季節外れの台風のお蔭で、週末街道ウォークも足止めをくらっております。次までのつなぎとして、神奈川、戸塚、保土ケ谷の浮世絵を順に見てきましたが、「あれ? 何か忘れてない?」と思っていらっしゃる方もいるかもしれませんね。そう、葛飾北斎の『富嶽三十六景』の「東海道程ケ谷」です。
この絵について書くのが遅くなったのは、今回のタイトルを「保土ケ谷or戸塚?」としましたように、絵の場所か保土ケ谷なのか戸塚なのかはっきりしなかったからです。タイトルが「東海道程ケ谷」となっていることから、保土ケ谷宿内の「権太坂」がその場所だろうと長らく考えられていましたが、ここ10年くらい前から疑問視されるようになっているのです。理由としては、富士山の位置が「権太坂」からの見え方ではない、あるいは向かって右側に急な山道があるのは権太坂の地形ではない、などのようです。
そこで、新たに考えられたのが、同じく見晴らしのいい場所であった「焼餅坂」「品濃坂」です。「山梨県立博物館かいじあむ」のホームページでも、所蔵しているこの作品について、次のような解説をしています。
…保土ヶ谷宿は、武蔵国橘樹(たちばな)郡と相模国鎌倉郡の境界付近に位置する東海道の宿場。本図は、東から西へ、宿の南端にある武蔵・相模国境の品濃坂より富士を望む。右側に見えるのは、庚申塚で青面金剛の石像が祀られているとされる。
仮に、この場所が「品濃坂」、あるいは「焼餅坂」だとすると、どちらも戸塚宿内の場所になってしまいます。タイトルは「程ケ谷」なのに。「えーっ、どっちなの?」と、実は謎に包まれた作品なのです。
ですが、謎はさて置き、絵を眺めてみましょう。
きつい坂を越えてきて見晴らしのよい高台に出ると、つい一息入れたくなりますね。坂道でさんざん揺られて、ややお疲れ気味の女の人や、草鞋を結び直す駕籠かきと、それを待つ間に汗をぬぐう相棒など、それぞれの人物がそれぞれに自分のことをしているのが面白いです。馬を引いている男の人だけは、目の前の景色に目を奪われています。彼の視線の先は、富士山。疲れが一瞬吹き飛ぶ光景ですね。馬上の偉い方は、早く進んでくれという感じで、無言ですが。
リズミカルに歩いていくと、樹と樹の間に富士山が見えたり隠れたりします。その面白さに気づいた人は、この一行の中にいるでしょうか? ただひとり気づいている北斎さん自身が、「どうです? 面白いでしょう?」と言っているみたいです。
並木は、暑い夏には旅人に緑陰を与え、冬は吹き付ける風や雪から旅人を守ります。また風雨や日差しから道そのものを守る役目もありました。江戸幕府は街道に並木を植えることを命じており、保土ケ谷宿近くの松並木は、とても見事で、北斎さん以外の人も作品に描いています。北斎さんは、河村岷雪の『百富士』「程ヶ谷」から、松間の富士の構図の着想を得たのではないかとも言われています。それで、この図のタイトルも「程ケ谷」なのかもしれませんね。
もう一度、絵に目を戻しますと、右側に一人の虚無僧が、一行とは反対の方向に向かってひたすら歩いています。虚無僧はその先にある庚申塚(青面金剛)の石像を、見上げているようにも見えます。庚申塚は一般に、道標などを兼ねて、村境や国境に建てられたものです。とすると、ここはやはり、「権太坂」というよりは、武蔵と相模の国境に近い「焼餅坂」か、品濃一里塚近くの「品濃坂」かな?と思ったりします。
とここまで書いて、アーチストの北斎さんにとっては「神奈川沖浪裏」でもそうであったように、場所がどこかというのはさほど問題ではなかったのではないかと思えてきました。この絵の松の姿は、フランスの画家クロード・モネの作品「ポプラ並木」に影響を与えたといわれています。さすが、世界の北斎さん! 河村岷雪の『百富士』「程ヶ谷」に着想を得て、自分のアートとして昇華させ、世界に影響を与えた人。特定した場所ではなくて、保土ケ谷に近い見晴らしの良い高台の風景を、松並木に見え隠れする富士山の面白さを織り交ぜながら一つの作品世界として表現したのかもしれませんね。
そうはいいましても、「権太坂」か「焼餅坂」か「品濃坂」か、やはり気になるところ。どこなんだろう?と考えながら、ぶらぶら街道を歩くのもいいものです。たぶんそうなりそう(汗)
【参考】