てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

小田原宿ってどんなとこ?②

 小田原宿ってどんなとこ? 

 2回目は、中世から現代までの小田原の歴史を振り返りながら、江戸時代の小田原宿に思いを巡らしたいと思います。

 

小田原はなぜ、ここまで大きな町になったのか?

 いきなりですが、なぜでしょう? 小田原と言えば、全国屈指の観光地。自治体の規模も大きそう。人が集まる地域には理由がある。さて何でしょう?

 ずばりそれは住みやすさです。

 住みやすくしている要因は、なんといってもまずは、恵まれた地形

 小田原市のある足柄平野は、北は丹沢山地に、東は曽我丘陵と呼ばれる丘陵地帯に、西は箱根の山々に囲まれています。平野の中央を流れる酒匂川(あの徒歩渡しの・・・)は、富士山や丹沢山地が源流で、その清流が注ぎ込むことで、平野に美しい自然と肥沃な土壌がもたらされました。

 平野の南側は相模湾に面しています。黒潮の影響で一年を通して暖かく、雨量も適度です。

 このように地形の条件の良さから豊かな大地と温暖な気候が実現したことで、小田原は生活の快適さだけではなく、梅やみかんをはじめとした多くの農産物が特産品となり、町を支え、現在に至ります。

 

戦国時代は後北条氏の城下町だった。

 地形と気候に恵まれた場所の多くがそうであるように、足柄平野にも、旧石器時代から人が住んでいた形跡があります。15世紀初めには、大森氏により、現在の県立小田原高校がある丘陵付近に、お城が築かれています(小田原城の始まりです)。そして戦国時代になって北条早雲がこれを攻め落とし、以後五代約100年にわたり、北条氏による平和的な支配が続きました。北条氏はこの間に領土を広げ、関東一円を支配するまでになりました。
 全長9kmにも及ぶ城郭という戦国最大の規模を誇る小田原城は、上杉謙信や武田信玄からの侵攻にも耐え、難攻不落の城といわれましたが、1590年、豊臣秀吉により、ついに攻め落とされてしまいます。秀吉は石垣山に一夜城を築き、25万の兵を率いて小田原城を囲みました。籠城戦の末の落城。これをもってして、秀吉の全国統一がなされました。

 この後、秀吉は家康に、関八州と引き換えに駿河を差し出すように命じ、小田原は徳川の領地になりました。

 

江戸時代は東海道の宿場町

  さて、関八州が徳川の領地になった時、家康の居城は当然小田原城になるかと思われたのですが、白羽の矢が立ったのはまさかの江戸。これには誰もがびっくりでした。「草ぼうぼうでじめじめした荒れ地の江戸? それはないでしょ?」って感じですかね。あえて江戸にしたのは、「広大な関東平野を背後に開拓をして大都市を築こうじゃないか」という家康の賭けや先見の明もありました。でもそれだけでしょうか? 古くから拠点となっていた城下町・小田原があったのになぜ?

 疑問はいったん脇に置いて、江戸時代の小田原がどうだったかといいますと、東海道屈指の宿場町として、大いに繁栄しました。本陣4軒、脇本陣4軒、旅籠95軒、総家数1542軒という記録が残っていますが、品川宿に匹敵する規模です。(これまで通ってきた他の宿場町より断然多いです。)

 また、「箱根越え」の難所を控えた交通の要所として、小田原には数多くの人・物・文化が往来しました。江戸時代の人は「小田原までは江戸のうち」と言いましたが、小田原は「関東への出入り口」であると同時に、ただの出入り口以上に中継点としての役割も大変大きかったのではないかと思います。最近の言葉では「ハブ機能」って言うんでしたっけ?

 家康は、奥座敷江戸の手前に、ハブ機能を備えた堅牢な町を配したかった、それが小田原だったのでは? それを視野に入れたうえでの江戸の居城だったのでは?

 前回、小田原を一言でいうと「関東の出入り口として大いに栄えた城下町」とまとめましたが、江戸のハブ機能・小田原宿と言い直させてください。

 

文化人に好まれ、交通網の整備とともに発展した明治以降

 明治4年(1871)の廃藩置県以降、小田原藩は小田原県→足柄県→神奈川県と、管轄が変わりました。

 小田原は風光明媚な土地柄から、これまで通ってきた湘南地区同様、多くの財界人・文化人に愛され、別荘地・避暑地としても賑わいました。明治時代には伊藤博文や山縣有朋、大隈重信、大正時代には北原白秋や谷崎潤一郎、三好達治など錚々たる顔ぶれですが、これだけ発展した背景には鉄道の敷設があったことも忘れてはなりません。
 小田原にとってショックな出来事だったのは、明治20年(1887)に、東海道本線が国府津から小田原を通らずに御殿場・沼津へ行く経路を取ってしまったことです。しかし、これを契機に小田原経済界のリーダーたちは小田原・湯本間を走行する馬車鉄道を始動しさせました。続いて、小田原・熱海間を結ぶ豆相人車鉄道も開業し、小田原は京浜地域と熱海・箱根の観光地をつなぐ重要な拠点となりました。(またしてもハブですね。)
 昭和2年に新宿・小田原間に小田急鉄道が開通すると、都市部との結びつきが一層濃くなり、昭和39年の新幹線開通により、広域にわたり都市間を結ぶ中継地になりました。(広域ハブ機能ですね)

 現在人口は192116人(平成30年1月1日現在)。小田原は現在も都市間を結ぶハブ機能を備えた交通の拠点として、その役割を存分に果たしています。だからこそ、観光地としても発展し続けているのだと思います。

 

小田原発展の秘密は恵まれた地形に加えてハブ機能というまとめでいかがでしょうか?

 

 ここまで読んでくださりありがとうございました。

 あと1回、小田原宿について書きたいと思います。いつになるか・・・


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小田原宿ってどんなとこ?①

 昨年9月から始めた週末東海道ウォーク、国府津まで来て、「さあ次は小田原宿だ!」と張り切っていたのですが・・・

 先週の木曜日の夜、職場からの帰り道、残雪に自転車を乗り上げて転倒してしまいました。横倒しになった上に、膝の内側に自転車のペダルが食い込んだようで、痛くてすぐには起き上がれず。何とか家にはたどり着いたのですが、自転車はこげても歩くことができなくて。翌金曜日、足をひきずりながら仕事には行ったのですが、週末の街道ウォークはさすがに断念しました。

 というわけでネタもないし、何だかショックでブログの更新を少しさぼってしまいました。その間、訪問してくださった方、すみません。

 幸い骨に異常はなくて、足の調子はかなり回復しました。近々、ウォークを再開できると思います。それにしても、雪道、侮ることなかれ。あの日は、まだ道に薄く雪が張り付いているところがあって、夕方から水っぽい雪が降ってきて、路面全体が黒くなっていてよく見えなかったです。私が言うのもなんですが、皆さん、気をつけてくださいね。

 

 前置きが長くなりました。

 ウォークは進みませんが、ネタ切れなどと言わずに、ブログでは少し先を行こうと思います! まずは、小田原宿について、数回に分けてあれこれリサーチいたします。

 今日のテーマは、小田原宿をひとことでいうと?

 

  江戸を発ち東海道を西へ二十里余、品川宿より数えて九番目の宿が小田原宿ですが、徳川以前から、関八州を統一した後北条氏の城下町として繁栄していました。豊臣秀吉が家康に、駿府と引き換えに関八州を治めるように言い渡した時には、関東で家康が居城とするのは小田原に違いないと誰もが思ったくらいです。このことからもわかるように、後北条氏の時代から、小田原は関東への出入り口としての重要な拠点だったのです。

 「関東への出入り口」という役割は、江戸時代になっても変わりませんでした。あの徒歩でしか渡れない酒匂川の川越(かわごし)を無事に終えて一安心とはいうものの、このあとには険しい箱根の山越えが控えています。(川越しの後は山越え! 江戸の旅、ハードですね。) ここは一息入れたいところでしょう。また、小田原はただの宿場町ではなく、城下町です。しかも日本橋を発って最初の城下町です。今まで通ってきた宿場町とは規模が違います。旅籠の数も多く、観光や娯楽の場所もあって、旅人が鋭気を養うのに十分な規模の宿場町だったことでしょう。多くの旅人は、ここ小田原宿で二日目の宿をとっており、「東海道中膝栗毛」の弥次さん・喜多さんの宿泊地も小田原です。もっとも二人は、鋭気を養うつもりが散々だったのですが。詳しくは後日記事にしますので、お待ちください。

 江戸時代、「小田原までは江戸文化」と言われていたそうです。箱根の山の上には、厳しい関所がありました。人の行き来も、物資の流入も、文化の伝播も、小田原宿を超すのは、容易でなかったことでしょう。今でも神奈川県から静岡県に入ると、いわゆる「西」の文化圏になるような気がします。私が関東の人間だからかもしれませんが。

 

 というわけで、一言でいうならば、小田原宿は関東の出入り口として大いに栄えた城下町だった! いうことでいかがでしょうか?

 

 ここまで読んでくださりありがとうございました。

 次回も小田原宿について書く予定です。また、訪ねて来てくださると嬉しいです。

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やっぱりカツ丼かな?

今週のお題「ゲン担ぎ」

 それは今からン十年前の2月1日の朝でした。中学受験の当日に、母はカツ丼のお弁当を包みながら私に言ったのです。

 「人を押しのけて勝とうとする人には、なってほしくないの。でも、これは勝たなければ。」

 いつもはたいへんおおらかな母でした。それだけに、「ひえっ」と思ったことを、まるで昨日のことのように思い出します。子どもの頃の思い出の中で、そこだけ切り取ったように、すごーくすごーく怖い場面です。なんでだろう? 親の本音を見たからかな? 

 

 そんなことがあったせいか、私は我が子の受験に、カツ丼にはこだわりませんでした。「何が食べたい? 何でも作ってあげるよ。」とリクエストを取りますと、次女は「ハムカツがいいな」と言いました。「朝から揚げ物かぁ。めんど」と思いましたが、聞いてしまった手前、頑張りました。息子は「テンションが上がるから唐揚げにして」と言いました。ハイハイ、テンション大事ね。長女は「なんでもいいよ」と遠慮したので、こっそりお饅頭をしのばせましたら、「うわっ、ありがとう!」とメールが来ました。

 カツ丼じゃないけれども、私も子どもに何かやってあげずにはいられなかったのは、自分の母親と同じです。

 受験が近づくと、キットカット(「きっと勝つ」という、あれです。)やら、カール(「うか~る」とかいうパッケージの)やらをついつい買ってきてしまったバカな母親です。こんなことでしか、応援できないもんね、と言い訳しながら。母親のゲン担ぎ、我が子も内心怖かったかも。「ごめんね」とこの頃思います。

 

 ところで、あのン十年前の中学受験は、母親の念力が通じたのか、めでたく合格しました。今でも忘れません。夕方、掲示板で見つけた受験番号は「748」でした。

 その6年後の大学の受験の時です。とある大学の受験番号は「6748」だったのですが、受験票を見た父が言ったのです。「ぼくの大学の受験番号は74番だったな。74なんて、いいことナシかよ、やだなとおもったけど、ちゃんと受かった。」

 7と4が含まれているから縁起がいいというわけですね。父親なりのゲン担ぎ。そう言えば中学受験も「748」で受かったよねと、私もゲンを担いでみました。

 もっとも第一志望の大学の受験番号は「204」。こちらに関しては「にっこり(2) わらって(0 輪だから)よろこんだ(4)」と語呂合わせしてみたのですが、見事散りました・・・ チャレンジ校だった「6748」の大学に入学することになったのです。

 だから、私のラッキーナンバーは7と4です。今でも、例えばロッカーとか駐輪場とかの番号を選ぶときは、74とか47とか28(4×7)にすることが多いです。「あれ、どこに置いたっけ?」と探すことがないし、何となく縁起もいいから。日常のプチ・ゲン担ぎ。

 

 最近、旅先の神社などでお守りを求めることが多くなりました。「無病息災」「健康長寿」「足腰丈夫」「ボケ封じ」「交通安全」などなど・・・。親にです。特に「足腰丈夫」は、時々足が痛いと言う母に、「交通安全」は80歳を過ぎても自転車でスイミングスクールに通う父に。

 年をとった両親の健康は、祈ることくらいしかできない部分も。親にゲンを担がれていたのが、いつの間にかゲンを担ぐ側になっている!

 どんなに科学が進歩しても、人工知能が正確に占ってくれるようになっても、人はゲン担ぎをやめないでしょう。担ぐ・担がれることで生まれる気持ちが、優しいから。

 受験にカツ丼、やっぱり、ありかな?

弥次さん、喜多さんを追いかけて 国府津→小田原

 弥次さん・喜多さん、前回は二宮の海岸沿いの街道で、暇に任せてなぞなぞをしていましたが・・・

 

酒匂川の川越

 例の「徒歩(かち)渡し」の酒匂川まで来て、詠んだ歌。

われわれは ふたり川越し(かわごし) ふたりにて 酒匂のかはに しめてよふたり

 つまり、自分たち二人に川越人足が二人ついていると言っています。エコノミークラスですね。

 酒匂川の越し方については、こちらをご覧ください。

 

www.lupinus-shiroyagi.com

 

 ちなみに、「酒匂」の「酒」に「よふ(酔う)」を縁付けています。

 

旅籠・小清水

 今でも、「新宿」の交差点を南下すると、蒲鉾やさんなど古い店構えの商店が並ぶ旧道に入ります。このあたりから宿場町の中心で、往時は旅籠などが軒を連ねていたそうです。弥次さん・喜多さんも、ここで客引きにあうのですが、そこはいつもの二人。まぜっかえし、煙に巻いてしまうのでした。

 今夜の宿は決まっているかと客引きに尋ねられた弥次さんは「小清水か白子屋に泊まるつもりだ」と答えていますが、「旅籠・小清水」は「古清水旅館」に名前を変えて現在も営業しています。

 ところで、この「小清水旅館」には、ちょっと珍しいエピソードがあります。

 1945年8月15日深夜、まさに終戦前夜、小田原はB29により焼夷弾の空襲を受けました。(死者12名、罹災家屋約400戸) そしてここ本町にあった古清水旅館も、建物がほぼ全焼してしまったのですが、当時の主人は、「自分は丸裸になってしまったけれど、2度とない場面だから」と、焼跡の片づけをしているときに写真屋を呼び記念写真を撮影しており、この写真が、小田原の空襲を伝える貴重な資料になっています。

 主人の腹の座ったところに、脱帽。今も続く旅館であることに、納得です。

 

小田原名物 梅干しとういろう

 旅籠の客引きにさんざん呼び込みされて、弥次さんは・・・

梅漬の 名物とてや とめをんな くちをすくして 旅人をよぶ

 梅干しが酸っぱいことに縁付けて、「くちをすくして」(口を酸っぱくして)と客引きがしつこいことを詠んでいます。

 

 間もなく、屋根が出たり引っ込んだりしている変わった建物が現れますが、これが名物・ういろうのお店でした。ふたりのやり取りをちょっと紹介しましょう。

弥二「これが名物のういろうだ」

北「ひとつ買て見よふ。味(「うめ)へかの」

弥二「うめへだんか。頭がおちらあ」

北「ヲヤ餅かとおもつたら、くすりみせだな」

弥二「ハゝゝゝゝゝ、こうもあろふか」

 

 ういろうを 餅かと うまくだまされて こは薬じゃと 苦いかほする

  ういろうは、仁丹みたいな万能薬です。弥次さんは薬だと知っていたのですが、喜多さんはてっきりお餅かと思ってしまったんですね。

 名古屋名菓に「ういろう」がありますけどね。好物です。特に「白」がいいな。

 

 あ、話がそれてしまいましたね。

 弥二さん・喜多さんは、このあと宿に入って、すったもんだの珍騒動になりますが、それは次回の「弥次さん・喜多さんを追いかけて」のコーナーで紐解きたいと思います。

 

 ここまで読んでくださってありがとうございました。

 また訪ねて来てくださると嬉しいです。

  


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 浮世絵ウォーク 小田原

 次回ウォーク「国府津→小田原」での浮世絵スポットは、酒匂川。広重さんの「東海道五十三次」(保栄堂版)で描かれています。

 まず、画をアップしますね。

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 酒匂川については、前回のブログにも書きましたが、小田原宿に入るまえに越さなければならない大きな川でした。

www.lupinus-shiroyagi.com

 酒匂川を渡るうえでの最大の問題は、江戸幕府の防衛上の理由から、橋が架かっていなければ、渡し舟もなかったことです。旅人は、川越人足(かわごしにんそく)に賃金を払って川を渡りました。さて、どうやって渡ったのでしょう?

 手段はひとつではありません。この画では、様々な渡り方が描かれていて、なかなか面白いです。ちょっと拡大してみてみましょう。

 

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 手前に肩車されている人がいますが、これが一番リーズナブル。一般の旅人はおそらくこの方法を取ったのではないでしょうか。
 向こう岸にまさに到着しようとしている人もいます。手すりがついてないこのタイプのものは平蓮台(ひられんだい)です。川の中程にも、もうひとつ、こちらに向かってくる平蓮台があります。ただの肩車よりも、すこし余計にお金を払わないといけませんね。ちょっと懐に余裕がある旅人はこちら。
 ひときわ目立つのが、駕籠を乗せた蓮台です。12人もの人足で担がれています。きっと偉い人がのっているのでしょう。先ほどの肩車されている2人は、この駕籠に乗っている武士の槍持ちとお付きの人です。
 対岸では、駕籠に乗った人が順番を待っていて、その横では、川からあがった人足が、体を温めながら(?)休憩中です。
 背後の平たい岩のような青いものは蛇篭(じゃかご)と言って、中に石を詰めた籠で、護岸工事に用いられていたそうです。
 
 さらに背後に目を転じると、箱根の山が。墨色、青、赤茶色に塗り分けられていて、鮮やかさに魅かれます。でもなんだか険しそうで、これから待ち受けている箱根の山越えを考えると、身が引き締まります。
 
 そしてやっぱり、もう一度、川渡りの人たちに、視線が戻ってしまいます。小さく描かれているけれど、目が吸い寄せられるというか・・・

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 水の流れを気にしながら、お互いに声を掛け合って、あっちだこっちだと行き来する人足たち。裸の上半身からは湯気が立っているかのような熱気を感じます。体をはったお仕事、ご苦労様。
 きっと広重さんも、この働く男たちを、一番描きたかったんじゃないかな? 
 いつものことながら、庶民や働く人に対する広重さんの温かいまなざしを感じます。
 
 ここまで、読んでくださってありがとうございました。
 また、訪ねてくださると幸いです。
 


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見どころはここ⁉ 国府津→小田原

 昨年9月から、思い立ったら吉日の勢いで始めた東海道てくてく歩き。

 最初は「小田原辺りまでなら行けるんじゃない?」と始めたのですが、くろやぎ(同行人・夫・黒やぎの(てくてくわくわく 街道ウォーク)番外編主宰者)の後押しもあって、「やっぱり、京都三条大橋でしょ!」に変わったのでありました。

 その最初の目標だった小田原が、いよいよ目前に。いやはや、ずいぶん来たもんだ・・・

 

 さて、次回のチェックポイントは・・・

*1

 

  1. 男女双体道祖神(国府津駅前)
  2. 親鸞聖人御庵室 御勘堂碑
  3. 真楽寺
  4. 光明寺
  5. 法秀寺
  6. 小八幡の一里塚
  7. 小八幡神社
  8. 三寶寺
  9. 道祖神(酒匂)
  10. 長楽寺
  11. 大見寺
  12. 旧川辺本陣跡
  13. 酒匂不動尊
  14. 法善寺
  15. 大経寺
  16. 法船寺
  17. 本典寺
  18. 妙蓮寺
  19. 二宮金次郎表彰の地碑
  20. 八幡神社
  21. 新田義貞墓
  22. 常顕寺
  23. 上杉竜若丸墓
  24. 呑海寺
  25. 心光寺
  26. 山王神社
  27. 宗福寺
  28. 江戸口見附跡
  29. 一里塚跡
  30. 北条稲荷・蛙石
  31. 善照寺
  32. 万町標識
  33. 賢安寺
  34. 小清水脇本陣跡
  35. 清水金左衛門本陣跡
  36. 松原神社

 

 うっっ・・・ 36個。距離の割に結構あるなぁ。まあ、いつも、このくらいの数だよね。

 出発前に、ざっくり全体を押さえておきましょう!

 

ここでの一大イベントは・・・

  それは、酒匂川(さかわがわ)を渡ることです!

 今は、酒匂橋を利用しますが、江戸時代は、幕府が江戸防衛上、橋を架けることも渡し舟も許可しなったので、旅人は歩いて渡るしかありませんでした。徒歩(かち)渡しというそうです。ひどい話だなあ。

 かつてのその川幅は三百二十間(約580メートル)ほどでだったそうです。川の水、冷たかっただろうに。この川渡りがあるから、それに供えて旅人が休憩した二宮が栄えたともいえるのですが。

 江戸時代の渡し場は、東岸の酒匂側が現在の橋の袂辺りに、西側の小田原側は、橋の袂より10㍍ほど北側にあったそうです。余裕があれば、渡し場があった場所を、チェックしたいです。

 ちなみに、安藤広重の「東海道五十三次(保栄堂版)」の「小田原」は、この酒匂川の川渡りの様子を描いたものです。

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二宮金次郎と小田原

  小学校の時、台座だけ残っていた二宮金次郎像。「薪を背負って本を読んでいたんだって。まじめに勉強しなさいよ~」みたいな説明があったような、なかったような・・・。(私の母校は、明治7年創立で、市内で一番古くからある小学校でした。)

 今回、酒匂川の渡し場近くに二宮金次郎表彰の地碑というのがあって、金次郎さんは小田原の出身だったのかと気が付きました。無知でお恥ずかしい。

 でもって、これまた恥ずかしいのですが、「薪を背負って本を読んでた」のイメージばかり先行している金次郎さんについて、ちょっと調べてみました。「そんなこと、常識じゃん!」と思われる方があったら、悪しからず。

 

 金次郎さんは、足柄平野の栢山村(小田原市)の農家に生まれました。割と裕福な家で、両親も教育熱心だったようです。けれども、度重なる酒匂川の氾濫に見舞われて、田んぼも畑も荒れ果てて、両親は心身ともに疲れて亡くなり、一家離散となってしまいます。

 金次郎さんが、すごかったのはここからです。伯父さんの家に預けられたのですが、農作業の合間に作物の収穫量をどうやったら増やせるかいろいろ試して、その方法を体得し、やがては家の田畑を買い戻して「わが家の再興」に成功したのでした。

 そして、自分の家のことだけではなくて、村おこし、国づくりのために、そのノウハウを生かして力を尽くしたのです。

 

 

 ほう・・・ 偉人だ。確かに、戦前の小学校に像があったのも納得できる。

 

 この部分は、報徳博物館(公益財団法人 報徳福運社)のホームページを参考にして書きました。詳しく知りたい方は、下記にアクセスしてみて下さい。

 

報徳博物館 二宮尊徳と報徳思想-二宮尊徳 | 二宮尊徳

 

江戸見付跡(山王口)より、小田原宿内に入ります

  新宿という交差点に来たら、南下して国道1号線より海岸寄りの旧東海道に入ります。これより本町の交差点までの街道には、昔ながらの店構えの老舗が並び、なかなか楽しそうです。

 「いせかね」「山上」など蒲鉾やさんが軒を連ねているとガイドブックに書いてあるので、のぞいてみたい。(それだけの元気と時間を取っておかなくちゃね。)

 そうそう、小田原の名産と言えば蒲鉾! ということで、小田原とかまぼこについて一口メモを。

「かまぼこ」が書物に現れたのは、室町時代の中ごろからです。魚肉をすって木や竹の棒に塗り、そのまま焼いて蒲の穂のようにしたものだったから、蒲鉾と言われるようになりました。

 室町時代には板に魚肉がついた「蒲鉾」が作られるようになりましたが、これも焼き蒲鉾です。

 この流れから考えると、江戸時代の終わりに小田原で「板付け蒸しかまぼこ」が考案されたのは、画期的なことだったのかもしれませんね。

 やがて江戸地方では焼き板がすたれて蒸し板ばかりになり、特に、小田原式の白かまぼこは関東式の板かまぼことして全国に広まりました。

 ちなみに、あの二宮尊徳(金次郎)も、故郷の板かまぼこを手土産に使ったことが日記に書かれているそうです。

 主原料には、かつては相模湾で獲れるオキギスをつかっていましたが、現在ではグチです。

  この部分は「小田原蒲鉾協同組合」のホームページを参考にしました。http://www.kamaboko.or.jp/histry.html

  

個人的になんだか気になる名所・旧跡

  まず、気になったのが国府津駅近くのお寺、真楽寺のマリア観音です。

 キリシタン禁制下、慈母観音と偽って秘仏にしていたということですが、それ以上の詳しい説明が見つからないので、現地の説明板に期待しています。観音像、拝めるかなぁ? 今までの経験から言って、こういうのは決まった日に御開帳されるから、たぶん無理ですね。

 

 それから、街道ウォークでは、芭蕉句碑をチェックするようにしています。

 なので、大経寺の芭蕉句碑を、見落とさないようにしなければ。

 人もみぬ 春の鏡や うらの梅 元禄5年(1692)

 芭蕉句碑を見ると、なぜここに、この句碑があるのか、いつも知りたいと思ってしまいます。

 芭蕉さんがここを訪れたとか、この地域では俳人がたくさんいて尊敬する芭蕉先生の碑を建てたとか、そこにある何か(例えば藤の花とか)と芭蕉さんがかつて読んでいる句を関連付けて碑にしたとか、理由はいろいろあるみたいです。訪ねてみても、理由がわからないこともありますけれど。

 

北条稲荷・蛙石

 北条稲荷は、北条氏康の死を老狐の祟りとして創建されました。

 境内にある蛙石は、もとは小田原城内にあったもので、落城前夜に盛んに泣いたという言い伝えがあります。

 こういう言い伝え付きの、石とかお地蔵様とか井戸とか、すごく気になってしまうんです。ちょっと怖くそうで、ドキドキします。

 

 終着点は「なりわい交流館」に

  これれまで「かわさき宿交流館」「ふじさわ宿交流館」に立ち寄ってきましたが、どちらも街道ウォークで知りたい情報が発信されていて、見ごたえのあるものでした。今回も十分な時間を取って、見学したいです。

 なりわい交流館の建物は商家造りになっていて、それを見るのも楽しみです。

 実は私は、何年も前に、子どもとここに来たことがあります。その時は、早朝に自宅を出て始発電車に乗り、小田原・早川漁港の朝市で朝ごはん(超お得な魚定食)を食べてから、小田原市内を散策しました。ちょうど観光協会がスタンプラリーをやっていて、めでたくスタンプを集めて景品交換をしに来たのがここでした。歩き疲れてろくろく見学もせず、景品をいただいただけで、今思うとすみませんという感じです。

 景品は、使いかけの蒲鉾を保存する容器で、今でもお正月などに大変重宝しています。

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 鈴廣さんのオリジナルですね。板かまぼこにぴったりの大きさ&形なので、板につけたままポンと入れるだけなんで、いちいちラップしなくていいし便利。これを考えた人は、主婦なんじゃないかなぁ・・・?

 今度訪ねる時は、景品目的ではなく、ちゃんと見学しますね。

 交流館については過去に少し調べているので、よかったらお読みください。おだわら・なりわい交流館をはじめ、東海道の宿場町にある数々の交流館についてリサーチしています。

 

www.lupinus-shiroyagi.com

 

 

 最後まで読んでくださってありがとうございました。

 また、訪ねて来てくださると嬉しいです。

  


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*1:『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(八木牧夫 山と渓谷社)で名所・旧跡に上がっている場所を、チェックすることにしています。

『家康、江戸を建てる』

 休日のスタイルは、晴歩雨読。晴れた日はてくてく歩き、雨の日は読書三昧。雪が残っている休日も、こたつでぬくぬく読書。

 というわけで、今週末の読書コラムは、『家康、江戸を建てる』(門井慶喜 祥伝社)です。

 

 著者の門井慶喜さんは、先日、『銀河鉄道の父』で第158回直木三十五賞を受賞されて話題になっていますが、こちら『家康、江戸を建てる』は、2014年から2016年にかけて執筆されています。街道ウォークを趣味としている身としては、「これは読まねば!」とキープしていたところ、受賞のお知らせが。『銀河鉄道の父』も気になりますが、まずはこちらから。

 

 内容をひとことで言うならば、江戸の町づくりをテーマにした歴史時代小説です。タイトルでは、主語が家康になっていますが、江戸の町づくりにかかわった人たち(職人や下級役人)に焦点を当てた話で、家康はむしろそれを指図したり見守ったりする脇役。唯一、家康の出番が多いかと思えるのが、最終話の「天守を起こす」です。

 

 面白い、とは思います。世界の大都会・東京が、420年前は草ぼうぼうの湿地帯だったという事実が、まず面白い。知らない人は、ここでびっくり。知っていた人も、もう一度びっくり。

 それから、広大な草ぼうぼうの荒れ地が、まともな町になっていく過程が面白い。ひとつひとつのプロジェクトにびっくり。「第1話 流れを変える」「第2話 金貨を延べる」「第3話 飲み水を引く」「第4話 石垣を積む」「第5話 天守を起こす」という章立ては、そのまま町づくりのインフラ整備の順番の鉄則で、納得です。中でも、利根川の流れを、大きく東へ変えるという大胆なプロジェクトは、伊奈忠次より世代をまたいで約60年もかかったもので、第1話には大変引き込まれました。

 

 残念だったのは、文章の不自然さです。何がとははっきり言えないのですが、体言止めが多いし、読んでいて文章が細切れのような感じがして、なんだか気になってしまうのです。こんなことを言うのは、とても失礼だとは思います。すみません。

 

 この本を読んでいて、思い出した本がありました。『江戸の町 上・下』(内藤昌/イラストレーション 穂積和夫 草思社)です。児童書ですが、かなり詳しく書いてあります。絵本のようなスタイルで、見開き1ページにつき1つのテーマについて、詳細なイラストともに過不足ない説明が易しい言葉で語られています。さすが児童書。実はこの本、児童書としては定番中の定番、1982年出版のロングセラーです。

 内容は、上巻は『家康、江戸を建てる』同様、江戸の荒れ地を城下町にするまでのプロジェクトについてですが、『家康、江戸を建てる』には描かれていない明暦の大火による天守閣炎上までが解説されています。下巻は明暦の大火からの再興・江戸時代後期の江戸の町・無血開城までです。『家康、江戸を建てる』の後に、かつて読んだこの本を再読してみましたが、「そうか、こういうことだったんだ!」と腑に落ちることがたくさんありました。併せて読むと面白さ倍増です!

 もしかしたら、門井慶喜さんもこの本を読んでいらっしゃったのかもしれませんね。というか、『家康、江戸を建てる』はいったいどんな本を参考資料にされたのか、巻末に特に記載がないのが、やや気になりました。読者として、知りたいなあと思います。

 

まとめ

 『家康、江戸を建てる』は、残念な点もありましたが、面白さで帳消しです。読んでよかったと思います。

 歴史時代小説は、類似の本を読んだりしながら、自分なりに検証するのも楽しいですね!

 

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。また、訪問してくださると嬉しいです。

 

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