなるカヤの巨木で、県選定の「かながわの名木100選」にも挙げられています。境内には、英文学者で詩人の「野口米次郎(1875-1947)」の碑があります。米次郎は「ヨネ・ノグチ」の名で英・米詩壇で認められ、帰国後も浮世絵をはじめ日本の文化、文芸を世界に紹介しました。碑には、彼が詠んだあじわい深い詩が刻まれています。
永勝寺
旧東海道(国道467号線)から農協藤沢支所の手前を入っていくと、やがて永勝寺(浄土真宗)に着きます。創立は元禄四年(1691)、山門を入ってすぐ左の墓所に、旅籠屋を営んでいた小松屋源蔵の墓を囲むように39基の飯盛女(食売女・メシモリオンナ)の墓が、ひっそりと立ち並んでいます。天保六年(1835)当時、主に大鋸から遊行寺橋にかけて、27~28軒の飯盛女をかかえた飯盛旅籠屋がありました。飯盛女は、遊女に代わって出現した公認でないいわゆる私娼で、旅籠屋1軒につき2人までしか置けないことになっていました。なかにはそれを守らず数人の飯盛女を置いていたところもあったようで、実際には、全盛期で100人近い飯盛女が藤沢宿にいたとみられています。こうした女性たちの多くは、宿内や周辺の年貢課役に苦しむ農村、あるいは伊豆、遠江、駿河等の出身で、借金の返済などのために働いていたのですが、その扱いはひどいもので、小松屋のように墓を建てて葬るというのは大変珍しいことでした。
義経首塚
旧東海道(国道467号線)沿いのかながわ信用金庫とマンションの間の小道を入っていくと、公園の片隅に伝義経首洗い井戸があります。義経は兄頼朝に鎌倉を追われ奥州平泉に逃げていましたが、文治5年(1189)藤沢泰衡は亡父秀衡がかくまっていた義経を攻め、ついに衣川で義経を自刃させました。平泉から鎌倉に送られてきた義経の首は、首実検の後に片瀬の浜に捨てられたといわれています。潮にのって境川をさかのぼり白旗神社付近に漂着した義経の首を里人がすくいあげ、この井戸で洗い清めたということです。一説によれば、鎌倉に入る前に首実検に備えて化粧を施したとも、また、夜間に鎌倉方面から、首が目を見開いて亀の背に乗り飛んできたとも伝えられます。
白旗神社
旧東海道(国道467号線)の白旗交差点を北に向かうと、藤沢宿西方面の総鎮守である白旗神社の大きな鳥居が見えてきます。古くは寒川比古命を祀っていたといわれます。
また、奥州平泉で敗死した義経の首級は鎌倉で首実見された後うち捨てられ、これを里人が拾って井戸で洗い清め葬り葬られたと伝えられるところから、宝地三年(1249)義経も合祀するようになったといいます。例大祭には義経・弁慶2基の神輿が氏子町内をねり歩き、大変賑やかです。また、秋祭りに行われる市指定文化財となっている「湯立神楽」は、面をうけた山ノ神が道化を演じながら参拝者に餅をまくなど独特な神事として知られています。本殿に向かう石段の下には、さまざまな形態の庚申塔の一群が見られます。その中には、市指定文化財の庚申供養塔(寛文五年・1665)もあり、右側面に「此よりはちおうしかいとう」、左側面に「これよりほしのやかいとう」と刻まれ、かつて二つの道の岐路にたてられていたと推察されます。庚申供養塔群の片隅には、市指定文化財の江の島弁財天道標が1基あり、さらに境内藤棚近くに、芭蕉の『吉野行脚」の「草臥亭(くたびれて)宿かる此や藤の花」の句碑(文化二年銘・1805)がたてられています。境内に義経松、弁慶杉、弁慶力石があります。
草臥亭(くたびれて)宿かる此や藤の花 松尾芭蕉
上方見付跡
真源寺
1681年創立。弘法大師像が安置されています。浄土宗。風早山と号します。
光妙寺
宗派は日蓮宗、本尊は十界勸請大曼荼羅。開山は光妙院、日暁です。宝暦六年(1756年)の創立。元来、静岡県富士郡芝富村円恵寺の境外仏堂でしたが、昭和9年「光妙寺」として独立し、同年12月に現地に移転しました
旧道痕跡
引地橋
養命寺
本尊の木造薬師如来坐像は国の重要文化財指定。12年に1度、寅年に公開されます。
関東最古の玉眼入り仏像といわれています。
おしゃれ地蔵
女性の願いを叶えます。形態は男女双体道祖神
柏山稲荷神社
御祭神は宇迦之魂命 ( うかのみたまのみこと ) 。祭礼は4月第2日曜日の
春季大祭(しゅんきたいさい)と、毎月22日の月次祭(つきなみさい)
八坂神社
小さな神社
八坂神社
大山道道標
「是より右大山道」の道標と鳥居、大山の大山寺、阿夫利神社への大山参り道の道標です。阿夫利神社には開運厄除けの祈願として、木太刀を奉納する習慣があります。これは頼朝が自分の刀を納めて、天下泰平武運長久を祈ったことに始まります。この風習が粋な江戸っ子に受け、木太刀を盛った参詣客で賑わいました。この辺りには茶屋が軒を連ねていました。
一里塚跡
四ツ谷の一里塚。日本橋より13里目。
二ツ家稲荷
二ツ家稲荷神社境内の寛文10年(1670)建立の庚申供養塔は藤沢市指定重要文化財。地名の二ツ谷は往時、ここにあった立場茶屋二軒(二ツ家)に由来しています。
西國巡礼供養塔
側面に「あふり山 わけいる道にしをり置 つゆのことのは しるしとぞなぞれ」と刻まれています。
これより藤沢市に別れを告げて、茅ケ崎市に入ります。ブログも一区切りとします。
余談ですが、これまでの「先取りふむふむ」は自治体のホームページを大いに参考にさせていただいてきたのですが、今回は苦労しました。藤沢市のホームページには、名所・見所の詳しい解説がほとんどなかったのです。ふじさわ宿交流館のホームページには、解説が充実しているのですが、宿場内の見どころについての解説に限られていて(ふじさわ宿交流館ですから当然と言えば当然なのですが)、宿場を出たら、つまり上方見付跡より西のチェックポイントについての説明は皆無と言っていいほどです。
そういうわけで、今回の記事は、前半と後半で記事の密度にかなりの差があります。当日の説明板に期待しています。
【参考】
『ちゃんと歩ける東海道五十三次』」(八木牧夫 山と渓谷)
藤沢宿交流館ホームページ
該当の神社・寺院の公式ホームページ
もうひとつ余談
先日のウォークでとても気になっていた「宝製菓の宝ビスケット」。
kaz-mt-wisteria.hatenablog.com
なんとくろやぎ(夫・同行者)が、近所のスーパーで見つけて購入してきました。「でかした!」と思ったのですが、「ん? このビスケット、見たことあるぞ。」 てか、食べたことある。袋にざくざくいろんな種類の個包装のクリームサンド系のビスケットが入っていて、安くてお得感があるから子どものおやつに買っていた。(自分のおやつにも、してた) これ、宝ビスケットだったんだあ。気がつかなくてごめんね。
詳しくは、くろやぎのブログでどうぞ。