次回ウォーク、沼津→原の事前チェックをします。
前回の反省として、ちょっとぶっつけ本番過ぎたかな・・・と。くろやぎ(同行者&夫)の勘に頼りすぎ、いろいろ迷った前回でした。私もくろやぎも関東で育った人間なので、箱根を過ぎたあたりから、勘が効かなくなっております。
そうそう、職場に静岡出身の人がいるのですが、「静岡は関東か関西か」聞いたところ、「どっちでもない。中途半端」という答えでした。どっちでもない不思議な文化圏。そこがユニークとも言えそう。
街道ウォークを始めて、静岡は東西に長いことに気が付きました。静岡県はまだまだ続く。今は本の序の口ですね。
さて、次回のチェックポイント(バイブル『ちゃんと歩ける東海道五十三次』八木牧夫/山と渓谷社で、名所旧跡としているところ)は以下の通りです。
- 東方寺
- 乗運寺
- 真楽寺
- 山神社
- 慈光院
- 六代松標石
- 妙伝寺
- 山神社
- 金剛寺
- 八幡神社
- 諏訪宮
- 正覚寺
- 清源寺
- 八幡宮
- 栄昌寺
- 吉祥寺
- 一里塚跡
- 蓮窓寺
- 伊勢神明宮
- 祥雲寺
- 三島神社
- 伊勢神明
- 神明神社
- 東木戸(見附)跡
- 清梵寺
- 長興寺
- 松蔭寺
- 白隠禅師誕生地碑
- 西念寺
- 昌源寺
- 浅間神社
- 高札場跡
- 問屋場跡
- 徳源禅寺
- 明徳稲荷
清梵寺
臨済宗妙心寺派。今からおよそ1,200年前、安房の国に帰国の途中得萬長者がこの地で息を引き取り、大きな塚に葬られました。それからこの地が大塚と呼ばれるようになったといわれています。恒例の地蔵尊縁日は、毎年「海の日」に開催され、白隠禅師書の「地獄極楽変相図」が展示されます。
長興寺
臨済宗妙心寺派。白隠禅師の時代には松蔭寺での修行僧が宿坊として使い、松蔭寺から長興寺まで通った道が今も残っており「白隠道」と称されています。毎年5月の最終日曜日か6月第一日曜日に開催される例大祭には、赤ちゃんのすこやかな成長を祈願する恒例の「奉納泣きずもう」が行われます。
松蔭寺
白隠宗大本山。白隠禅師が出家し、のちに住職をつとめたこの寺には、白隠が描いた禅画や県指定史跡となっている墓が境内に遺されています。また、開山堂には生前に作られたという白隠木像がまつられています。毎年4月29日には「寺宝虫干し」として白隠禅画が展示されます。
白隠禅師誕生地碑
「駿河には過ぎたるものが二つあり 富士のお山に原の白隠」と歌われ、臨済禅中興の祖として仰がれる白隠禅師は西暦1685年12月25日、この地で生まれました。また、禅師が生まれた時使用した「産湯の井戸」がこの奥にいまなお清水をたたえています。
西念寺
時宗。現在の本堂は大正15年に建立。白隠禅師誕生地の南側にあり、境内には白隠禅師が幼少のころ毎日参拝した天満宮の御堂があります。
昌源寺
日蓮宗。大仙院日耀の開山。開基は、徳川家康の側室、お万の方(養珠院日心大姉)です。
白隠禅師が幼少のころ、説法で地獄の話を聞き仏門に入るきっかけとなったのが、この昌原寺です。
渡邊本陣跡
原宿の本陣渡邉家は阿野全成(源頼朝の弟・義経の兄)の子孫であり、代々平左衛門を名乗って幕末に至っています。原宿の草分けであり広大な建物を持っていたので、自然に大名・幕吏等の宿所として本陣となり問屋、年寄、名主等を勤めていました。
徳源禅寺
臨済宗妙心寺派。境内には「頼朝お手植えの松三代目」とされる数百年たった松があり、庭は東海道の名園といわれた原宿の「帯笑園」の名残を残す富士山の溶岩の庭「対笑園」があります。
以下、『広重と歩こう東海道五十三次』(安村敏信/小学館)から引用します。臨済宗中興の祖と仰がれた白隠禅師は貞享2年(1685)に原宿で生まれ、15歳の時に松蔭寺で仏門に入りました。19歳から32歳まで全国を巡り、33歳で松蔭寺住職となった後84歳で亡くなるまで、全国各地で禅宗の教えを広めました。500年に一人の高僧といわれ、その人格と教化実績などから「駿河に過ぎたるものが二つあり、富士のお山に、原の白隠」といわれるほど尊敬を集めています。また「だるま・釈迦・観音」を始め毛筆で描く力強くわかりやすい禅画に秀で、多くの名画を残しています。このような高僧が育った松蔭寺は比較的小規模な寺ですが、白隠が出たことにより全国から注目を浴びる寺院になりました。
白隠さん、かなりの高僧だったようですが、何がそんなにすごかったんだろう? 気になってググってみたら、沼津市のホームページに詳しく載っていました。
HPの解説を読みますと、白隠さんは、幼い頃に慣れ親しんだものから、その後の人生に多大な影響を与えられているようです。
要約しながら白隠さんの人生をたどってみましょう。
生家長澤家(沢瀉屋(おもだかや))は東海道に面し、旅籠兼運送業を営んでいました。父は豆州江梨村の杉山家の出身です。長澤家の第5子、3男として生まれ、幼名を岩次郎といいました。記憶力に優れ、強い意志を持った多感な少年でした。早朝から水垢離を行ったという井戸が現在も生家跡に残っています。
幼い頃、自宅に出入りしていた休心坊(きゅうしんぼう)という念仏行者の影響を受けました。「食物は湯を加えて残さないようにする。立小便はしない。北方を清める。」という3つの教えを生涯守ったといいます。
11歳の頃、母に連れられて近くの昌原寺で説法を聞き、地獄に対する恐怖を抱いたことが出家の契機となりました。
地獄に怯える11歳の頃、母から自宅に隣接する西念寺(さいねんじ)の天満天神が一切の苦を救うと教えられ、日々参拝しました。
13歳の頃、自宅から北東に4kmほど離れた柳沢村に通い、観音菩薩を岩に刻み大岩の上で坐禅を組みました。
母の生家である長澤家は代々日蓮宗の家であり、末子である岩次郎(白隠さん)は信心深い母の影響で、幼少の頃から法華経に親しんでいたようです。出家を強く望むようになったのも法華経の功徳が大きいと聞き、感嘆したためです。 松蔭寺には、自筆でびっしりと註釈が加えられた法華経が伝わっています(静岡県指定文化財)。
15歳には、父の叔父大瑞宗育(だいずいそういく)禅師が復興した松蔭寺で、剃髪し「慧鶴(えかく)」となりました。各地で修行をした後、32歳で松蔭寺に戻りました。当時は廃寺寸前の状態だったようです。その後、修行僧が全国各地から集まり、弟子の育成に力を注ぎました。
50代以降には、請われて各地で講義を行うとともに、膨大な著作や書画を残しており、終生にわたり、様々な方法を駆使して法を説きました。人の往来が激しい東海道の沿道で、時代に即応した禅を広めた僧として知られています。
原駅手前の原地区は、白隠さんゆかりのスポットがたくさんあります。じっくり見ることができるように、時間も元気も残してウォークをしたいものです。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
次回は、「原宿ってどんなとこ?」というタイトルでアップします。
また来てくださると嬉しいです。