てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

第31回ウォーク 島田→金谷

  あけましておめでとうございますというには、1月はもう半ば。何ともお恥ずかしい限りの亀の歩みよりも遅いてくてくブログです。

 11月27日に歩いた「島田→金谷」について、今頃遅すぎの感がありますがレポートします。お付き合いください。

 この時期は、コロナの感染者が少なく、比較的出かけやすい雰囲気でした。今となっては、夢のような・・・

 

 島田駅舎2階から見下ろした駅前の様子です。空気は冷たいけれど快晴。今日もがんばって歩くゾー!!

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島田駅前ロータリー

 

明治の道標

 明治時代に設置された道標ということかしらん?

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明治の道標

 「西 大井川渡船場迄???」と刻まれているように見えます。

 

 

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 道標があった敷地の様子です。

西見附跡

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西見附跡

 大井神社の鳥居の向かいにある、一般の民家です。正面に説明板があります。

 

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 枡形の見附が設けられていたそうです。番人がいた記録はありません。あくまでも宿場の境界として設けられていたもので、大名行列など必要に応じてお役人さんがここに出向いてきて送り迎えをしたのではないか・・・というようなことが書かれています。

 

大井神社

 まずは鳥居を一枚。

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 鳥居を入ってすぐの参道です。両側の石垣に注目してください。 

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 この長い石垣は、大井川の川越しをする人たちが、仕事が終わった時に河原の石を一つ持ち帰ってここに寄って積み上げていったことでできました。きつい仕事が終わっても、もう一仕事。「どれだけ働かせるんじゃい!!」と言いたくもなるでしょうに・・・。

 説明板をアップします。

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 境内全景です。

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 本殿です。ちょうど七五三の参拝を受け付けていました。

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 ちょっと変わった銅像がありましたのでパチリしました。「島田の帯祭り」関連?

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 七五三参拝のお子さんと親御さん。どうぞお幸せに。

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 ちなみに大井神社は、大井川の水神を祀っている島田宿の鎮守です。

 

大善寺

 通りの向かいから見た大善寺。門の横に焔魔堂があります。

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大善寺

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 焔魔堂に近づいて1枚。ガラス戸からチラリと見えるのは仏像です。

 

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 五円を置いて、閻魔大王の札をいただきました。

 

 境内の様子です。右手に鐘楼が見えます。かつては時の鐘で、明け六つ(午前6時 日の出時刻)と暮れ六つ(午後六時 日の入り時刻)は、大井川の川越しの始まりと終わりを知らせる合図でもありました。鐘楼について、説明板をアップします。

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 鐘は第二次世界大戦で供出されてしまいました。現在の鐘は、昭和48年に作られたもので、毎月1日、15日、大晦日に撞かれています。

 

 大井川川越遺跡の案内表示の見えてきました。

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 道路脇には、こんな案内柱もあります。

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 左の道へ進みます。間違えないように。まっすぐ行きそうになるので注意。

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 まもなく、川越遺跡が見えてきます。道の奥の古い建物群、わかりますか?

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塚本家

 川越遺跡最初のチェックポイントは「塚本家」。九州肥前大村藩の専用休憩所です。

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塚本家

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 説明板です。身分の高い人が宿泊するための「上段の間」が残されているそうです。「上段の間」は、他の部屋より一段高く作ってある奥の部屋のことです。

 

 このあたりから、昔の風情の残る景色が続きます。街道ウォークの醍醐味です。

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番宿

 道沿いに、通し番号のつけられた番宿が立ち並びます。

 順番に見ていきましょう。

 

六番宿

 一般のお宅のようですね。外からのみの見学です。

 

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六番宿

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島田市博物館分館

 

明治33(1900)年に建てられた旧桜井邸で、海野光弘版画記念館となっています。今回は、中の見学はせず、先を急ぎます。

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島田市博物館分館

 

三番宿

川越人足が普段詰めていた待機所です。

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三番宿

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 中を見ることができます。川越人足がこちらを見ています! お邪魔します・・・

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 説明板をアップします。

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 川越人足は10組に分けられ、各組がひとつの番宿に詰めました。(なるほど・・・・ それで番号がついているんですね。さっきのは六番だったし。)

 各番宿には、五丁の連台(人を乗せて担ぐ台のことですね、きっと)が備えてあって、当番でないときも50人くらいの人足が詰めていたらしい・・・ということが書かれています。

 

荷縄屋

 荷崩れを直したり、荷物を括りつけたりをしてくれたところ。

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荷縄屋

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 わらじや笠も売っていたって。なにかと役に立つことをしてくれるところ。kioskかコンビニか・・・??

 

十番宿

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十番宿

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 説明板があったのでアップします。三番宿のと同じですが。

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 まったりお休み中の人足さんがいますね。

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 川越人足についての説明板です。

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 川越人足は、15歳以上50歳以下の屈強な男性がつとめました。大井川は水量が多く素人に務まるような仕事ではなく、12歳から見習いとして雑用や力仕事をしたうえで、川越人足になったのですって。

 

二番宿

 一般のお宅です。外観だけ撮影させていただきました。

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二番宿

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仲間の宿

 年をとった川越人足が集まった宿です。各番宿のまとめ役が集まって会合を開くのにも使われたそうです。

 OBが運営している集会所みたいな?

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仲間の宿

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 OBだけあって、の~んびりくつろいでいますねえ。

 

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 川越人足のOBは、「陸取り」(旅人案内人・川越仲介人)もやっていたんですね。観光案内の事務所みたいでもある?

 

立会宿跡

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立合宿跡

 跡なので、建物はありません。説明板も特になく、「立会所」とはどんなところか、ちょっとわかりませぬ・・・

 

札場

 川越人足が、一日の終わりに川札を現金に換えた場所です。

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札場

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 この日は、博物館の体験学習のイベントで、奥の部屋で「さきおり」をやっていた模様です。ふすまが閉まっていたので、中の様子はわかりませんが。

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 さきおり、かわいいですね。

 番宿は、これにて終わり。歩いてきた道を、振り返ってみましょう。

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秋葉神社

 見落としそうですが(実際、私も見落として、戻りました(-_-;) )、番宿の最初の方にあります。博物館分解の向かいです。

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秋葉神社

関川庵

 右手に案内柱が立っているので、この細道を入ってください。

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関川庵

 八百屋お七と恋仲だった吉三郎のお墓があるとのこと。吉三郎は諸国行脚の旅に出て、島田宿で没しました。

 

川会所跡

 安政3年(1865)築の建物です。

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川会所跡

 おばあさんたちが、日向で座っておしゃべり・・・ 現代の川会所の風景です。

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 敷地内に芭蕉の句碑があります。

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 馬方は しらじ時雨の 大井川

 

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島田大堤

 治水と灌漑用水路を兼ねていたそうです。 

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島田大堤

 説明板をアップします。

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 慶長の大洪水で押し流されてしまった島田宿。復興のために一大事業としてつくった大堤だったのですね。

 

八重枠稲荷神社

 昔、大井川が氾濫すると、八重に(幾重にも)枠を並べて堤防にしたところから「八重枠稲荷」というらしい・・・

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八重枠稲荷神社

 

 説明板をアップします。

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 川の氾濫で亡くなった方々の供養のために建てられた神社でもあるのですね。


せぎ跡

これはすごい! つくづく感心してしまいました。

 川が増水すると、厚い板を挟んで水をせき止めるつくりになっています。

 

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せぎ跡

 

 ここの切り込みに厚板の片方を挟みます。

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 こちら反対側。ここに厚板のもう片方の端を挟みます。

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 厚板を挟むところが、道の両脇にあります。道の先には大井川が。

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 まずここで止めて、次に八重枠で止めて、それから島田の大堤。

 昔の人の、必死な思いと、知恵の数々が結集されています。

 

朝顔の松

 朝顔の松の物語が伝わる公園です。

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朝顔の松公園

 

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 その名も、朝顔堂。

 

 朝顔の松の由来についての説明板をアップします。

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 朝顔の松の由来について、少々長くなりますが、これでもかいつまんで、書いておきますね。

 

 安芸の国の娘・深雪(みゆき)は、宮仕えの京都で阿曽次郎という青年と知り合い恋仲になります。国へ帰った深雪は、親が駒沢次郎左衛門という武士を婚約者に決めたと聞かされ、家出をしてしまいますが、この駒沢次郎左衛門は阿曽次郎のことでした。そうとは知らない深雪は、朝顔という名の三味線引きになって諸国を放浪するうちに目が見えなくなってしまいます。

 そんなある日、島田宿で客から声をかけられ座敷に呼ばれましたが、この客は偶然にも阿曽次郎でした。阿曽次郎は先を急いでいたので深雪とは気づかず、深雪も目が見えなかったので気が付きませんでした。後になって阿曽次郎だったと知った深雪は、後を追いましたが大井川が増水し、川越ができませんでした。悲嘆にくれた深雪は川に身を投げましたが、宿屋の主人が川に飛び込んで助けます。宿屋の主人の献身的な行為のおかげで目が見えるようになった深雪。目を開けて最初に見えたのは、ここの松でした・・・

 

 朝顔の松公園を過ぎ、右手に島田市博物館が見えてきます。

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 大きな博物館です。川越についての展示もあるようですが、先を急ぎます。



大井川川越し

 博物館前にあった、川越の碑です。浮世絵が、昔の川越をリアルに表現していますね。

 手前は、連座を担いでいる川越し人足。

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 いよいよ大井川です。

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 こちらが、安藤広重の「東海道五十三次」嶋田宿の川越の画です。

 現代では、まっすぐ行って川越をするのではなく、迂回して橋を渡ります。

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 渡り始めです。それにしても、長いですね。先がどこまでもどこまでもあって、全然見えません。

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 さぞかし大きな川だろうと想像していましたが、水量は拍子抜けするくらい少ないです。

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 中ほどに、かろうじてこの程度の水量がありました。

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 水量は少なかったけれど、本当に長い長い橋でした。風も強くて、渡るのに10分以上かかったような・・・ 大井川のすごさは、よくわかりました。ふうぅ・・ やっと着いた。

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 橋を渡り終えましたら、左へ川沿いに進みます。


 右へ曲がる道が、旧街道です。表示が出ています。

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金谷宿川越し場跡

 島田宿側の川越遺跡は、これでもかこれでもかというくらい充実していましたが、こちらはほとんど残っていません。この小さな公園くらいですかね。

 公園内に、仲田源蔵の像があります。架橋により職を失った川越人足に、職業をあっせんしたりして困窮を救った人です。

 いつの時代にも、志の立派な方がいるのですね。

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 こちらが、仲田源蔵像です。

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 次のチェックポイント・日本左衛門首塚へは、この「東町中」のバス停を左へ。細道なので「え?」と不安に思うかもしれないけれど、大丈夫です。(「え?」と異を唱えたのは街道ウォークの相棒にしてオットの「くろやぎ」ですが、かまわずずんずん進んだ次第です。)

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日本左衛門首塚

 首塚のある宅円庵です。

 

 

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 日本左衛門とは??? という疑問が浮かびますね。読みにくいですが、説明板をアップします。

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 日本左衛門は、遠州の生まれではないかと言われています。

 歌舞伎の「白浪五人男」の日本歌右衛門のモデルにもなっています。

 義賊といって、盗みはするが非道なことはしない盗賊で、金持ちから巻き上げて貧乏人にばらまくという所業をしておりました。処刑された後、その首を金谷宿の愛人であった「おまん」が盗み出して、ここに密かに葬りました。

 

 宅円庵の説明板もアップしておきますね。とても読みにくいですけれど。慶安4年の開創だと書いてあります。

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 宅円庵に行くために街道をそれていましたが、元に戻ります。

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 何やら説明板がありましたので、近づいてパチリしてみました。

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 江戸時代に建てられた旧家・加藤家が、つい最近まで残っていたのですね。復元を目指しているとのこと。ぜひお願いします。


 これより「秋葉神社」なるものが、バイブルにしているガイドブック『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(八木牧夫 山と渓谷社)に3つ連続でチェックポイントとして地図上に示されています。

 「一つくらいは、まちがいじゃないのか?」「一個多く載せているに違いない。」としきりに失礼なことを言う「くろやぎ」でしたが、ちゃーんと3つありましたよ。

 順番にアップしますね。

 

秋葉神社

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秋葉神社

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秋葉神社

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秋葉神社



 

秋葉神社

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秋葉神社

 3つめの秋葉神社には、道程を示す石柱もありました。

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秋葉神社

「東海道金谷宿中町 江戸より53里 これより京都71里」ですって。最近立てられたものですが、里程がわかると感慨深いですね。それにしましても「江戸→京都」、まだ半分まで来ていないのですね。53と71ですって。

 

 宿場の中心に向かいます。

 

山田屋本陣跡

 空地のようなところに、説明板が立っています。

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山田屋本陣跡

 

 説明板に近づいてパチリします。

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 本陣は、大名など偉い方の休憩所&宿泊施設です。

 金谷宿の本陣は、最初は柏屋本陣と佐塚屋本陣の二軒で、この山田屋本陣は脇本陣でした。徳川の本陣は最初は柏屋でしたが、大井川の満水について浜松まで飛脚を飛ばして注進するのを怠ったために、山田屋に宿泊所が変更されました。その際、山田屋は本陣に格上げされたようです・・・といったことが書かれています。


佐塚屋本陣跡

 本陣は「佐塚書店」になっています。なんかカッコいいな。

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佐塚屋本陣跡

 説明板をアップします。

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 当初より、佐塚佐次右衛門が勤めました。

 門の屋根には対の鯱があったので「鯱の御殿」と呼ばれていたのですって。立派な門でしょうね。見てみたいなあ・・・

 

柏屋本陣跡

 跡地は、JA大井川になっています。広い敷地。さすが一番本陣。

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柏屋本陣跡

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 説明板をアップします。

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 代々「河村八郎左衛門」名乗る家で、本陣と名主を務めていました。

 表間口19間5尺(佐塚屋の表間口は13間、山田屋は6間と説明板に書いてありましたから、それだけでも、とても大きいことがわかりますね。)で、尾張徳川家・紀伊徳川家の定宿でした。

 嘉永7年(1854)の大火で焼失し本陣を廃業しています。

 

角屋脇本陣跡

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 説明板をアップします。脇本陣は、本陣の予備的な立ち位置です。参勤交代などで、二つの家が鉢合わせた場合は、格式が下の家が先に本陣にいたとしても、脇本陣に退いて譲りました。浅田次郎さんの小説『一路』の世界ですね!

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 この辺りの街道の様子を1枚・・・

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お七里役所跡

 

 このチェックポイント、見つからなくて困りました。1回のウォークにだいたい1か所は、こういうことがありますが、今回はここでしたか・・・!

 ガックリしたものですが、最近はトランプのじじぬきの「じじ」がわかるみたいで、おもしろいかも。いや、そんなことはないですね。「くろやぎ」は不機嫌になって「見つからないものはどうしたって見つからないから、とっとと先へ進め」みたいなオーラを出すし。

 こういう時は、グーグル先生に聞くのがよろし。どなたかのブログを拝見して、かつて説明板があった場所の写真に写り込んでいる建物を発見。

 お七里役所跡、この駐車場ですね。できれば、説明板(バイブルには「ある」と書いてあります。)を残しておいていただきたいです。ぜひともよろしくです。

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 角度を変えてもう1枚。今後のウォーカーの方の参考になれば。

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定飛脚問屋跡

 江戸と京大坂間の民間飛脚屋で、月に三度往復したことから、三度飛脚と呼ばれました。

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定飛脚問屋跡

 説明板をアップします。

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 街道をてくてく歩きます。かつては往来が賑やかだったのでしょうが、静かです・・・ もうすぐ金谷駅。本日の街道ウォーク、終盤です。日暮れと競争の「走れメロス」状態にならずに済みそうで、よかったです。

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金谷の一里塚跡

 土手の上が金谷駅のホーム。一里塚の説明板は、この写真ではわかりにくいですがガード下手前にあります。

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金谷の一里塚

 

 説明板が立っているのがわかりますか?

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長光寺

 ガード下をくぐり、石段を上がりますと長光寺です。

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 石段上から、金谷の駅方向を見下ろしたところ。

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 長光寺本殿です。

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 このお寺がチェックポイントなのは、境内にこの芭蕉の句碑があるからでしょう・・・

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 「道のべの 木槿は馬に 食われけり」という句です。

 

秋葉山常夜燈

 

 本日最後のチェックポイントです。

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 チェックポイントではありませんが、おまけ。不動橋です。西入口土橋と呼ばれ金谷宿の京(西)口でした。

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 説明板があったのでアップします。

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 坂を下ってきた大名行列は、北側にあった休み茶屋(たばこ屋善五郎)で休息し、身なりや隊列を整えてから、整然と宿場に入ったのだそうです。まさに『一路』だなあ・・・ 目に見えるようです。こういうのを想像するのが好きで、街道ウォーク

がやめられません。

 

 JR金谷駅に到着しました。江戸時代の旅人ではありませんので、ここから電車で帰ります。

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 駅前ロータリーです。山が迫っているこじんまりしたロータリーですね。

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 ここまでお付き合いくださりありがとうございます。
 今回のウォークは、実施後なかなかブログを書かなくて・・・。年末年始を挟み、記憶を掘り起こし・・・。帰ってきたら間を置かず書くべしと反省しています。次回はもっと早く書きますね。

 

 近日中(たぶん)に「まちなみウォッチ」をアップします。またよろしくお願いいたします。

まちなみウォッチ 藤枝→島田

 藤枝→島田のウォークで、ガイドブック『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(八木牧夫 山と渓谷社)で名所旧跡としているチェックポイントとは別に、いいなと思った風景や、「ん?」と気になったあれこれをレポートします。

 気まま&勝手なチョイスですので、ゆるりとお付き合いください。

 

スタート地点の藤枝宿問屋場跡の近くにあったお店を二つ

 

 「そばがら」の掛け紙に惹かれました。私、枕は断然そばがら派です。ふかふかは、どうにもこうにも物足りなくて落ち着きません。皆さんは、ふわふわ派ですか? 固めがお好みですか?

 「手作り綿座布団」もいいですね! ここで手作りしているのかしら? だとしたら貴重なお店ですね。

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 「お茶と椎茸」の看板に魅かれてパチリ。お店の中の様子は見えず、何のお店やさんか、いまひとつ謎だけれども。お茶と椎茸、全然別物だけれど、組み合わせとして不自然でない感じが面白いです。

 椎茸茶ってのもありそう。それとも、干しシイタケとお茶と、両方売っていますよってことかしら??

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葦中観音堂の近くにあったそろばん学校の看板

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 そろばん塾・・・子どもの頃、はやっていたなあ・・・ お習字・そろばん・ピアノ、昭和40~50年代の小学生の習い事のスタンダード。たまにクラッシックバレエとか絵画の教室に通っている子がいると「おおぉ!」って感じでしたっけ。

 私は習字とピアノでした。そろばんはさっぱりわからなくて。4年生の時、ちょっとだけ学校の授業でやったけれども、習っている子の早かったこと! こっちはチンプンカンプン。

 最近は、そろばんを習っている子はあまりいないのでは? そもそもそろばん塾ってあるの?と思っていたらこの看板。すらすら暗算できたらカッコいいよね。がんばれ子どもたち。

 

 津島神社と田中藩領傍示石跡の間にあるこの場所に、うれしい看板。

 東海道を旅する人に、「どうぞ中に入ってお休みください。お手洗いを使ってください。飲み物の用意もあります。」ですって。

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 でも、今ではテナント募集中となっていて、そのようなスペースもありません。バイブル『ちゃんと歩ける・・・』では「さわやか住宅」と表示されています。不動産屋さんのお店だったのかしら?とくろやぎと推測しました。

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 今でもベンチがひとつ、外の看板の脇に残っていて、ちょっと腰かけることができます。閉店してしまったのは残念だけど、ベンチを残してくれている心遣いがいいなと思いました。

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 古東海道跡の道沿いの柿の実。青空に映えています。どこにでもありそうな風景だけれど、いいなあ・・・ 秋ですね。秋は街道歩きに向いている。コロナさえなければ。

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古東海道からみた風景

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 なかなかの見晴らしです。これだけ高いから、水害の時も迂回できたのですね。

 

 藤枝市自主運行バスというのの、バス停発見

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 「予約しないと来ないの?」とツッコミをいれたら、「前の日の夕方までに予約すれば、自分のためだけにちゃんと来てくれるんだから、すごいだろーが」とくろやぎ。確かにそうだね。すごーい!

 

 東海道追分の先の松並木です。趣があります。街道を歩いてるって感じ。

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 千貫堤の近くにあった花梨の木。たくさん実が成っていますねー

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 花梨の実のはちみつ漬、毎年作っているのですが(のどの薬)、今年は手に入らなくて・・・。いいな、花梨の実。

 

 キャベツや白菜のポット苗の無人販売がありました。へーと思ってパチリして裏に回ったら・・・

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 こんな貼り紙も! めだかの絵がかわいい。

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 銘酒「喜久酔」の青島酒造の近くでのひとこま。

 郵便屋さん、ご苦労様です。

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 瀬戸橋を渡った先の松並木です。

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 これをアップするかどうか迷ったのですが・・・やはり載せておきましょう。

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 お昼に食べた持ち帰り専門の唐揚げ弁当のお店。適当な飲食店がなかったので。

 味はよかったのですが、量がすご過ぎて・・・

 小盛、並み、大盛があって、欲を出して並にしたら、大きな唐揚げが5~6個、大盛の白いご飯の上にゴロゴロ乗ってる。おなか一杯過ぎて全部は食べられなかった。くろやぎは、私の分も食べる羽目になり(ごめん)、二人とも当分唐揚げは食べる気がしません。うぅぅぅ 安いお値段でたくさん食べてくれという優しい心遣いのような気はするけれど、苦しい。

 忘れられない強烈な旅の思い出となりました。

 

 しばらく、東海道本線と並行して歩きます。電車の音がしたのでパチリしました。わかりにくいですが、一応、電車が走っているのが写っています。

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 懐かしい感じのお店だったので、パチリしてしまいました。

 

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 六合駅手前あたりの街道写真を二枚

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 島田市コミュニティバスのバス停を発見。

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 一日7本ですって。これは、多いのか、少ないのか?

 ところで、「島田市緑茶化計画」って?

 

 島田宿の商店街にあった和菓子屋さん「清水屋」

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 ここで小饅頭を買いました。

 島田宿の名物と言えば小饅頭。江戸時代、茶人としても知られる松平不昧公が、島田宿を訪れた際に出された酒饅頭を大そう気に入り、食べやすく一口にするとさらによいとアドバイスをしたことで、小饅頭になったとか。和菓子に目がない私は、ここだけはと今回チェックを入れていて、購入に至ったわけです。

 ですが、老舗の割には町の小さな和菓子屋さん。あとで調べたら、ここは「七丁目清水屋」といい、かのお店は駅前に本店がある「元祖清水屋」だったと判明しました。

 そうは言いましても、店主の年配の男性は優しそうな方だったし、肝心のお饅頭もとても美味しく、◎です。

 元祖については、次回機会がありましたらリベンジしたいと思います。

 

 これも商店街の中のお店。やっぱり和菓子が好き。しかも、老舗より、こんな感じの町の和菓子屋がとても気になる。

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 本陣で見たこの子はだれ? 

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 後で調べたら、島田市商工会キャラクター「おしまちゃん」だとわかりました。かわいい。

 

 家に帰って来て、小饅頭をいただきました。しあわせ。旅の疲れをいやすのは、やっぱりお土産の和菓子。

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 ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。

 

 できれば年内にもう1回、街道ウォークをしたいと思っています。またよろしくお願いします。

 

第30回街道ウォーク 藤枝→島田

 お久しぶりです・・・

 先日、10月22日(土)、コロナ禍で自粛していた街道歩きを再開しました。なんとまあ、1年ぶり! ブログの更新も3ヶ月ぶり・・・ 久しぶり続きで本調子ではありませんが、どうぞお付き合いください。

  ウォークのバイブル『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(八木牧夫 山と渓谷社)でのチェックポイント(名所・旧跡)に沿って振り返ります。

  約1年ぶりの藤枝駅です。前回は、最終地点の「藤枝宿・問屋場跡」で、バスの時間があまりに先だったので、ここまでぽくぽく歩きましたっけ。歩いているうちにどんどん日が暮れて、ぴゅうぴゅう風も吹いてきてみじめだったなあ・・・

 今回はご覧の通り、お天気もまあまあよくて、やる気のでる朝です。

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 駅前より、岡部行のバスに乗り、問屋場跡に向かいました。前回歩いた道を眺めているうちに、あっという間に到着。

問屋場跡

 なぜか、「交番だった」と鮮明に覚えている問屋場跡。くろやぎ(街道ウォークの道連れ&夫)の反応は「そうだったかな」と、???

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 こちらが前回の写真です。やっぱり薄暗いなあ。夕方だったものね。

 さて、いよいよ元気に出発です! 目指せ島田宿。

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正定寺

 本日最初のチェックポイント・正定寺の山門です。

「生きているか 生きていくか」という謎かけ問答のような言葉が掲げられているのが面白かったです。

   生きているし、生きていかなければならないんでしょうねえ・・・ 

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 門より一歩中へ入りますと、本堂に向かって右手の見事な枝ぶりの松に目を奪われます。

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 これで1本の樹だなんて、驚きです!

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 この「本願の松」は、田中藩主土岐頼稔が、享保15年(1730年)に、大阪城代に出世した記念に寄進したものだそうです。石碑と説明板をアップします。

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 古図などにも描かれているそうですよ。

 

 本堂軒下の言葉。「秋天一碧 雲一つない秋の空」 いいなあ、こういうの。

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西木戸跡

 バイブルによれば、「標識等はなし」。確かに何もなくて、おそらくこのへん?

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 これより宿場を出て、西へ。

 

 勝草橋を渡ります。下を流れるのは瀬戸川。

 「勝草」という橋の名前は、勝軍(かちいくさ)が訛ったものだとか。

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 田沼街道の説明があったので、ついでにアップしておきますね。

 

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志太の一里塚

 日本橋から五十里目の一里塚跡です。秋葉神社石祠と常夜燈も。

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 説明板をアップします。

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 一里塚跡の全体風景はこんな感じです。そうと知らなければ、ただの風景・・・(すみません)

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 ちなみに近くにあった案内板ですが、これによれば橋を渡って、道路をはさんで一里塚跡と常夜燈がそれぞれにあったようです。実際には、橋を渡って右側に常夜燈と一里塚跡が上の写真のように並んでいます。一里塚跡があったと思われる反対側には、お料理屋さんがありますが、一里塚跡らしきものはありません。かつては碑があったけれども、建て替えなどの時に、反対側にあった常夜燈の隣に移したのではないかと、推測しています。

 バイブル『ちゃんと歩ける・・・』には、現状通りの(片側に常夜燈と一里塚跡が並んでいる)の記述になっていますので、ご安心を。

 って、誰に言っているかって、『ちゃんと歩ける・・・』を見て街道歩きをする人ね。

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為善館跡

 明治6年(1873)、このあたりに寺子屋が寺子屋が学校化したような学舎が創設されました。

 明治19年に統合で前島学校志太分教室になりましたが、その頃は120名くらいの子どもが学んでいたそうです。明治23年、青島尋常小学校が開校したため、閉校となりました。

 先ほどこのあたり・・・と書いたのは、明治43年に、さっき渡ってきた瀬戸川の大洪水で学舎が流失してしまって、はっきりとした場所がわからないからです。

 唐突ですが、私の母校(公立小学校です)は明治7年に開校し現在に至ります。同じ頃開校した学校の運命に思いを馳せ、少ししんみりしてしまいました。

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葦中観音堂

 前述の為善館も流された明治43年の瀬戸川氾濫で、被害から免れたことから水除観音と呼ばれるようのなった観音堂です。

 ・・・なのですが、入り口、わかりにくいです。こんな木の立札がたっているものの、この先は私有地のような雰囲気ですが、ためらわず入っていってください。

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 観音堂というより、民家のような・・・。でも確かに観音堂です。水難の死亡者の供養碑があります。

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 軒下の短冊のひとつに「コロナ早く終息」というのがありました。本当に・・・切に願います。

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名残り松

 道路に大きくせり出した名残り松。がんばって。ビッグセールの看板が似合わな過ぎ。(ごめん)

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岡野繁蔵出生地標石

 明治27年(1894)に、ここ青島村で生まれた岡野繁蔵は、27歳でインドネシアに渡り「千代田デパート」を経営し隆盛を極めました。終戦に伴い日本に引き揚げた後は衆議院議員となり、昭和50年に81歳で亡くなりました。

 という、まあ、このあたりの名士なのでありましょう。街道の名所旧跡という気は、あまりしない。

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名残り松

 こちらも道路に大きく張り出した松。このあたり、風が強いのかしら?

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 青木の分かれ道です。なんと、3つに分かれていますが、真ん中の細い道が旧街道です。間違えないように。

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津島神社

 小さな祠です。祭神は建速須佐之男命。詳しくは、祠の軒下に掲げられていた説明書きをアップしますので、そちらをご参照ください。

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田中藩領傍示石蹟

 田中藩と掛川藩との境を示す傍示石があったところです。書家藪崎彦八郎の字で「従是東田中領」と刻まれた見事な傍示石だったそうです。

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秋葉神社

 またまた祠のような小さな神社です。脇道をほんの少しだけ入ったところにありました。バイブルに説明はなく、現地にも説明板はありませんでした。

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鏡池堂

 龍神が棲んでいる鏡ヶ池から出現したという六地蔵が祀られています。とても古いお堂で、東海道筋の霊験あらたかな由緒ある霊場として、人々に信仰されていたそうです。

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古東海道跡

 「瀬戸の山越え」と呼ばれる古東海道。東海道が新設されても、大井川が氾濫すると、人々はこの道を使った・・・とバイブルに書いてあります。

 なかなか趣のある細道です。つい、入ってみたくなります。ということで、入ってみましょう。この先に、次のチェックポイントの水神社があるようです・・・

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 好きだなあ、こういう道。街道歩きをしていて嬉しくなる瞬間。

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水神社

 しばらく歩くと開けた場所に、小さなこざっぱりした祠がありました。

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 裏手に小学校があって、子どもの声も聞こえます。

東海道追分

 この辺りは池や湿地が多かったので、かつてはそれを迂回するように山裾を行く古東海道が通っていました。

 東海道が鏡ヶ池の六地蔵を通るようになったのは、開拓が進んだからです。東海道と古東海道の分かれるところが、ここの追分です。

 という説明なのですが、地理や地名が頭に入っていなくて、いま一つ、明確にイメージできませぬ。説明板を上げておきます。

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千貫堤

 千貫堤は、大井川の氾濫から田中藩領の村々を守るために築かれた堤防です。寛永12(1635)年に田中藩主となった水野忠善が幕命を受けて築造に取り掛かりました。規模は、全長500m超、幅32m、高さ3.6mほどと推定されます。千貫もの莫大な費用が掛かったことから、千貫堤と名付けられたと伝えられています。

 現在も、長さ65m、幅約30mほどが残っています。

 

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 標石のある脇道がいい感じだったので、ちょっと入ってみました。

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 いくらも歩かないうちに、「千貫堤瀬戸染飯伝承館」(月曜休館・入館無料)の案内の幟があったので、見学することにしました。

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 瀬戸の染飯(そめいい)は、戦国時代から瀬戸町の茶屋で売られていた旅人のための携行食です。強飯(もち米を蒸したもの)を、くちなしの実で黄色く染めてすりつぶし、小判型に薄く延ばして干して乾かしたものです。くちなしは漢方薬としても知られ、消炎・解熱・鎮痛・利尿などの薬効があるとされていました。

 案内人の方が、親切に説明してくださいました。(コロナ禍に東京から来たにもかかわらず・・・) くちなしの実が、100円で売られていたので買いました。くちなしといえば、お正月の栗きんとんの色付けに使うくらいですが、いろいろレシピが紹介されていたので、試してみようかなと思いました。まずは染飯から。

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 伝承館を出たところの風景です。ここ、ちょうど堤の上らしいです。

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染飯茶屋蹟

 街道沿いに染飯の茶屋跡の標石があります。スズキモータースの右横です。

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 あの古東海道の頃からあって、新しい東海道が通った後も、お店の場所を移して売られたのですね。人気の秘密は、くちなしの鮮やかな黄色を竹の皮で包んで、今で言うならインスタ映え? 薬効もあるというし、いいことばかり。

 説明板によれば、くちなしの実は、足腰が強くなるとか。へえーーー。

 

延命地蔵堂

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 染飯茶屋跡のすぐ近くです。

 寛永4年(1627)大井川氾濫の犠牲者供養に建てられたお寺・無縁寺というのがあったけれども、なぜか廃寺になって、この地蔵堂が残されているようです。

 延命地蔵尊が建てられ、千貫堤ができた寛永の大井川氾濫・・・

 

育生舎跡

 明治初年の小学校、育生舎の跡です。

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 先ほど通ってきた為善館は、明治23年に青島尋常小学校ができたのに伴い、発展的閉校となったと説明板に書いてありましたが、この育生舎だったのですね!

 

田中藩領傍示石蹟

 このあたり、藩が複雑に入り組んでいたようです。説明板も併せてアップしますので、詳しくはそちらをご参照ください。

 それにしても、前方の松並木、いい感じですね。街道らしい風景。

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青島酒造

 創業明治元年(1868)、銘酒「喜久酔」の蔵元です。

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八幡宮

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 バイブルに特に説明はなく、現地にも説明板はありませんでしたが、チェックポイントの八幡宮でした。小さいけれど、きちんと手入れされた本殿と、きれいな明るい境内でした。

鞘堂

 バイブルによれば、天保4年(1833)建立の秋葉山常夜燈を収め、その隣には明治天皇御小休所跡碑があるのだとか。

 写真を撮影したのですが、真っ黒に写っていて失敗。記憶もあまりなくて。道が合流するところにあって車の往来も激しく、焦っていたのかも。失敗失敗・・・

 

上青島の一里塚跡

 江戸日本橋より五十一里目。塚木はエノキだったそうです。現在は標石のみですが、松林があって、なんとなく雰囲気がわかるような。

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 説明板の写真を興味深く眺めました。

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丸七製茶

 藤枝の有名な製茶会社らしいです。

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 ようやく市境まで来ました。コロナ禍の影響もあり、なかなか抜け出せなかった藤枝市。お世話になりました。

 

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 六合駅手前の分かれ道。前方斜め右が旧街道です。間違えないように。

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昭和天皇御巡察之處碑

 うっかりすると見逃しそうですが、昭和天皇の御巡察碑です。

 明治天皇や大正天皇の碑はたくさん見てきましたが、、、昭和天皇はあまりないですね。珍しいかな?

 歴史の方というより、私の年代では子どもの頃にTVでお姿を拝見しているので、このような碑になっているのは不思議な感じ。

 

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「一言商店」というお茶屋さんの軒下に、碑があります。

「ここでお茶を一服されたのでは?」とくろやぎが勝手に想像しておりましたが、さてどうでしょう?

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 一言商店の製茶所(?)の様子です。

 

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 現在営業している店舗が、製茶所の隣にあります。

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 中に入りましたら、お店の方がお茶を入れてくださいました。幸せが身に染みて、ついお茶を購入してしまいました。雰囲気のいいおしゃれなお茶屋さんです。

藍物川と藍物橋

 歩道橋の下に流れる用水路が、監物川のようです。

 あの千貫堤を建設した田中藩主水野監物忠善が、水不足に悩む村々のために大井川から取水した水路を開削し、農民は感謝してその水路に藩主の名前をつけたのだとか。

 田中藩主水野さん、水対策に奔走されたのですね・・・

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 説明板をアップします。わかりやすいです。

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 感謝した農民は、「監物川」だけでなく、橋にも、「監物橋」と藩主の名前を付けたのですね! 

 人望の厚い藩主だったのでしょう。

東見附跡

  いよいよ島田宿に入ります。東側の入り口があったところです。

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 説明板もアップします。読みにくいですが・・・枡形があったようですね。

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「ようこそ島田宿へ」の旗に、嬉しくなりました。

 

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蓬莱橋口

 「蓬莱橋口」という表示を見つけることはできませんでしたが、地図と照らし合わせますと、この和菓子屋さんの角のようです。

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 この道をまっすぐ行くと蓬莱橋に着きます。好みの雰囲気の道なので、しばらくずんずん歩いてみたのですが、くろやぎ(同行人&夫)が不機嫌に! まずい、午後三時を過ぎると、体力・気力・許容量ともに低下するくろやぎだったっけ。

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 蓬莱橋は、対岸の牧之原台地の茶畑開墾に従事する人たちの往来橋だったとのこと。この道を、昔の人もてくてく歩いていたのですね。ロマンチックだなあ・・・

 世界最長の木造歩道橋ということで、現在も屈指の観光名所です。遠くからでもいいからチラリと見てみたかったのですが、くろやぎとの友好関係を優先して引き返しました。

 確かに、ルートから大きく外れますし、日暮れも迫っていますからね。暗くなる前に島田宿に着かねば。

 

 途中に島田宿についての案内板があったので、アップしておきます。 

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島田の一里塚跡

 江戸より五十二里目です。説明板が控えめに立っています。

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 塚木は榎。塚は普通は両側にあるものですが、東海道絵図によれば、当時から片側にしかなかったようです。

 

 この後、バイブルによれば「刀匠島田顕彰碑」ということになっているのですが、それはなくて、問屋場跡の石碑&説明板に行き当りました。

問屋場跡

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 説明板にさらに近づいてパチリしました。

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 問屋場は、旅行者に人足や伝馬を提供する宿場の中心施設です。ここの敷地は、間口14.5m、奥行き9.1m。常備人足は136人、伝馬は100匹でした。当時の賑わいが浮かびます。

 

 ところで、「刀匠島田顕彰碑」は?

 困った時のグーグル先生・・・ということでググってみますと、どなたかのブログで碑があるとされている全景写真に写り込んでいる建物を前方に発見! 下の写真の向かって右側のビルの間にありました。

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 バイブルに書き込まれている場所ではなく、道路をはさんで斜め向かい側ということになります。皆様(これから街道ウォークをされるみなさま)、気をつけて。

 

刀匠島田顕彰碑

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 判読不可能ですが、石碑に近づいてパチリした写真もアップしておきます。

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 碑の隣に設置されている「島田宿案内図」に島田顕彰について説明文がありましたので、アップします。

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 これが「案内図」です。宿場全体が大変よくわかる立派な案内図でした。

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 案内図の木枠にこんな張り紙が。

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 向かいのこのマンション、最近建設されたもののようなのですが、もともとはここに「問屋場跡」の碑があったのでしょうか? もしかして、「刀匠島田顕彰の碑」もこのマンションの場所に「問屋場跡」と並んでいたのかな? でもって、マンション建設に伴い、「問屋場跡」は数メートル江戸方向へ移し(さっきの場所)、「刀匠島田顕彰の碑」は道路をはさんで斜め向かいのこの場所に移したのではなかろうかと、推測しております。どうなんだろう?

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 江戸方面を振り返ったところです。右手の大きなマンションの向こうに見える茶色い屋根の低層の建物の前に「問屋場跡」の碑があります。

 マンションとは反対側に大きな建物(立体駐車場?)がありますがその隣の建物横に「刀匠島田顕彰の碑」があります。

 位置関係をわかっていただけたでしょうか?

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下本陣跡

 置塩藤四郎がつとめた下本陣跡の標石です。

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 「島田宿本陣跡」として説明板が出ていました。

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 下本陣・中本陣・上本陣まとめて「本陣跡」としているようですね。

 

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 この道をしばらく行きますと、奥に「御陣屋跡」あります。観光客を意識したお洒落なお店が並んでいます。時間があれば、思わず吸い込まれそうなお店がたくさんありましたが、あいにく日が暮れかかっていたので足早に通り過ぎます。

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御陣屋跡

 「御陣屋」とは、バイブルによれば幕府領を支配した代官所のようです。現地に説明板があったのですが、パチリするのを忘れました。日暮れが近くなり焦ってました。やはり蓬莱橋に行き時間なんてなかったですね。

 それにしても、なんだか寂しい跡地ですね。

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中本陣跡

 大久保新右衛門がつとめた中本陣跡です。呉服屋さんの角に石碑があります。

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上本陣跡

 村松九郎治がつとめた上本陣跡です。ホテルのエントランスに石碑があります。

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 ホテルの写真をあと2枚アップします。

 本陣跡が現在ホテルだなんて、おもしろいですね。本陣の流を汲むホテルなんでしょうか?

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 ホテルの名前は「三布袋」です。

 

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 道の向こう側からホテルを見たところ。


俳聖芭蕉翁遺跡

 静岡銀行の敷地にあるので、見つけやすいです。説明板もバッチリ。よく手入れされています。静岡銀行、ありがとう。

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 芭蕉は島田を度々訪れ、塚本邸に滞在しました。塚本家は代々も孫兵衛を名乗り、元禄9年(1696)初代の川庄屋を代官から任命されています。三代目孫兵衛は「如舟」と号して俳諧をたしなみました。

 元禄4年(1691)、芭蕉は江戸に向かう途中に、俳人として知られていた如舟宅を訪れました。芭蕉48歳、如舟51歳でした。これより二人は親交を深めていったのでしょう。

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芭蕉句碑

 さっきは静岡銀行でしたが、こちらは島田掛川信用金庫。こちらもきちんと手入れされていて、説明板もバッチリです。感謝。

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するがの国に入て 

するがぢや はなたち花も ちゃのにほひ ばせを

 

 

 有名な句ですね。

 

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 本日最終地点の、島田駅に到着しました。

 何とか、日暮れ前に間に合いました。これからどんどん日が短くなって、街道ウォークには厳しい季節となりますが、年内にあと1回、行きたいものです。

 越すぞ、大井川!?

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 ながながお付き合いくださりありがとうございました。

 近日中に「まちなみウォッチ」をアップする予定です。

 その時はまた、お立ち寄りください。

塩と砂糖と鳥と

今週のお題「自由研究」

お久しぶりです。

 

コロナコロナで、もともと亀の歩みだった街道ウォークは全く進まず、亀の甲羅どころかもはや石か・・・?

少しは書かねばと思い、今週のお題にエントリーしました。

えーと、自由研究ですね。

 

小学校6年生の時の自由研究の宿題で取り組んだことは覚えています。毎日毎日、新聞の地方版に掲載されている気温の報告を切り抜いて、折れ線グラフにしました。名付けて「多摩の夏の気温」(新聞の多摩版だったからね)

ショボ!! はっきり言ってすごくショボい。言うのも恥ずかしいくらい。でもまあ言い訳させてもらえば、①毎日欠かさず新聞を確保する ②ハサミで切り抜いて取っておく ③方眼紙に点をつけてつなげてグラフにするって、それなりに手間がかかったわけです。鉛筆をとんがらかさないと正確に図をかけないしね。超アナログな作業だなあ。今だったら新聞なんかでたどらなくてもデータがまとまってどこかのサイトにあるし、エクセルのグラフ機能を使えば正確でカラフルなグラフがあっという間に! 昭和の小学生、ご苦労さん。

 

そもそもどうせわかっていることを調べてまとめるって言うのは、「研究」なのか? ただの「作業」じゃん。だったら「夏休みにアイスクリームを作ってみたよ」みたいなテーマの方がいいんじゃないか? 氷と塩で作るやつ。でもって、「氷と塩でぐるぐるやるとなんでアイスになるの?」って調べる。でも、これも大方答えがわかっている自由研究のテーマの定番なのだった。そういうのって「研究」っていうのかなあ? それは調べりゃわかるただの「調査」でしょ。直球な正論で申し訳ないけれど、世間では答えがわかっていなくて自分ならではの何かが示せないと「研究」とは言えないのではないかしら? 誰かのなぞりではだめだよ。その辺のところを、学校の先生はもっと事前に子どもたちに伝えなければならないのではないかしら? 「研究ってなに?」ってことをね。

 

私がそう思うようになったきっかけは、大学生の時のゼミの教授(生涯の恩師として尊敬しています)の言葉です。私は国文学科の学生で、ゼミは近世国文学ゼミといいました。卒論のテーマを決める時、「近松門左衛門をやりたい」とか「井原西鶴」とか(「松尾芭蕉」といった人はいませんでした。教授は俳諧研究の第一人者だったので恐れ多くて避けておりました。)言う学生たちに一言。

「近松・西鶴ですか? そんなテーマは研究者がたくさんいて、あなたがたごとき学生が新しいテーマを見つけるのは至難の業です。地味かもしれないが研究者が少ないもの、たとえば地方の芸能などに自分で足を運んで調査して結果を出して学会に貢献しなさい。」

また、こんなこともありました。ゼミの実習で学生が、一生懸命に図書館で調べたことをレジュメにして発表するのを一通り聞いたあと、最後にひとこと。「で、それはどこに載っていました?」 「はい、〇〇の××××です。」 「ほー、それはあなた、孫引きですね。はっはっはっはっ」高らかに笑われ、一からやり直しを命じられたものです。

インターネットなどなく、コピペという言葉も存在しなかった頃のことです。学生たちの資料集めは自分の大学の図書館を起点に、他大学の図書館や都立図書館、時には国会図書館など。それこそ足を棒にして集めたのですが、集めるだけではダメなのです。「で、あなたはどういう考えで?」「そう思うのはなぜ?」に対する答えがないと。

孫引きはNGである、人とは違うオリジナリティを。この考えはその後の自分の生き方に、大きな影響を及ぼしていると言ってよく、今は亡きO教授は今でも私の絶対的な恩師です。

 

話がそれましたね。というのも、小学生の自由研究と大学生のゼミを一緒に考えるのも無理がありますものね。ですが、「自分だけの研究だぞ」という気持ちは子どもたちにも持っていてほしいと思うんです。

それには無理をしないことです。自分が本当に気になることをテーマにするんです。親に言われたことではなくね。これ重要。

もうひとつは、近道をしないことです。「無理をしない」と逆のことを言っているみたいだけど、さにあらず。「近道をしない」とは、「結論を急がない」ということ。気になることを深く深く掘り下げよう。掘り下げても掘り下げても満足できないくらい。そのくらい好きなことをテーマにするんです。

 

ショボかった気温調べの記憶とは別にもうひとつ、思い出に残っているシーンがあります。

あれは小学校2年生の時。母親がいないある日、台所(キッチンなんておしゃれなところではありません。あくまでも昭和の台所)で塩が入ったビンと砂糖が入ったビンを前にせっせと怪しい作業をしている私。通りかかったお姉さん(実の姉ではありません。当時、下宿している20代のお姉さんがいました。)が、「何をしているの?」と聞きます。「あのね、お砂糖とお塩を混ぜたらどんな味になるのか実験してるの。ナイショだよ。」

そうです。私はコップに水を汲んで、砂糖と塩を交代に少しずつ入れてスプーンでかき混ぜては味見をしておりました。甘いとしょっぱいが混ざると、どんな味になるのか? 「実験」という言葉を口にしたのもはっきり覚えています。誇らしい響きだったから。

ところが残念なことに、私の記憶はここで途切れております。飽きちゃったのかしら? もっとねばれば、未来の科学者が誕生したかもしれませんね。

そうそう、もうひとつ思い出しました。

3年生のときのことです。私は毎朝、家の近くの神社に行くのが日課でした。目的は境内にやってくるオナガに会うためです。オナガの真っ青できれいな姿に見とれていました。その姿からかけはなれた「ギーーーッ」という、かわいくない鳴き声の意外さも面白かった。そして、朝ここにくれば必ず会えるというのが嬉しかったんです。

家には教育熱心な親が買ってくれた子ども用の図鑑セットがあったのですが、他はともかくその中の「鳥」は、穴のあくほど眺めていました。野鳥が好きだったんです。これは今でも同じで、私は家の近くの川べりを歩いて、鳥の観察をするのが大好きです。子どもが小さいときには、ちょくちょく一緒に子ども向けの野鳥観察会に参加しました。楽しかったなあ。子どもをダシにして、本心は自分のため? また行きたいなあ。コロナが終息したら、一人でいいから観察会に参加したいと思っています。

 

あ、また話がそれてしまいましたね。

えーと、自由研究・・・。まとめますと、子どものみなさん、好きなことを思う存分掘り下げて、自分だけのなにかを見つけてね。今好きなことはたぶん、大人になっても好きなのでは? 大人のみなさん、自由研究を子どもの夏休みの宿題だと思ってしまうのはモッタイナイ。大人になっても自由研究しませんか?

これでまとまったかな? お・し・ま・い

 

一生座る椅子、見つけた

今週のお題「下書き供養」

 

 お久しぶりです。

 てくてくと街道を歩いたワクワク感をレポートするコンセプトのブログなのに、全然進まないじゃないですか。困ったものです。コロナめ! せめて、今週のお題で細々とつなぎますか・・・という感じでたまにアップしている虫の息ブログ、亀の歩みブログ。

 というわけで、今週のお題は「下書き供養」ですか。うーん、下書きはします。で、少し塩漬けにすることもありますが、基本必ずアップします。なのでたまっておりません。

 いや待てよ。一応確かめてみますと、下書きボックスには、作業途中に何かの拍子で間違えてダブルで保存してしまった記事がいくつかありますな。同じものが公開されているので、これはもう削除した方がいいかな。

 あ、一つだけ、書きかけてやめているのがあった。「今週のお題 買ってよかったもの 2020」。買ってよかったモノについて、正確な情報を調べようとして頓挫しているうちに時期を逃がしてしまったんだったっけ。

 なので、今回は、買ってよかったモノがなんだったのか、正確な情報はさて置き、ここに書いておこうと思います。

 

 買ってよかったモノの筆頭は、椅子です。

 昨年の今頃、在宅で仕事をするようになりました。ダイニングテーブルでパソコンに向かっていたのですけれど、どうせなら自分の空間が欲しくなりまして、2畳のサービスルームをリニューアルすることにしました。

 ここはもともと本を収納している空間でした。片側の壁にカラーボックス約4個分を組み合わせて設置、もう一方の壁には天井までの本だなをフル設置。そこにぎっしり、本(主に私がコレクションした絵本と児童書)が収納されています。我が家では「書庫」と呼ばれていた空間でしたが、床には何となく取り敢えずの物が置かれたり、洗濯物が干されていたり。こんなはずじゃなかったのに!

 

 今こそ、この不本意な状況を変えるべき! 

 一大決心してまず、そこに紛れ込んでいるモノたちをガンガン片付けました。それから、本を全部出して棚の中を拭いて、カーテンも洗濯。部屋に漂うほこりっぽさがなくなってナイスです。

 そのあと、確かニトリのサイトで、折り畳みのサイドテーブルをポチリました。パソコンの作業をしますからね。椅子は余っていた丸いスツールを持ち込んだのですが、これがダメなんですよ。パソコンで仕事をして夕方になると腰が痛くなるんです。この部屋専用の椅子を買おうと決めました。最初は2000~3000円くらいでお手軽なものを考えていたのですが、あれこれ調べれば調べるほどいい椅子が欲しくなりました。くるりと回転する椅子とか、リクライニング付きの椅子とか、こだわりの椅子はいろいろありますけれど、シンプルな方がいいのではないかという考えに傾いていきました。

 振出しに戻って、読書に最適な椅子ってないかしら? ほら、ここは、一応書斎ですから。居心地がいい空間にしたいから、安っぽいのはいやだな。見た目も大事。でも、一番大事にしたかったのは、「いくら座っても疲れない」ということ。そんなときに気になったのが「人間工学に基づいて設計」されたというカリモク家具の椅子でした。

 カリモクにはその名もズバリ「読書椅子」というのがあって、確か6万円くらいかな? いいお値段でありました。魅力的ではあったけど値段を見て冷静になったのと、パソコンに向かい合うときの椅子なら、これじゃないなと思った。そのころ、スツールではどうにも腰が痛くてダイニングチェアを持ち込んでいたのですが、なかなかいい感じだったんです。ならば、カリモクのダイニングチェアでどうかしらという考えに落ち着いたのです。

 ひじ掛けのありなしで少し迷ったけれど、なしを選択しました。読書をするときにはひじ掛けがあると疲れないそうなんですが、狭い空間なので、ひじ掛けがあったら出にくいでしょ? 座面および背当ては、布張りのクッション。背当ては、それこそ人間工学に基づいた絶妙なカーブになっているらしく、座面のクッション性も程よく計算されているらしい。布は、色はモスグリーンで材質は電車のシートみたいで懐かしい。見た目もレトロで◎。

 今、改めて、これは何という商品だっけと調べたら、カリモク60のアームレスダイニングチェア モケットグリーン です。HPはこちら。

www.karimoku60.com

 

 気になるお値段は、32670円。庶民の私にはちょっと贅沢だったけど、えいやっとポチリました。

 

 リモート期間中で考えることはみんな似ていたのか、えいやっとポチッた割にはなかなか届かなくて、2か月近くに及ぶ在宅勤務が終わりを告げる頃、それはわが家にやってきたのでした。部屋に置いた感じも、座り心地も期待通り。近年に置きまして自分への最大のプレゼントになりました。

 リモートワーク中に椅子は間に合わなかったけれど、その後、休日の読書にYouTube視聴に、もちろんブログ執筆にもマイルームはフル稼働。

 椅子に加えて、ウールの絨毯を購入したり、これまたウールの大判のひざ掛けをプレゼントしてもらったり(夫のくろやぎから)、冬もぬくぬくあたたかく、最近ハマったアーチストの生ライブ配信の視聴にもマイルームは最高の環境になっています。

 マイルーム万歳。おばあさんになってもここに座って本を読んで、ぬくぬく暮らしたい。一生座る椅子。それが「買ってよかったもの2020」です。

 以上、「ここに座る老後」というタイトルが残っていた下書き供養でした。

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私が雛祭りを祝う理由

今週のお題「雛祭り」

 

 女の子の幸せを願う3月3日の雛祭り。我が家には2人の娘がいますが、今年はどうやら対象のいない宴になりそうです。一人は1年前に家を出て一人暮らし、一人はバイトで遅くなるとやら・・・。延期する? いやいや、節分の豆まきを翌日にやる人はいないように、節句はその日にやりたい。で、何をするって?

 そうですね、まず、ちらし寿司は欠かせませんね。潮汁は蛤の有難味がわかる人が少ないから、普通の澄まし汁にします。ちらし寿司を作ることでたぶん燃え尽きるので、後は菜の花のお浸しと、食後の桜餅ですかね。

 

 雛祭りと言いますと、祖母の姿が思い出されます。

 私の母は、昭和20年2月25日に空襲に遭いました。ありがたいことに家族は全員無事でしたが、家もお雛様も焼けてしまいました。家には、母のお雛様の他に、母の姉と妹、母の母(つまり私の祖母)、母の祖母(私にとっては曾祖母)、全部で5人分、5組のお雛様がお座敷いっぱいに飾ってあって、毎年春になるとぱっと明るく、それは華やかだったと母から何度も聞かされました。それがその光景のままあっという間に燃えてしまったのですから、どんなに切なかったことでしょう。祖母は「お雛様には本当にかわいそうなことをしてしまった。」とこれまた繰り返し話していました。

   娘の私にお雛様を買うことは、母の悲願であり、私のお雛様は母にとって平和な時代に子育てができる喜びの象徴でもあったのでしょう。毎年、実家の和室に飾られる七段飾り。父や母が何より嬉しそうだったと、昨日のことのように思い出します。時は高度成長期。大人たちは明るく、世の中にも勢いがありました。

 そうそう、父方の祖母は大変な苦労人で、お雛様などというものとは、はなから無縁な少女時代でした。お雛様はお金持ちの家のお嬢様のものだというイメージを持っていたけれど、孫たちのきれいなお雛様を見るにつけ、何と幸せな時代になったことかと思うとしみじみ語っていたことがありました。

 母方の祖母は毎年この時期になると我が家を訪れてくれました。私の7段飾りの前に座り「お雛様、今年もお会いできまして嬉しゅうございます。」と語りかけながら深々と頭を下げるのでした。祖母はいつも必ず、「お雛様にお土産」と言って珍しいお雛菓子やちょっとした飾り物を持ってきてくれて、私はそれが楽しみでした。

 中でも、江戸前寿司の桶のミニチュアはとてもよくできていて私の宝物でした。現在は、我が家の娘のお雛様(木目込の立ち雛です)のガラスケースの中にあります。娘たちが幼いころ、いたずら心を出して「お雛様が出前を取ったのよ。」と言ったら、いくつかある中身のお寿司のうちのひとつが消えました。どちらかの娘の仕業か・・・。がっかりしたけど、お雛様が召し上がったと思うことにしました。ここで腹を立てることは、祖母は望んでいないでしょう。

 

 祖母や母の特別な思いを感じて育ったためでしょう。私は毎年、娘2人分のお雛様を飾り、3月3日には必ずちらし寿司を作ります。(実家では今でも両親が私のお雛様を出してくれていてありがたいことです。) 先ほども書きましたように、今年は主役の娘2人は不在ですが、男性陣(夫と息子)にちらし寿司をふるまい、私の幸せを願ってもらうことにします。

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音楽に飢えていたから

お題「#この1年の変化」

 

 高校時代の部活以来、合唱を趣味としてきました。ここ数年は毎年募集される市民合唱団で第九、メサイア、レクイエムなど外国の楽曲を。ところがコロナで募集は中止となり、無理もなかろうと納得していたのですが・・・

 なんか調子が悪いんですよね。何かが足りないというか・・・。あ、もしかして私には音楽が足りないんじゃないかと思い当たりました。歌ってない。鼻歌すらも。合唱団でクラスターが発生したとかいうニュース以来、合唱はすっかり世間からNG認定されましたからね。学校の音楽の時間だって、「マスクごしに小さな声で」とか「心の中で歌いましょう。」とか言われているようですよ。

 

 歌がダメならピアノはどうだろう? 音(音での表現)が恋しくなった私は、家の2階の部屋の片隅でしばらく放置されていた電子ピアノにかけてあった埃除けの布をはがし、これまたしまい込んであった大昔使ったソナチネアルバムの楽譜を引っ張り出して、あれこれ弾いてみたりしました。楽しい。ああ、こういうことに飢えていたんだなあと気が付きました。そう、あれは、春のステイホームの頃でしたね。今でも時々、ピアノに触ります。コロナが収まったら実家のピアノを弾いてみよう。それこそン十年ぶりに。母はびっくりするだろうなあ。練習しなくちゃね。

 ピアノを弾きたくなったこと。これが変わったことの一つ目。

 

 クリスマスが近いころ、仕事で音楽(クリスマスソング)を使いたいと思う場面があって、あーでもないこーでもないと試行錯誤し、Amazon Musicから音源をダウンロードしてスマホに保存するということに行きつきました。(若い人たちには当たり前なんでしょうが、こちらカセットテープとウォークマンの世代ですからね。大変なんですよー)  それがきっかけで、通勤の行き帰りにスマホで音楽を聴くようになりました。しばらくのあいだAmazon Musicから楽曲を購入しスマホの音楽アプリで聴いていたんですけれど息子が、「Amazon Music Unlimitedにすればいいじゃん。」と教えてくれてそのようになりました。コロナ以降、ちょいちょいアマゾンで買い物をすることが増えてプライム会員になっていたので、特別価格です。月額780円で音楽聞き放題というのは、聴きたい人にとっては悪くない話だなと思います。

 いろいろ聴いてみて気に入った曲はプレイリストに入れています。リストのフォルダには好きなアーチストの他、「テンション上がる」「応援歌」「懐かしい感じ」「心に沁みる」などの名前をつけて、どれにも分類できないのも、とりあえず「いいね」と名付けたリストに入れておきます。そうしましたら音楽を聴くのはもちろんですが、自分のリストが構築されていくのがすごく楽しくなりました。朝はいつも「テンションが上がる」というリストの音楽を聴いて元気に出勤。帰りはその時の気分でいろいろ聴いたり、リストに追加したり。

 通勤のお供に音楽を聴く楽しみができたこと。これが変わったことの二つめです。

 

 さて、Amazon Musicにしていますと、「あなたにおすすめ」ということで楽曲が紹介されます。昔懐かしい曲をググったせいか、およそ自分では聴かない懐メロとか、見事に外れたおすすめも多いのですが、あるとき、とあるアーチストの楽曲が流れまして、ハマりました。一目ぼれです。いや見えてはいないから、なんていうんだろう? まあそんなニュアンスです。わりと最近の話なのですがハマったらあっという間で、生配信ライブを視聴したり、過去のYouTubeをチェックしたり。

 おかしい。ン十年の人生で、私はこんなふうにアイドルとかアーチストとかにハマったことはなかったのに。コロナが私を変えたのか、私がコロナで変わったのか? (あ、どっちも同じ意味かな?)

 まあ、それはさておき、ライブの生配信はいいですね。音源は、CDなどの方が完成されているのでしょうが、いまここでという臨場感は格別です。それがファンの心理らしい。コロナがおさまったら、このアーチストのライブに行きたいです。絶対行くぞー。

 アーチストにハマる感じを知ったこと。これが変わったことの三つめです。

 

 子どもたちが成人し、一人の大人として私の手を離れていったところで、ステイホームの流れになり、半ば必然的にあれやこれやと今までにない楽しみが生まれたといったところでしょうか。これも悪くないなと思います。コロナを乗り切った(そうなると思いたい)次の1年後には、私の中で何が変わっているのでしょうか。