てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

小田原宿ってどんなとこ?②

 小田原宿ってどんなとこ? 

 2回目は、中世から現代までの小田原の歴史を振り返りながら、江戸時代の小田原宿に思いを巡らしたいと思います。

 

小田原はなぜ、ここまで大きな町になったのか?

 いきなりですが、なぜでしょう? 小田原と言えば、全国屈指の観光地。自治体の規模も大きそう。人が集まる地域には理由がある。さて何でしょう?

 ずばりそれは住みやすさです。

 住みやすくしている要因は、なんといってもまずは、恵まれた地形

 小田原市のある足柄平野は、北は丹沢山地に、東は曽我丘陵と呼ばれる丘陵地帯に、西は箱根の山々に囲まれています。平野の中央を流れる酒匂川(あの徒歩渡しの・・・)は、富士山や丹沢山地が源流で、その清流が注ぎ込むことで、平野に美しい自然と肥沃な土壌がもたらされました。

 平野の南側は相模湾に面しています。黒潮の影響で一年を通して暖かく、雨量も適度です。

 このように地形の条件の良さから豊かな大地と温暖な気候が実現したことで、小田原は生活の快適さだけではなく、梅やみかんをはじめとした多くの農産物が特産品となり、町を支え、現在に至ります。

 

戦国時代は後北条氏の城下町だった。

 地形と気候に恵まれた場所の多くがそうであるように、足柄平野にも、旧石器時代から人が住んでいた形跡があります。15世紀初めには、大森氏により、現在の県立小田原高校がある丘陵付近に、お城が築かれています(小田原城の始まりです)。そして戦国時代になって北条早雲がこれを攻め落とし、以後五代約100年にわたり、北条氏による平和的な支配が続きました。北条氏はこの間に領土を広げ、関東一円を支配するまでになりました。
 全長9kmにも及ぶ城郭という戦国最大の規模を誇る小田原城は、上杉謙信や武田信玄からの侵攻にも耐え、難攻不落の城といわれましたが、1590年、豊臣秀吉により、ついに攻め落とされてしまいます。秀吉は石垣山に一夜城を築き、25万の兵を率いて小田原城を囲みました。籠城戦の末の落城。これをもってして、秀吉の全国統一がなされました。

 この後、秀吉は家康に、関八州と引き換えに駿河を差し出すように命じ、小田原は徳川の領地になりました。

 

江戸時代は東海道の宿場町

  さて、関八州が徳川の領地になった時、家康の居城は当然小田原城になるかと思われたのですが、白羽の矢が立ったのはまさかの江戸。これには誰もがびっくりでした。「草ぼうぼうでじめじめした荒れ地の江戸? それはないでしょ?」って感じですかね。あえて江戸にしたのは、「広大な関東平野を背後に開拓をして大都市を築こうじゃないか」という家康の賭けや先見の明もありました。でもそれだけでしょうか? 古くから拠点となっていた城下町・小田原があったのになぜ?

 疑問はいったん脇に置いて、江戸時代の小田原がどうだったかといいますと、東海道屈指の宿場町として、大いに繁栄しました。本陣4軒、脇本陣4軒、旅籠95軒、総家数1542軒という記録が残っていますが、品川宿に匹敵する規模です。(これまで通ってきた他の宿場町より断然多いです。)

 また、「箱根越え」の難所を控えた交通の要所として、小田原には数多くの人・物・文化が往来しました。江戸時代の人は「小田原までは江戸のうち」と言いましたが、小田原は「関東への出入り口」であると同時に、ただの出入り口以上に中継点としての役割も大変大きかったのではないかと思います。最近の言葉では「ハブ機能」って言うんでしたっけ?

 家康は、奥座敷江戸の手前に、ハブ機能を備えた堅牢な町を配したかった、それが小田原だったのでは? それを視野に入れたうえでの江戸の居城だったのでは?

 前回、小田原を一言でいうと「関東の出入り口として大いに栄えた城下町」とまとめましたが、江戸のハブ機能・小田原宿と言い直させてください。

 

文化人に好まれ、交通網の整備とともに発展した明治以降

 明治4年(1871)の廃藩置県以降、小田原藩は小田原県→足柄県→神奈川県と、管轄が変わりました。

 小田原は風光明媚な土地柄から、これまで通ってきた湘南地区同様、多くの財界人・文化人に愛され、別荘地・避暑地としても賑わいました。明治時代には伊藤博文や山縣有朋、大隈重信、大正時代には北原白秋や谷崎潤一郎、三好達治など錚々たる顔ぶれですが、これだけ発展した背景には鉄道の敷設があったことも忘れてはなりません。
 小田原にとってショックな出来事だったのは、明治20年(1887)に、東海道本線が国府津から小田原を通らずに御殿場・沼津へ行く経路を取ってしまったことです。しかし、これを契機に小田原経済界のリーダーたちは小田原・湯本間を走行する馬車鉄道を始動しさせました。続いて、小田原・熱海間を結ぶ豆相人車鉄道も開業し、小田原は京浜地域と熱海・箱根の観光地をつなぐ重要な拠点となりました。(またしてもハブですね。)
 昭和2年に新宿・小田原間に小田急鉄道が開通すると、都市部との結びつきが一層濃くなり、昭和39年の新幹線開通により、広域にわたり都市間を結ぶ中継地になりました。(広域ハブ機能ですね)

 現在人口は192116人(平成30年1月1日現在)。小田原は現在も都市間を結ぶハブ機能を備えた交通の拠点として、その役割を存分に果たしています。だからこそ、観光地としても発展し続けているのだと思います。

 

小田原発展の秘密は恵まれた地形に加えてハブ機能というまとめでいかがでしょうか?

 

 ここまで読んでくださりありがとうございました。

 あと1回、小田原宿について書きたいと思います。いつになるか・・・


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