私の両親は80代でそろって健在です。母は、私が骨折したときに、それまでは「今年の夏は暑いわね。もうだめ。どこにも行けないわ。」とか言っていたのに、骨折したと聞いたとたんに飛んできました。びっくりするやら、ありがたいやら。なんだかんだと言っていますが、たぶん割と元気な高齢者です。
先日は、母の誕生日でした。
お昼でも一緒に食べようと誘いましたところ、「ホットケーキが食べたい。」とのこと。しかも星野珈琲がいいというピンポイントンのご指名。それならば話は早いと、近所の星野珈琲でのランチとなりました。
さて、「どうしても一度食べてみたかった」という母の念願のスフレパンケーキ(そう、厳密にいえばホットケーキではありません。)が運ばれてくると、母は「私のお誕生日はね、ホットケーキなの!」と言います。母の父(私の祖父)が、母が子どもの頃、お誕生日には必ずホットケーキを焼いてお祝いしてくれたからなんだそうです。
「でも、これ、ホットケーキではないわねえ・・・」
だからこれは、スフレパンケーキですってば。
「ホットケーキとパンケーキって何が違うの?」
はて、なんだろう? 答えに詰まっていますと、まあそれはそれとして・・・と言って、母は先を続けます。
「2月はお誕生日の月だけど、私、2月はきらい。」
以下、長々と続いた母の話を書かせていただきます。お付き合いください。
昭和14年生まれの母が2月を嫌いなわけは、空襲で焼け出されたからです。小学校に上がる直前のことでした。
母の住んでいた家は、東京都文京区本駒込にありました。当時は神明町と呼ばれていた地区です。家のすぐ近くに天祖神社という神社があり、これが町名の由来でもありました。
1945年2月25日、「早く外に出なさい!」と母親(私の祖母)に言われ、防空壕から外に出ると、すでにそこは火の海だったというのが、母の最初の鮮烈な記憶だそうです。母親(祖母)は、「おばあ様(お姑さんが近くに住んでいたのです。)をお迎えにいくから、あなたは〇〇(妹の名前)ちゃんを連れて逃げなさい。」と言い残し、赤ん坊の弟をおんぶして去ってしまったのです。
たった6歳の子どもです。3歳の妹を託されて途方に暮れるところですが、「近所の人たちと一緒に逃げなさい。必ず後で会えるから。」と言われたのを信じ、妹の手を引いて逃げました。その日は雪が降っていました。やがて妹が「足袋がぬれて足が冷たい」とぐずり始めたので、自分の足袋をぬいで履かせます。このくだりは、これまでも何回も聞いたのですが、たった6歳の子が・・・といつも思いました。
そうして一心に大人たちの後をついて行ったのですが、子どもの足です。だんだん遅れをとるようになり、もうだめだと思ったときに、ひょいと妹を抱き上げた人がいました。見ると知らない男の人が、妹を抱いたまま、タッタッタッタと走っていくではありませんか。「たいへん! 人さらいだ!」
当時、人さらいは珍しいことではありませんでした。母親から妹を託されたのに、さらわれるわけにはいきません。必死に人さらいを追いかけました。
ところが不思議なことに、人さらいは少し先まで行くと、立ち止まってこちらを振り返ります。そして母が付いてくることがわかると、また、タッタッタッタと走っていくのです。
そうしてようやく吉祥寺というお寺に着いたものの、そのお寺にも火の手はせまり、あっという間に燃え始めます。「逃げろー!」という大人たちの声。母もまた、人さらいのおじさんの後を追っっかけます。タッタッタッタッタ・・・ タッタッタッタッタ・・・
やがて千駄木小学校というところに着きました。(結局、ここまでは火の手は来ませんでした。千駄木小学校は、この後も、戦災に遭うことはなく、終戦を迎えたようです。)
人さらいのおじさんは妹をおろし、「よくついてきたね」と母の頭をポンポンとなでました。人さらいではなかったんですね。そこへお姑さんを連れたお母さんも到着し、しきりにおじさんに頭を下げています。おじさんは近所の人で、お母さんは逃げる前に姉妹のことを頼んでいたのだなと、後になって気が付いたそうです。
「だからね、あのおじさんがいなかったら、逃げ遅れていたと思うの。妹が人さらいにとられてはなるものかと頑張れたのだから。」
なるほど。そうならば、私もおじさんに感謝しなければ。おじさんがいなければ、私はこの世に生まれていないかもしれませんね。命の恩人。
お母さんに会えて安心したからでしょうか。今度は「もうお父さんには会えないのかな」と悲しくなったそうです。けれど、一晩寝て目を覚ますとそこにはお父さんがいました。
「本当にうれしかった。空襲で焼け出されてしまったけれど、家族は誰も命を落としていないのは本当にありがたい。」と母はいつも言っています。
家の近くの天祖神社も、吉祥寺も、それからおばあさんが住んでいた家も、この空襲で焼け落ちました。天祖神社は1954年に再建されています。また、おばあさんの家があった場所は、現在では文京区立第九中学校の敷地の一部になっています。
地図を見てみたのですが、子どもの足では途方もなく遠かったのでしょうが、割と狭い範囲を行きつ戻りつ逃げていたんですね。
1945年2月25日、東京は大雪だったという記録も残っています。
「だから、私は2月はきらいなの。飛行機もきらい。みんなB29に見えるから。」
母は、一度も飛行機に乗ったことがありません。
この話には、さらにおまけがあります。
この年の2月の母の誕生日にも、祖父がホットケーキを焼いてくれました。配給も滞り、どこにそんな粉があったのだろうと母は不思議がっていましたが、きっとこの日のために取ってあったのですね。おじいさんとおばあさんが、粉箱をひっかいてパンをやく「おだんごぱん」みたい。それはそれとして・・・
母には当時ひいおばあさんもいて(私の、ひいひいおばあさんですね。)、戦争がいよいよ激しくなってきた頃、「あたしの目の黒いうちは、神明町の家は焼けないよ」と断言していたんですって。母がお誕生日にホットケーキを食べたのが2月の上旬、その数日後に、ひいおばあさんが亡くなりました。
「集団疎開に行っていたお姉さんにお母さんが事情を説明する手紙を書いていたっけ。こっちのことは心配しないで、と書いていたのを覚えているわ。」
その数日後の、25日の空襲だったのです。
ここまでの話、断片的には何度も聞かされていたのですが、今回はいつになく長く詳しい話でありましでありました。
「長々、ごめんなさいね。でもね、これ、ホットケーキじゃないわね。私が好きなのは、ホットケーキなの。」
ああ、そうなのね、ごめんごめん。ホットケーキとパンケーキの違いも結局よくわからないのですが、今度は「ホットケーキ」として売っているお店に行ってみます? そう思って、いろいろ調べたら、何軒かホットケーキ屋さんがヒットしました。
でもね、ふと思ったんです。何を食べても、きっと母は「これはホットケーキじゃないわ。」と言うんじゃないかしら? なぜって、母にとってのホットケーキは、お父さんが焼いてくれたホットケーキだからです。
今日もお訪ねくださり、ありがとうございました。