てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

肘頭骨折 術後175日目 開脚の効用

 新型コロナウィルスのニュースが持ちきりです。

 こわい・・・ 自分がかかったらどうしようという怖さではなく、社会現象としてこわいです。

 このさきどうなるのかわからないという先行き不透明なこわさ。

 自分が抜釘手術で入院するおよそ1か月後には、収束しているのでしょうか? 私が、今、罹患したところで重症化することはなさそうですが、入院中となるとそれなりに体力が落ちているでしょう。前回の手術の後は、白血球の数が激増して、職場の健診で要検査のなって焦りましたっけ。

 

 怖がってばかりいてもテンションが落ちる一方なので、違うことを考えましょう。次の手術までになにか頑張れることはないかな?

 そう思って新聞を読んでいたら、きくち体操の記事を発見しました。これは毎月第1水曜日の連載記事で、前回は足首回しでした。で、今回は、なになに、開脚?

 両脚を開くのは太ももの内側の筋肉を鍛えることにつながるって? 

親指にしっかり力を入れて立つと、ひざから太ももの内側に力が伝わり、まっすぐ立てる。自分の力で歩き続けるためには、足の指と同じように、太ももにしっかり力を付けると良い・・・(朝日新聞2020年2月19日朝刊 むさしの版)

  「べたーっと開脚」は見た目のすごさがインパクト大だけど、実は転倒防止や足腰を鍛える効果もあったんですね。なめるな開脚。

 開脚はただすればいいのではなくて、太ももに力が入っていることを意識すること、特に、ひざと足の親指がきちんと内側に向くようにすることが大事なのだそうですよ。

 また、無理せず自分のできる範囲でちょっとずつすることが大切で、毎日体操すれば必ず変わるとも! へえ~~~。「じゃあ、入院までの1か月間、頑張ってみる?」と、単純な私は思ってしまいましたよ。毎日体操して、1か月後は、べた~~。なーんてね。いやそれは、いくらなんでも無理だな。私、もともとすごく体が硬いので。

 忘れもしません。小学校5年生の時、体育の時間に前屈運動をしていて先生に、「〇〇~!(私の名字) おまえはおばあさんか~!」と言われたもの。(今だったら、こんな発言はたぶん問題になりますね。あのころは、ただしょげただけだった・・・ まあとにかく、そのくらい硬いということです。)

 太ももを鍛えることは、開脚だけでなくて、椅子に座っていてもできるんですって。背筋を伸ばして、両足の親指、ひざ、ふとももをくっつけて、足を閉じて座るといいそうです。これなら、普段の生活の中でちょいちょいできますね。忘れないでおこう♪

   ふうぅぅ・・・。今日もなんとか更新できました。釘抜きまで毎日更新を掲げているのですが、最近、ネタ切れ気味です・・・

 

 今日もお訪ねくださり、ありがとうございました。

肘頭骨折 術後174日目 梅開花

 東京都心から電車で1時間超。我が家の周りは畑が点在し、割とのどかな環境にあります。

 自転車で転倒し骨折してからは、バス停までてくてく徒歩通勤となりましたが、その一本道は、今でこそかなり建売住宅が増えましたが、数年前までは両側がどこまでもどこまでも続く梅林で、満開の時にはまるで桃源郷のようだなと思ったものです。(桃源郷は桃の花ですが。)

 三分の一以下になってしまいましたが、今でも梅林が残っています。写真は、昨日撮影したものです。

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 香りもよく清楚できれいな梅の花ですが、私はその先の梅の実にも、とても興味があります。梅ジュース、梅シロップ、梅酒、梅干しづくりは、私にとって大切な年中行事だからです。

 特に梅干しは、他のものではどうにも満足できません。塩だけで漬けた自家製梅干しの入ったおにぎりは、最高です。手前みそならぬ、手前梅干し。(梅はスーパーで売っているものを使っています。地元の梅林の梅ではないと思います。)

 梅干しを干している時、プ~ンと梅の香りが部屋の中まで風に乗って漂ってくると、とても幸せな気持ちになります。畳の部屋で自家製梅ジュースを飲みながら、本を読み読みうたた寝をしているときなんかだと、もう最高です。夏の情景ですね。お日様が恋しい・・・

 梅干しは、おにぎり以外にも、ご飯と一緒に炊いて紫蘇の千切りをさっくり混ぜて食べても美味しいし、そもそも白いご飯に乗せるだけでも十分。ご飯だけでなくて、ポテトサラダを作る時に、梅マヨネーズにすると一味違います。

 子どもたちのお弁当は、小梅干を真ん中に黒ごまをちらしたご飯が定番でした。殺菌作用があるというので、夏は特におまじない代わりにひんぱんに使いました。それから、具合が悪いときのお粥は、絶対に梅干しがいいです。

 具合が悪いと言えば、このブログでも書いたことがありますが、梅醤油番茶がおすすめです。口がひんまがりそうだけど、美味しい。治る気がする・・・

 

 考えれば考えるほど、口の中が酸っぱくなり、満開の梅が、だんだん梅干しに見えてきてしまうのは、私だけでしょうか?

 手持ちの本には次のように書かれています。(この本のレシピで、私はさまざまな梅加工品を作ってきました。)

 一日一個の梅干しは、病気をはらうといわれています。梅干しはカルシウム、ナトリウム、鉄分などのミネラルが豊富なアルカリ性食品です。健康の維持・増進のためには、常に血液をアルカリ性に保つ必要があります。梅の「すっぱさ」はクエン酸を主体とする有機酸によるもので、これが体内に入ると血液を弱アルカリ性に保つことができます。(『産地発 梅クッキング』梅料理研究会・編 創森社 2001年刊)

 先ほど、梅干しは風邪やインフルエンザの予防にも効果があるというブログ記事も見つけました。

 この時期、夏に作った自家製梅干しをちょこちょこ取り入れて、風邪&インフルエンザ&コロナウィルス予防をするのもいいかもしれないと、思ったのでした・・・

 

 今日もお訪ねくださり、ありがとうございました。

 

 

肘頭骨折 術後173日目 風邪予防のぶたみそキャベツ

 コロナウイルス、感染が広がってきましたね。あちらこちらでイベントが中止、感染しないためにはどうしたらいいかで、連日話題が持ちきりです。

 未知の感染症ですから、怖いですよね・・・ これからどうなるんだろう? 高齢の両親がいるので、心配です。母は、2年前に肺炎になって入院しているし・・・

 

 人混みは避けて、不要不急の普及の外出は控え、電車やバスはなるべく使わないようにするって、ちょっと無理じゃないですか?

 私も骨折で自転車を封印して以来、バス通勤ですし。バスの中って、うつるんだろうか? 手すりやつり革につかまらないと危険だってアナウンスしてるけど、どうするの?

 などなど、つらつら考えながら今日もバス停までの道のりをてくてくぽくぽく歩きました。バス停に到着しますと、10人の方が並んでいて、そのうちマスク着用者は5人。着用率は50%ですね。ちなみに11人目の私は、未着用です。

 マスク、あんまり売っていないし、貴重ですからね。ここ一番にとっておきたい。ほら、いよいよインフルになったときとかのために。それと家には、花粉症の人が2人いるので(うち1人は超ヘビー級)、マスクの在庫がなくなると困るんです。

 正直に言うと、着けた感じがわずらわしいというのもあります。予防でマスクを着用するのは、日本人独特の習慣のようです。アメリカでは病気の人が他に移さないためにマスクを着用するのだと、先日のテレビ番組で言っていました。マスクをしていると病人なので要注意だと認識されてしまうんですって。

 いろいろ理屈を並べてしまいましたが、そういうわけで私はマスクは「しない派」です。そのかわり、手洗いは念入りに。外から帰ったときと、食事の前は、特に。

 こんなにしっかり時間をかけて洗うなんて、これまでなかったですね。ハンドクリームも、ガンガン減っています。手荒れをするのはいやですから。学校でお昼(給食)を食べる前は、シュッシュとアルコール消毒も忘れません。

 それにしても、やっぱり気を付けても感染するときは避けられないんじゃないかなな? 学校司書と言う仕事柄、一日に100~200人近い小学生と至近距離で接します。これはもう、自分が強くなるしかないんじゃないでしょうか。感染しても発症しないような手立てが。

 となると、陳腐ですが、睡眠と食事に寄る体力づくり。睡眠の方は、ともかく、食事は家族の分も含めて作っているので、がんばらなくちゃ。

 

 ブログのネタもつきてきたので、今日は今晩の夕食「風邪予防の豚味噌キャベツ」の写真をアップします。

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 作り方は、いたってカンタン。

 大きくて深いお鍋に、大きめのくしがたキャベツ(6分の一、または8分の一カット)を並べ、豚こまとニンニクの薄切りと生姜の千切りをたっぷり入れて、お酒をどぼどぼ、ひたひたに水を注ぎ入れます。

 塩一つまみ、胡椒少々を振り入れ、一番上にお味噌をひとすくい乗せて、蓋をして火にかけます。煮立つまで強火、煮立ったら弱火。弱火でコトコトしている間に、ゆで卵も作っておきます。

 肉に火が通り、キャベツが柔らかくなったら、くずれて緩くなっているお味噌をとかし、全体を混ぜたら、一人分ずつ、お皿に盛り付け、ゆで卵を添えます。

 

 お味噌、生姜、ニンニクでスタミナを。

 豚肉でビタミンB1を。

 

 今夜は豚味噌キャベツでエネルギー&スタミナチャージできました。風邪を引きませんように。コロナウィルスにも、感染しませんように。

 

 

 

 

肘頭骨折 術後172日目 静岡市

 昨年8月の骨折騒動以来、骨折日記になってしまった当ブログですが、それは仮の姿で、本来は東海道てくてく歩きブログです。なので、たまには、街道ウォークの話題も混ぜないと・・・と言うことで今日は先日お邪魔した静岡市について少し書きますね。

 

 静岡市は、人口は約69万人(約29万世帯)、面積は1,411.83㎢です。

 69万人というと、東京の江戸川区と同じくらい、でもって江戸川区は約50㎢です。あまりピンとこない比較ですみません。とりあえず、まあそんな感じです。

 静岡市のHPに紹介文が載っていたので引用させていただきます。

 

静岡市静岡市は温暖な気候に恵まれ、北は南アルプスから南は駿河湾に至るまで、豊かな自然環境を有しながら、古くから今川氏や大御所時代の徳川家康公の城下町として、独自の文化や産業を育み、日本の中枢都市として発展を続けてきました。
 特に「お茶」や「桜えび」、「プラスチックモデル」などの多様な産業や、国際貿易の拠点である清水港での交易は、本市の経済において重要な役割を担っています。
 また、登呂遺跡、久能山東照宮などの歴史的遺跡・建造物は、本市のみならず日本の大切な財産です。

 

 静岡市は葵区・駿河区・清水区の3区から成り、先ほど挙げた人口や面積の数字も3区の合計のものです。 

 それぞれの区のあらましについてもHPに載っていたので、引用させていただきます。

 葵区は、奈良時代に駿河国の国府が置かれ、戦国時代以降には今川氏、徳川氏の城下町として栄えました。特に、江戸時代初期には、徳川家康公が大御所として入府し、江戸をしのぐ首都機能を有しました。明治の時代となり、我が国で初めて市制が施行された後は、県都として、また、国・県の行政拠点として、さらには商業・経済の面でも全国有数のにぎわいと風格のある地域として発展を続けてきました。 

 市の中心街ですね。歩いてみて、とても賑やかでびっくりしました。我が家のある東京の田舎・〇〇市とは大違い。

 

 駿河区は、市の南部に位置し、東には観光百選にも選ばれた「日本平」、西には旧東海道の面影を残す「丸子宿」、南には区名の由来でもある「駿河湾」を有し、区のほぼ中央には全国的にも清流として知られている「安倍川」が流れ、駿河湾にそそいでいます。駿河湾に臨む東西14 キロメートルの海岸線では、東端の久能海岸一帯に石垣いちご畑が広がり、西方に広野海岸公園や用宗漁港が立地し、西端の大崩海岸へと続いています。また、安倍川の河口部では、風力発電施設や野鳥が集まる自然豊かな風景を見ることができます。また、特別史跡の「登呂遺跡」(弥生時代)・平安時代の古道「蔦の細道」・家康公を祀る国宝「久能山東照宮」など、時代を代表する歴史遺産が数多くあります。

 街道沿いの風光明媚なところですね。観光地としても栄えているのかな?

 

清水区は、天然の良港である清水港の発展とともに賑わい、また、東海道の宿場町として栄えてきました。現在、清水港では新興津コンテナターミナルの整備が進められ、今後も『中部横断自動車道』や『新東名高速道路』の整備が促進されることにより、グローバルな物流経済拠点として更なる発展が期待されています。

   清水港。海の玄関口?


 一口に清水市と言っても、3つのそれぞれ特徴のある地域から成っているのですね! 今さらですが。

 さて、今日アップする写真は、この中では葵区に当たります静岡駅周辺の路上ウォッチです。どうぞご覧ください。

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 まずはこちらの消火栓を。静岡といえば徳川家康、久能山、富士山。

 

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 静岡市の花、タチアオイ(静岡にゆかりの「あおい」という名前がついているから?)をデザインしたマンホールのふたです。

 タチアオイは、「あおい」という呼び名を持つものの内でも、花が美しいことで知られています。背丈は3m程にもなり、初夏には茎に赤、ピンク、黄、白などの花を咲かせます。栽培は比較的やさしく、公園、花壇などに利用されます。
 なお、徳川家の紋所「三葉葵」はフタバアオイ(ウマノスズクサ科)を図案化したもので、タチアオイとは異なります。 (静岡市HP)

 

 

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 歩道の敷石です。市の木、ハナミズキが埋め込まれていました。

大正時代に東京市長がワシントンに贈ったサクラの返礼として渡来した日米親善の木です。贈ったサクラの苗が清水区興津の果樹研究所で栽培されたものであることから、本市にゆかりのある木となっています。春に花を咲かせますが、大きな花びらに見えるのは総ほう片で、ピンク色と白色があります。また、秋には紅葉します。(市HP)

 

 市の木はハナミズキと言うことですが、こんな敷石もありました。

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 清水市と合併する前に、市の木に指定しています。

 

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 こちらも、合併前の市の鳥かと思われます。

 HPにはカワセミが市の鳥として紹介されています。

 

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 おまけ。何と言うこともないんですが、静岡駅前の通りの歩道には、こんなおしゃれな敷石も、あちらこちらに組み込まれていました。

 

 静岡駅前については、路上ウォッチが楽しくて、たくさん写真を撮ってしまいました。時間をかけすぎて、後がバタバタになってしまい、反省。よくあることなのですが。

 てくてく歩きは、なかなか先に進みません・・・

 

 今日もお訪ねくださり、ありがとうございました。







 

肘頭骨折 術後171日目 大切な人々

今週のお題「大切な人へ」

 

 長生きをすると、自分より年長の人がいなくなるうだろうか? 今現在、私より年上の人を見ると、どうかお元気でいてくださいと思わずにはいられない。

 

 職場では俄然若い人が増えました。かなりの高確率で自分より若い。娘と同い年、あるいは年下の場合も珍しくありません。いつの間にか自分は年を取ってしまったんだのだなあと愕然。がっかりすることではないのですが。

 定年間近の方や再任用で働いている方と話すと、ほっとしている自分がいることに気が付きます。安心感があるというか。

 

 町へ出ると、高齢者の方がたくさん。自分の両親くらい、あるいはもう10年くらい若い方々。

 町のスーパーで料理レシピの棚を見ているときに、「これは、家で作れる。レシピにするほどのこともないよね。」とか「これはもらっていって作ってみてもいいかも。」などと、なぜか初対面の人と盛り上がったのは、私より10歳くらい年長のおばちゃんでした。

 「まだ来ないねえ」と言いながら、あーでもないこーでもないと話しながら停留所でバス待ちした相手は、母くらいの年齢のおばあちゃんだった。

 「おばちゃん」とか「おばあちゃん」と言ってしまっていますが、こうして話しかけてくれるのは、「おばさま」や「おばあさま」ではなく、気さくな方々。そしてなぜか私はよく話しかけられる。話しかけられるのは嬉しくて、「今日はいい日だったな」とその日一日幸福感が続きます。

 昨年夏に骨折で入院したときも、同じフロアの患者さんたちと仲良くなりましたが、皆さん私よりお姉さんでした。特によく話をした鎖骨骨折のMさんは、「娘ほども年の離れた(それほどでもないのですが。正確には20歳差?)あなたとこうして親しくなれるなんて、骨折したけどいいこともあるわね。」と言ってくださいました。Mさんとは退院後も時々電話で話しています。抜釘の話はまだ全然、出ないみたい。部位によって違うのかな?

 

 自分より年長で姉のように接してくださる方々。みなさん、私にとってとても大切な方々です。

 

 でもね、最近、思うのです。そろそろ自分が、誰かの大切な年長者になる時かなって。家族(子どもたち)に対してもしかり。職場で一緒に働く方々に対してもしかり。

 それから、職場である学校で接する子どもたち。以前は、自分の末っ子と同年代だったので、母親のような感覚を持ちながら接していましたが、この頃は明らかに、彼らの母親より年長です。「この人はいくつなんだろう?」というはてなマークが子どもたちの頭の中に浮かんでいるようで、「ねえ、何歳?」と聞かれることも。(ナイショと答えています。)お母さんより上で、おばあちゃんと呼ぶほどには年を取っていない不思議な人。そんな立ち位置で、私ならではの接し方ができたらいいなあ・・・

 

 今日もお訪ねくださり、ありがとうございました。

 

肘頭骨折 術後170日目 2月はきらい

 私の両親は80代でそろって健在です。母は、私が骨折したときに、それまでは「今年の夏は暑いわね。もうだめ。どこにも行けないわ。」とか言っていたのに、骨折したと聞いたとたんに飛んできました。びっくりするやら、ありがたいやら。なんだかんだと言っていますが、たぶん割と元気な高齢者です。

 

 先日は、母の誕生日でした。

 お昼でも一緒に食べようと誘いましたところ、「ホットケーキが食べたい。」とのこと。しかも星野珈琲がいいというピンポイントンのご指名。それならば話は早いと、近所の星野珈琲でのランチとなりました。

 

 さて、「どうしても一度食べてみたかった」という母の念願のスフレパンケーキ(そう、厳密にいえばホットケーキではありません。)が運ばれてくると、母は「私のお誕生日はね、ホットケーキなの!」と言います。母の父(私の祖父)が、母が子どもの頃、お誕生日には必ずホットケーキを焼いてお祝いしてくれたからなんだそうです。

「でも、これ、ホットケーキではないわねえ・・・」

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 だからこれは、スフレパンケーキですってば。

「ホットケーキとパンケーキって何が違うの?」

 はて、なんだろう? 答えに詰まっていますと、まあそれはそれとして・・・と言って、母は先を続けます。

「2月はお誕生日の月だけど、私、2月はきらい。」

 以下、長々と続いた母の話を書かせていただきます。お付き合いください。

 

 昭和14年生まれの母が2月を嫌いなわけは、空襲で焼け出されたからです。小学校に上がる直前のことでした。

 母の住んでいた家は、東京都文京区本駒込にありました。当時は神明町と呼ばれていた地区です。家のすぐ近くに天祖神社という神社があり、これが町名の由来でもありました。

 

 1945年2月25日、「早く外に出なさい!」と母親(私の祖母)に言われ、防空壕から外に出ると、すでにそこは火の海だったというのが、母の最初の鮮烈な記憶だそうです。母親(祖母)は、「おばあ様(お姑さんが近くに住んでいたのです。)をお迎えにいくから、あなたは〇〇(妹の名前)ちゃんを連れて逃げなさい。」と言い残し、赤ん坊の弟をおんぶして去ってしまったのです。

 たった6歳の子どもです。3歳の妹を託されて途方に暮れるところですが、「近所の人たちと一緒に逃げなさい。必ず後で会えるから。」と言われたのを信じ、妹の手を引いて逃げました。その日は雪が降っていました。やがて妹が「足袋がぬれて足が冷たい」とぐずり始めたので、自分の足袋をぬいで履かせます。このくだりは、これまでも何回も聞いたのですが、たった6歳の子が・・・といつも思いました。

 そうして一心に大人たちの後をついて行ったのですが、子どもの足です。だんだん遅れをとるようになり、もうだめだと思ったときに、ひょいと妹を抱き上げた人がいました。見ると知らない男の人が、妹を抱いたまま、タッタッタッタと走っていくではありませんか。「たいへん! 人さらいだ!」

 当時、人さらいは珍しいことではありませんでした。母親から妹を託されたのに、さらわれるわけにはいきません。必死に人さらいを追いかけました。

 ところが不思議なことに、人さらいは少し先まで行くと、立ち止まってこちらを振り返ります。そして母が付いてくることがわかると、また、タッタッタッタと走っていくのです。

 そうしてようやく吉祥寺というお寺に着いたものの、そのお寺にも火の手はせまり、あっという間に燃え始めます。「逃げろー!」という大人たちの声。母もまた、人さらいのおじさんの後を追っっかけます。タッタッタッタッタ・・・  タッタッタッタッタ・・・

 やがて千駄木小学校というところに着きました。(結局、ここまでは火の手は来ませんでした。千駄木小学校は、この後も、戦災に遭うことはなく、終戦を迎えたようです。)

 人さらいのおじさんは妹をおろし、「よくついてきたね」と母の頭をポンポンとなでました。人さらいではなかったんですね。そこへお姑さんを連れたお母さんも到着し、しきりにおじさんに頭を下げています。おじさんは近所の人で、お母さんは逃げる前に姉妹のことを頼んでいたのだなと、後になって気が付いたそうです。

「だからね、あのおじさんがいなかったら、逃げ遅れていたと思うの。妹が人さらいにとられてはなるものかと頑張れたのだから。」

 なるほど。そうならば、私もおじさんに感謝しなければ。おじさんがいなければ、私はこの世に生まれていないかもしれませんね。命の恩人。

 お母さんに会えて安心したからでしょうか。今度は「もうお父さんには会えないのかな」と悲しくなったそうです。けれど、一晩寝て目を覚ますとそこにはお父さんがいました。

「本当にうれしかった。空襲で焼け出されてしまったけれど、家族は誰も命を落としていないのは本当にありがたい。」と母はいつも言っています。

 家の近くの天祖神社も、吉祥寺も、それからおばあさんが住んでいた家も、この空襲で焼け落ちました。天祖神社は1954年に再建されています。また、おばあさんの家があった場所は、現在では文京区立第九中学校の敷地の一部になっています。

 地図を見てみたのですが、子どもの足では途方もなく遠かったのでしょうが、割と狭い範囲を行きつ戻りつ逃げていたんですね。

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1945年2月25日、東京は大雪だったという記録も残っています。

 

 

「だから、私は2月はきらいなの。飛行機もきらい。みんなB29に見えるから。」

 母は、一度も飛行機に乗ったことがありません。

 

 この話には、さらにおまけがあります。

 この年の2月の母の誕生日にも、祖父がホットケーキを焼いてくれました。配給も滞り、どこにそんな粉があったのだろうと母は不思議がっていましたが、きっとこの日のために取ってあったのですね。おじいさんとおばあさんが、粉箱をひっかいてパンをやく「おだんごぱん」みたい。それはそれとして・・・

 母には当時ひいおばあさんもいて(私の、ひいひいおばあさんですね。)、戦争がいよいよ激しくなってきた頃、「あたしの目の黒いうちは、神明町の家は焼けないよ」と断言していたんですって。母がお誕生日にホットケーキを食べたのが2月の上旬、その数日後に、ひいおばあさんが亡くなりました。

 「集団疎開に行っていたお姉さんにお母さんが事情を説明する手紙を書いていたっけ。こっちのことは心配しないで、と書いていたのを覚えているわ。」

 その数日後の、25日の空襲だったのです。

 

 ここまでの話、断片的には何度も聞かされていたのですが、今回はいつになく長く詳しい話でありましでありました。

「長々、ごめんなさいね。でもね、これ、ホットケーキじゃないわね。私が好きなのは、ホットケーキなの。」

 ああ、そうなのね、ごめんごめん。ホットケーキとパンケーキの違いも結局よくわからないのですが、今度は「ホットケーキ」として売っているお店に行ってみます? そう思って、いろいろ調べたら、何軒かホットケーキ屋さんがヒットしました。

 でもね、ふと思ったんです。何を食べても、きっと母は「これはホットケーキじゃないわ。」と言うんじゃないかしら? なぜって、母にとってのホットケーキは、お父さんが焼いてくれたホットケーキだからです。

 

 今日もお訪ねくださり、ありがとうございました。

 

 

 

肘頭骨折 術後169日目 救世主チョコレート

 今日はバレンタインデーですね! チョコレートを贈るの、貰うかもしれないのというハラハラドキドキとは無縁ですが、一応、家族のためにココアクッキーを焼いています。年中行事ですね。焼きあがりを待ちながら、ブログ執筆中。

 

 子どもの頃、チョコレートって、何かと悪者呼ばわりされてた気がします。禁断の味というか・・・ 

 「チョコレートを食べると虫歯になりますよ。」とよく言われたし、遠足に持っていくおやつも、「ガムとチョコレートはだめです。」と。ガムは、飲み込んだりしたら危ないからかしら? チョコレートはリュックの中で溶けるから? ほら、街道ウォークでも、山中→三島を歩いた酷暑の日に、リュックの中で「きのこの山」が溶けて、大きなチョコレートクッキーになっちゃったし。

 「チョコレートを食べると鼻血が出るよ!」とも言われましたね。鼻血は困るから、あんまり食べないように気を付けましたよ。

 遠足のおやつは、わからなくもないけれど、虫歯と鼻血は言いがかりなんじゃあないでしょうか? それよりむしろ、チョコレートはポリフェノールが豊富で健康にいいらしいと、この頃言われていますよね!

 しかも、骨折患者にとって、チョコレートは救いの神なんですよ。なぜならば、チョコレートは傷を癒す効果があるからです。以下に詳しく書いてありました。

matome.naver.jp

 チョコレートは発酵食品なのでポリフェノールを多く含み、そのため強い抗酸化作用があり、炎症を抑える働きをするということです。また、皮膚の再生に必要な亜鉛が多く含まれているのも、傷の治りを早めると言われている理由のようです。

 

 このことは骨折したときに知って、入院するときにカカオ72%のチョコレートを持ち込んで、毎朝おめざに食べていました。なので、今度の抜釘手術にも持っていくつもりです。

 そう言えばハリーポッターで、ハリーが「吸魂鬼」に遭遇したときに、ルーピンが快復のために与えてくれた食べ物がチョコレートでした。小説を読んでいると、気持ちを落ち着かせるためにココアを飲むシーンなんかもありますよね。チョコレートは断じて悪者ではありません!

 

 ココアクッキーが焼きあがりました。ひとつ味見して、今日は寝ます。こんな夜に食べるのは、やっぱりよくないかもしれませんが。

 

 今日もお訪ねくださり、ありがとうございました。