てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

第8回 茅ヶ崎→平塚①

 茅ヶ崎→平塚の街道ウォークの旅の記録を、2回にわたってお伝えします!

 

 12月24日(日)、9時6分、茅ケ崎駅。前回のような快晴とは言えず、冬の曇天で寒いです(泣)。そのうち晴れてくるかもと、気を取り直して出発です。

  前回、日没でタイムアウトした本村(ホンソンと読みます!)まで、バスで向かいます。停留所、たった1つ分。なんだ、意外と近かったのかぁ。(疲れていたのか、前回はバスに乗っていても遠かったなぁ・・・)

 

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海前寺

 

 本日1つめのチェックポイント、海前寺。山門両脇の立派な仁王像がお出迎え。

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 六地蔵様に和みます。こうやってお花が飾られていると、ぽっと明るくて嬉しい。

 

 お寺の境内に、江戸時代の石灯籠があるという事前チェックでしたが・・・ 探すまでもなく、すぐに見つかりました。

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 このように、本堂の前に、二つ、石灯籠があります。

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 へぇ~、ずいぶん古い石灯籠がちゃんと残っているんだねぇと感心しながら境内を出て歩いていますと、お寺に隣接する敷地(塀の外の道沿い)にまた石燈籠。

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 見落とさなくてよかったぁ!

 

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 佐々木卯之助さんの供養塔です。石燈籠のすぐそばにありました。説明板によりますと、藤沢の片瀬川周辺の鉄砲宿の敷地内では開墾は禁止でしたが、貧しい地元の住民がこっそり田畑を耕して自給しておりました。それを、鉄砲宿の役人だった佐々木卯之助さんは、黙認してくれていたのですがばれてしまい、島流しの刑になってしまいました・・・佐々木卯之助さんの死後、住民が個人を偲んで供養塔を建てたということです。

 なかなか、よい物語を聞いてしまった・・・

 

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 供養の隣にも六地蔵がありました。このお寺、塀の外も、要チェックです。

  

八王子神社

 

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 鳥居のしめ縄が、立派です。境内では、氏子の方々が、せっせと初詣に向けての準備をされていました。思えば、大晦日を一週間後の控えた最後の日曜日ですね。

 

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 この手水鉢、実はすごいハイテク。動画でお見せしたいくらいです。以前、手をかざすと水が出る手水鉢がありましたが(鶴見神社)、ここはさらに進んで、人が通るとセンサーが働いてお水が出ます。手の洗い方について丁寧な説明の貼り紙もありました。こちらはアナログ。(今に、説明も映像になったりして?!)

 

 境内の庚申供養塔です。

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 供養塔の説明です。上の写真の位置と合っています。これまたずいぶん、古いですね。

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 かつての鳥居です。関東大震災で倒壊してしまったものの一部が残されていました。

 

 

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 いろいろ見てきましたが、こちらが本殿。

 

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 境内に鐘楼がありました。ここの鐘は第二次世界大戦中に、供出されたそうで、戦後、平和を願って再興されました。

 

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 境内には、八坂神社を始め、様々な神社にもお参りできるようになっています。

松並木

 

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 駅に向かう途中の松並木です。


一里塚跡

 

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 江戸より14里めの一里塚は、このように塚のかたちで残っている貴重な一里塚です。ちなみに、バスの中からも見えました。

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 反対側には小さな公園があります。平成になってから整備したようで、一応榎を植えてみたとか。でも、なんだか、元気のない榎です。大丈夫かな?



旧寛永寺石燈籠

 

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 市役所の敷地内に6基の石灯籠があるということでしたが、ごくごく入口の所に4基ありました。残り2基は、敷地のもっと中程だったのかも。家に帰ってから、あれ、4基しかチェックしてないなと気が付きました。まあいいか。
 戌辰(ぼしん)の役や関東大震災や戦災などで被害を受けた上野の寛永寺への再建寄付の返礼として贈られたものです。

円蔵寺

 山門はこんな感じ。

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 本堂です。

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 六地蔵、ちょっと寂しげ。日当たりが悪いせいかな。

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 円蔵寺は本村のあって関東大震災で倒壊したそうで、その礎石がありました。関東大震災の傷あとがここにも。

 

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 乃木希典像です。手前、左手にあるのが、203高地血染の岩片。右側に水師営のなつめの木。これらについては、後日、説明板をブログにアップします。

 こちら、203高地血染の岩片に近づいてパチリしました。

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 こちら、水師営のなつめの木

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  これも、関東大震災で倒壊した鳥居でしょうか。詳しい説明を見落としてしまったようで、詳細はわかりません。

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第六天神社

 

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 初詣用でしょうか。鳥居脇の石段にずらりと並ぶ色とりどりの紙灯篭が、目を引きます。12月27日にはだるま市もあるのですね。楽しみですね。

 

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 なかなか風格のある境内です。入ってみましょう。

 

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 境内にこんな表示が・・・

 

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 本殿です。ここにも紙灯篭。

 

 青面金剛像があります。

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 それぞれの青面金剛像については、下の写真の説明を参照してください。

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 こちらは庚申塔です。どれも割とミニサイズでした。

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 近づいてみると、お顔の表情がかわいいです。誰が描いたの?

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 三猿の庚申塔もありました。

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 本殿の裏には古い松の木があるということで(神社の説明によると新たなパワースポットとか・・・)、行ってみました。

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 見上げても見上げても、てっぺんが見えません。確かにパワースポットかも。樹齢200年を超える黒松です。

 


金剛寺

 

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 ちょっと入りにくそうな雰囲気でしたが、失礼します・・・

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 境内に太子堂があります。

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 若松幹男先生のお墓というのがありました。若松先生は茅ケ崎小学校の前身である琢章学舎の先生でした。碑文には在職中に平凡な亡くなり方をしたように書いてありますが、生徒13人が期末試験で落第したことに責任を感じて割腹自殺をしたのだそうです。そ、そ、そんな・・・! 説明文を読んでびっくり。

 

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 芭蕉の句碑を発見。ここに句碑があることを知らなかったのに見つけることができて、嬉しかったです。(控えめにVサイン(*^^)v)

父母のしきりにこひし雉子(きじ)の聲

 
南湖の左富士碑

 京都に向かう東海道中で、富士山が向かって左手に見える珍しいスポット。広重さんの浮世絵でも有名です。

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 碑の前にいたら、地元の女性の方が、「ここから今でも富士山が見えるんですよ~。夕焼けの時、本当にきれいです。」と教えてくださいました。

 

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 「あのあたりに見えるんですよ!」と教えてくださった方向をパチリしました。生憎の曇り空で、富士山は見えませんでしたが、教えていただいて嬉しかったです。ありがとうございました。


 これより、道路を渡って、鶴嶺神社に向かいます。鶴嶺神社については、ガイドブックのチェックポイントは、鳥居と弁慶塚と松並木だけで、神社はチェックの対象ではなかったのですが、由緒ある神社のようで行ってみたくなったので足を延ばしました。この後、神社まで1キロほど歩くことになりますので、いったんブログを閉じます。

 ここまで読んでくださりありがとうございました。続きも訪ねてくださると嬉しいです。

 


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お土産 茅ヶ崎→平塚

 12月24日(日)、第8回街道ウォーク 茅ヶ崎→平塚 を実行しました! 先週末の天気予報では傘マークが見えていたので心配していましたが、問題なく、今まで同様の穏やかな天候の中で、歩くことができました。

 今回は、いろいろお土産を買ってみたので、ご紹介します。

 

 小林の落花生

 

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 南湖の左富士の碑の近くに、湘南育ちの落花生の専門店がありました。創業80年を超えているそうです。

 

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 お店のイチオシ「味付落花生」を買いました。

 味付落花生は、独自の味付けが評判だそうで、皮ごと食べてくださいとのことでした。落花生の薄皮にはリスベラトロールポというポリフェノールの一種が含まれていて、で血液サラサラの効果があるとか・・・

 もう一つ、衝動買いしてしまった「ほととぎす巻」。

 落花生の粉で味付けしたものを紫蘇の葉で包んでいて、ご飯に乗せて食べるとおいしいという、お店の方のトークに興味を持って買いました。家に帰ってきて説明書きを読んだら、食べた後の辛子の辛さで「ヒイー」となるところがほととぎすの鳴き声に似ているのが名前の由来なんだそう。大丈夫かな? 株式会社椎野食品工業所の製品です。約100年前、三代目椎野安次郎さんによって考案されたそうです。

 後日、両方とも食リポしますね。

でかまん菓子舗

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 東海道を西に向かい、小出川を渡る手前左側にあります。かなり目立つ看板に吸い寄せられるように、お店の中に入りました。

 「でかまん」とはなんぞ? 

 むむむ、確かにでかい。

 丸いお饅頭を想像していましたが、長方形に近い小判型です。一番小さいものは手のひら半分くらいのサイズですが(これでもかなり食べ応えありそう)、B5版、A4版くらいの大きさのもあって、お饅頭というより、分厚いのし餅みたいなのが、ショーケースに並んでいます。もちろん中身はあんこ。切り分けて食べるそうです。こりゃびっくり。大きいのもなかなか魅力的ですが、旅の途中ですので一番小さいのを買いました。

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ちなみに、しおりの説明はこちら

でかまんはその昔、東海道の旅人に相模川のほとりで(昔は店のすぐ近くを流れていました)霊峰冨士を仰ぎながら一寸一服・・・ 少しでも旅の疲れを取り除いていただき、後の道中を願うため、初代店主が茶店で提供していたものです。

 「でかまん」というので、ちょっとウケねらいの最近のお土産かと思っていたけれど(すみません)、街道ならではの伝統あるお茶菓子だったんですね。

弘栄堂のちょんまげ最中

 長い長い馬入橋を渡り切ってまもなく右手に見える和菓子屋さん。近くにある丁髷(ちょんまげ)塚にちなんだ「ちょんまげ最中」があるというので、立ち寄ってみました。最中以外にもいろいろな和菓子を売っていました。明治神宮に献上するお菓子を作っているそうです。

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 お目当てのちょんまげ最中はこちら。かわいいパッケージです。

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 中身もちゃんと、ちょんまげのお侍さんの顔。さっき、ネットで見たら、「ちょんまげ最中」の名前がついているのにただの四角い最中で残念・・・みたいな書き込みがありましたが、ちゃんと改良してる!

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 帰って来て、ちょんまげ最中だけ、いただきました。あんこが甘すぎず、上品なお味でしたよ。ごちそうさまでした。

 

 明日以降、順次ウォークの様子をアップしていきます。また、訪ねて来てくださるとうれしいです。

 

 

 

 


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クローズアップ! 平塚宿

 次回ウォークは、茅ケ崎高校前から平塚駅までです。めざせ、平塚宿!

 というわけで、平塚宿についての予習です。

 

平塚の位置・風土


 東京からJR東海道線の普通電車で約1時間、相模川を渡ると、そこが平塚です。
 平塚は、東京から南西方向に約60Km、神奈川県のほぼ中央、相模平野の南部に位置し、約4.8Kmの海岸線から西北に広がる扇形で、相模川と金目川の下流域に発達した平野と、それを取り囲む台地と丘陵から形成されています。背後には丹沢・大山山麓が控え、西方には富士・箱根連山を遠望できる四季温和な気候に恵まれたまちです。

 

平塚宿の成り立ち

 

 近世の平塚宿は慶長6年(1601)、徳川家康による東海道整備とともに成立した宿で、元和9年(1623)に川崎宿が成立すると、日本橋から七番目の宿となりました。

 平塚宿を考えるうえで、まず浮かぶ疑問は、次の宿場、大磯宿との間の距離の短さです。約3km、東海道の宿間では3番目に短いです。東海道の宿間の平均距離は9.3kmなので、この距離の短さは異例といえます。なぜ、こんなに短いのでしょうか?
 平塚宿成立以前に徳川政権が東海道沿いの宿に伝馬の継ぎ立てを命じた資料をひもとくと、平塚宿が記載されているものと記載されていないものとがあり、東海道成立以前の平塚は藤沢・大磯・小田原にくらべて伝馬の宿として固定化されていなかったようで

す。平塚は中世からの交通集落ではありましたが、直近に大磯宿があり、固定した宿とはされず必要に応じて伝馬を命じられたり、命じられなかったりしていたのではないでしょうか。
 それでは、なぜ、東海道成立時に宿駅として確定、成立したのか。その理由として隣村の中原に慶長元年に設置された中原御殿の存在が考えられます。中原御殿は徳川家康が鷹狩りの際の旅宿とした御殿ですが、家康はここを頻繁に訪れ、民情視察や論功行賞を行ったりしています。後には中原代官陣屋も設置され、相模国中郡の支配の拠点にもなりました。平塚が御殿に近く、中原御殿との中継基地として必要とされたのかもしれません。

 平塚から江戸までは古代からの主要道として現在の中原街道があり、家康も江戸入府にはこの街道を選びましたが、伝馬制度導入にあたっては街道沿いの東海道に人馬継立を命じました。家康は将軍になってからも度々中原街道を往来しており、自分の動きやすい道として中原街道を確保しておきたかったのかもしれません。

 平塚は東海道と中原街道という二大街道の追分的宿駅でもありました。

*この部分の記述は、平塚市博物館のホームページの「Web読み物 ひらつか歴史紀行」を参考にさせていただきました。

www.hirahaku.jp

 

平塚宿の規模

 近世の平塚宿の様子を知る史料「地誌取調書上帳」によると、平塚宿・平塚新宿合せて石高952石3斗2升7合、家数414軒、総人数2038人でした。また、慶安4年(1651)、八幡村の一部が八幡新宿村として平塚宿の加宿となり、明暦元年(1655)に平塚新宿と改称した経緯も記されています。加宿とは宿の負担を軽減するため周辺の村を宿駅に加えたもので、平塚宿における人馬継立・交通量の増加がうかがえます。

 東西距離(新宿含む)は19町5間(約2.1km)、南北距離(新宿含む)は24町(約2.4km)でした。

 神奈川県内には東海道の宿は9つ(川崎・神奈川・保土ヶ谷・戸塚・藤沢・平塚・大磯・小田原・箱根)ありましたが、そのうち、平塚宿は家数で8番目の規模の小さな宿場でした。また、大磯宿−平塚宿の間の距離が27町(約3km)しかなく、東海道の宿場間で御油宿−赤坂宿の間(16町)、石薬師宿-庄野宿(25町)に次ぐ3番目の短さであることも特徴といえます。また、旅行者が江戸や京都から東海道を通る場合、小田原や戸塚・保土ヶ谷などに宿泊し、平塚宿は休憩地として利用されることが多かったようです。

 

 平塚宿は、幕府にとっても庶民にとっても、ちょっと休憩するのに便利な宿場だった、というざっくり理解でいかがでしょう?

 

明治以降

 

 1871年(明治4年)、廃藩置県により、小田原県になり、のち足柄県になりましたが、1876年(明治9年)足柄県が廃止され、神奈川県の管轄に入りました。

 1887年(明治20年)に鉄道(現在のJR東海道線)が開通すると、平塚駅を中心に発展しますが、1923年(大正12年)の関東大震災では、各地で大被害となりました。

 1929年(昭和4年)平塚町と須馬町が合併して、平塚町になり、1932年(昭和7年)には、横浜、川崎、横須賀に次いで、県下で四番目に市となって、商工都市としての第一歩を踏み出しました。

 第二次世界大戦では海軍火薬廠があったことから、昭和20年7月の大空襲で壊滅的打撃を受け、当時の中心市街地の約70%が焼け野原と化してしまいましたが、戦後、焦土のなかから再び復興へと力強く歩み始めました。

 1954年(昭和29年)に旭村と合併、1956年(昭和31年)に大野町、神田村、城島村、金田村、土沢村、岡崎村(一部)と合併、1957年(昭和32年)に金目村と合併と、1954年から1957年にかけて、1町7村を合併し、現在の市域となりました。

 その後、都市施設や市街地の整備が進み、商工業の成長とともに住宅地としても発展し、現在に至っています。 

 平成29年12月1日現在の推計の人口は258391人、世帯数は110,071世帯 です。

  なお、平塚市といえば七夕を思い浮かべる方も多いかと思います。七夕は江戸時代からの各地で行われていた風習ですが、平塚市の七夕は戦後の復興の機運の中で盛り上がりました。「戦災復興五ヶ年計画」も一段落した昭和25年7月平塚復興祭が開催され、ちょうどこの時期が近隣農家の野上りの時期とも重なり非常に多くの人出を見ました。そこで、平塚商工会議所、平塚市商店街連合会が中心となって昭和26年7月に仙台の七夕まつりを範とし、昔日の平塚を思い起こしながら、平塚商人のたくましい心意気を吹き込んだ第1回七夕まつりを行い、昭和32年からは、平塚市の主催となっています。諸産業発展を願い、また平塚を広く全国に紹介する場として重要な役割を果たしており、今日では、日本を代表する七夕まつりに成長しています。

 

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。また訪ねて来てくださると嬉しいです。

 

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【参考】 

平塚市ホームページ

市の紹介 | 平塚市

平塚市博物館のホームページ

www.hirahaku.jp


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先取りふむふむ 茅ヶ崎→平塚

 次回ウォーク、「茅ヶ崎→戸塚」の準備を始めます。例によって街道ウォークのバイブル『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(八木牧夫 山と渓谷社)のチェックポイントを中心に、事前チェックをします。

 

海前寺


  天正19年(1591)の創建。領主丸毛権之丞の菩提寺。鐘楼の脇には仁王像が配され、境内には六地蔵が安置されています。


八王子神社


 境内には道祖神や庚申塔があります。 

 

松並木


 
一里塚跡


 旧東海道の、江戸日本橋より14里目に当たります。
昔は1里ごとに築かれていましたが、道路の拡張、改修でほとんどが壊されて、ここに残る塚は大変貴重なものです。

 

旧寛永寺石燈籠

 

 徳川家の菩提寺として栄えた上野の寛永寺には、全国の大名から歴代将軍への供養としてたくさんの石燈籠が献上されていましたが、それが市内に6基移されています。戌辰(ぼしん)の役や関東大震災や戦災などで被害を受けた寛永寺への再建寄付の返礼として贈られたものです。

 

円蔵寺

  真言宗高野山。慶安2年(1649)、徳川家光より朱印を受けました。厄除け茅ヶ崎大師。境内に六地蔵、乃木希典大将像、水師営のなつめの木、203高地血染の岩片があります。

十間坂

  十間坂とは「此処右に冨士 大山 箱根、左に江嶋 鎌倉 六浦 金沢など見ゆるゆえ十景坂ともいう」を由来としています

第六天神社

 社宝には山岡鉄舟寄進の掛軸一幅があります。立派な境内と堂々たる構えの社殿の、市内でも屈指の 神社です。

金剛寺

 高野山真言宗。境内に大師堂があります。 

南湖の左富士碑

 鳥井戸橋の渡り詰めに「南湖の左富士碑」があります。東海道を京に向かえば冨士はいつも右に見えますが、この場所は街道が北に向かっているので進行方向の左側に見えて珍しいので、名所になっていて、浮世絵にも描かれています。

 

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 歌川広重の「五十三次名所図会 藤沢 南湖の松原左り不二(竪絵東海道)板元:蔦屋吉蔵(つたやきちぞう)」です。広重晩年(59才)の作品です。
 この画は表題にもあるように東海道の南湖の松並木の風景に加え、「左富士」が描かれています。現在でも鳥井土橋(とりいどばし)から、きれいな「左富士」を見ることができます。

 

 南湖は立場(宿場と宿場の間の休憩場所)のあったところでした。街道をちょうど右に大きく屈曲するまでの辺りが茶屋町です。かつては小林本陣の松屋、脇本陣の江戸屋・橘屋など、茶屋や民家が軒を並べていました。

 

鶴嶺神社鳥居

 街道沿いの大鳥居から北へは松並木の参道が続きます。

 鶴嶺八幡宮は、平安時代の終わり頃ともいわれる起源をもつ古社です。平(大庭)良正が1133年に九州宇佐八幡宮からご神体を勧請したのが始まりとも、1051年に源頼義が奥州に向かう途中、石清水八幡宮を勧請したのが始まりとも言われています。

 「八幡大菩薩佐塚大明神両社之記録」という文書によれば、戦乱により荒廃した神社を復興した別当寺常光院の上人朝恵が、江戸時代はじめ(1650年頃)に東海道(現国道1号)までの約420間(約760m)に松を植え、参道を整備したそうです。
 参道は史跡に、松並木は天然記念物に指定されています。参道は、発掘調査により現道面以下に数段階の古参道面が確認されています。また現存する松並木には、もとより当時の松はありませんが、時代ごとに補植が繰り返され、往時の面影を偲ぶ松並木の景観を今に伝えています。

 境内には、根回り8.5㍍、高さ29㍍の大イチョウもあります。前九年の役(1051~1062)の戦勝祈願に源義家が自ら手植えしたと伝えられています。

弁慶塚

 鶴嶺神社の境内に標石があります。弁慶塚は、里人が頼朝の落馬を憂い、義経一族の霊を慰めるために弁慶塚を造りました。

神明神社

 往時、境内には清水があり陰陽師・安倍晴明が東下りの折、喉を潤したところから清明井戸とも呼ばれました

旧相模川橋

 旧相模川橋脚は、大正12(1923)年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡です。当時の歴史学者沼田頼輔によって、鎌倉時代の建久9(1198)年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15(1926)年に国の史跡に指定されました。

 平成13年から実施された保存整備に伴う調査では、橋脚についての詳細が確認された他、新たに橋脚の北側から関連する大きな土留め遺構も発見され、19年2月6日に追加指定を受けています。
 また、関東大震災の時、橋の手前の左側の田が隆起、七本の橋脚が出現しました。
 旧相模川橋脚は、歴史遺産(史跡)としての重要性に加え、関東大震災の地震状況を示す天然記念物としての面を有しており、重要な地域遺産として高く評価されて、24年度、史跡指定に加え国の天然記念物としての指定を受けました。

  なお頼朝はこの橋の落成式の帰途、義経一行の亡霊に驚いた馬が暴れて落馬してしまったこと原因で翌年死亡したといわれています。鎌倉期はここが相模川であったと言われています。

 

 

 

上国寺

 日蓮宗妙厳山。本堂に安置されている永正11年(1514)造立の木造日蓮坐像は、全国の日蓮像のうちでも古い方に属し、市内の仏像彫刻のなかでは貴重な像です。
 像高32.0センチ。袖張42.5センチ。膝張り26.0センチ。寄木造り。玉眼嵌入。頭部、体部共に前後矧ぎ。肩膝前は別木。像内の胎内頭部後面に、向かって右から「三月日/永正十一年/作之」と墨書銘があります。  

信隆寺

 寛永元年(1624)の創建。その時の鰐口が残っています。永禄7年(1564)造立の木造日蓮坐像は、全国の日蓮像のうちでも古い方に属し、市内の仏像彫刻のなかでは貴重な像です。
 像高42.0センチ。袖張65.6センチ。膝張35.5センチ。寄木造り。玉眼嵌入。彩色(後補)。頭体は1材を頸部で割りはなち、耳後ろで前後に矧ぎます。体部は6材を割り矧ぎ。胎内背面に、向かって右から「八月十三日/法主日□坊/南無妙法蓮華経/願主仏国寺善行坊/日受/敬白/于時永禄七年甲子」と墨書銘があります。

 

男女双体道祖神

  銅葺屋根の祠の中に納まっています。 

道祖神

 二体の道祖神が祠の中に納まっています。 

馬入橋

 今宿から中島に至る辺りは、かつて相模川が流れていましたが、川の位置は江戸期になると、ここに変わっています。

 頼朝が落馬したとき、馬が川で溺れて死んでしまったので馬入川と呼ばれるようになりました。この一件から架橋は不吉と言われ、江戸時代、相模川(馬入川)の渡河は船渡しでした。 現在の馬入橋の辺りに渡船場があり、付近の村々から船頭が交替で動員されました。「武家の外、舟ちん十文」とあり、川幅常水で40間(約47㍍)出水時80間(約94㍍)といわれていました。

 『東海道中膝栗毛』では、喜多さんがここはなんという川かと人に尋ねると、肝心の川の名前を言わずに「渡しだ」としか答えないの見て、面白がった弥次さんが歌を詠んでいます。

川の名を問へばわたしとばかりにて入が馬入の人のあいさつ


 「渡し」に「私」(我)をかけ、「入が馬入」を「入我我入」(密教仏教の用語。如来が自己に入り、自己が如来に入り、両者が一体になること)にかけています。「お前が我か、我がお前か」が転じて、要領を得なくて無茶苦茶なこと。

 なお、馬入川の水源は甲州猿橋です。

 

明治天皇馬入御小休所思址碑 

 

陸軍架橋記念碑

  大正12年(1923)9月1日、関東大震災によって馬入橋が倒壊。同月17日、陸軍工兵大隊が急遽派遣され復旧されました。

 馬入の一里塚

  日本橋より15里目。往時、北側の塚前には井戸、向かいには川会所や川高札がありました。

 

丁髷塚

 喧嘩が元で16名の若者が死罪を命じられましたが、代官は若者たちのまげを切り斬首に代えました。打首に代えて切り落としたまげを埋めた場所です。

 

 ここまで読んでくださりありがとうございました。次回は、平塚宿について事前チェックをアップします。また訪ねてくださるとうれしいです。

 

 

【参考】

 

『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(八木牧夫 山と渓谷社)

『神奈川県の歴史散歩 下』(神奈川県高等学校教科研究社会化部会歴史分科会編)

茅ヶ崎市ホームページ

www.city.chigasaki.kanagawa.jp

平塚市ホームページ

文化・歴史 | 平塚市

藤沢市浮世絵博物館ホームページ

www.fujisawa-ukiyoekan.net

国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所ホームページ

東海道を歩く〜宿場案内〜

 

 

 


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「まちなみ」ウォッチ 藤沢→茅ケ崎

 旅先の風景は一期一会。

 江戸の雰囲気を今も残す建物や、次に来たときはもしかしたら変わっているかもしれない街の風景を、ピックアップします。

 ぜひ、「第7回藤沢→茅ケ崎」①②と併せてお読みください。

 

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  スタート地点は、ここ藤沢駅です。快晴ながら空気はひんやり。冬ですね・・・

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 遊行通りを歩きます。カラフルにペイントされたトランスボックス(電柱の地中化のために設置されたボックス)が、たくさんありました。東海道のトランスボックスは写真と説明文ラッピングされていますが、こちらはポップな感じですね。

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 なぜか目が吸い寄せられてしまいました。フランス古着量り売りって?

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 東海道に合流します。古からやっていると思われる商店がたくさんあります。

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 街道を少し入った所にある蔵まえギャラリー(旧榎本米穀店)ギャラリーということは、中は展示スペースなのかしら? 画廊みたいな?

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 クリスマスツリーがかわいい。古い建物に、不思議と合ってます。

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 蔵も立派です。

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 石曽根商店 明治34年創業の履物屋さんです。

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 近づいて見てみましょう。立派な看板です。

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 こちらは洋紙店桔梗屋

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 どの角度から撮っても、絵になる建物です。

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 稲元屋の蔵を探したのですが、なかなかわからず。こんな石柱がありました。どうやらこの辺りらしいことはわかりましたが、肝心の蔵はどこに?

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 「稲元屋」はアパート「メゾンイナモト」になっています。

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 アパートの並びに古そうな門がある建物。この近く、怪しいぞ。

 

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 この後、街道の裏の道へ回って、行ったり来たりもしたのですが、やっぱりわからなくて。結局、跡地の碑があった裏に回ると、駐車場があり、その奥に蔵がふたつありました。これは難易度が高いミッションでした!

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 人形店では、早くも、ひな人形の売り出しが始まっていました。五月人形も。

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 みつはし園というお茶屋さんです。

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 近づいて見てみましょう。ショーケースのコーヒーカップがかわいいな。

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 みつはし園の隣の内田商店です。

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 みつはし園と内田商店の間の道を入っていくと突き当りが藤沢御殿跡でもある藤沢公民館です。公民館まで足を延ばす途中に旧家や大きな材木屋さんやあって、敷地の中には小さな祠もありました。

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 済美館の名前の付いた藤沢公民館分館です。

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 明治6年創業の米穀肥料商、関次商店

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 関次商店の穀物蔵です。

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 こちらは旧鎌田商店の蔵です。

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 反対の角度からも見てみましょう。煉瓦造りなんですね! どことなく洋風。

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 さて、こちらは何の蔵だと思いますか?

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 交番です! まちなみに合わせていて、気が利いている!

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 白旗神社に向かう途中も、なんとなく古そうな建物が目につきました。もしかしたら、最近の建物かもしれないけれど。町並みに合わせた建築物、いいと思います!

 こちらは、たねやさんです。

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 これは、きものやさん(呉服屋さん)

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 白旗神社のお参りを終えて、伊勢山橋まで来ました。藤沢宿(宿場)ともお別れです。

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 道路の向こうに「かざりや」さんというお店が。なんだろう? 気になりますが先を急いでパス。

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 足元のマンホールをパチリ。藤沢市だから、藤の花。

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 引地川にかかる引地橋です。

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 引地橋からの眺め。市街をはずれ、どことなくのどかな風景。

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 道路の向こうに、お寺の境内にある灯篭やオブジェをたくさん売っているお店が見えました。なんだかおもしろい。

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 日本橋から54㌔。たくさん歩いて来たんだなと、感慨ひとしお。

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 茅ケ崎市に入ります。

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 立派な松並木が続きます。昔から、この辺りはずーっとこんなふうな松並木だったのでしょうね。

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 日本橋より55㌔。西日が眩しいです。

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 地蔵堂と千手院の区間の裏道です。この感じ、もしかして旧道かなぁ?

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 すっかり夕暮れです。走れメロスか・・・ 茅ケ崎駅は遠いです(泣)

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 またまた長い松並木。ここまで長いと、本当に見事。

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 茅ケ崎高校前から、茅ケ崎駅行のバスに乗りました。タイムアウトです。

 

 この日の終着点、茅ケ崎駅。日がとっぷり暮れて、家路を急ぐ人で忙しい駅前です。

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 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。また、訪ねて来てくださるとうれしいです。

 

 

 


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街道ウォークのお宝 藤沢→茅ケ崎

 歩いて集めた情報は、街道ウォークのお宝。旅先でパチリした説明板の数々をアップします。

 「第7回 藤沢→茅ケ崎」①②と併せてお読みください。

 

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ふじさわ宿交流館前

 

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 広小路というのは、火除け地のことなんですね。ひとつ賢くなりました。

 

藤沢御殿跡

 

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  本陣より先に御殿があったということですね。

蒔田本陣跡

 

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  本陣は、その地の旧家や有力者の家が指定されたという説明に、納得。

済美

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  ガイドブックのチェックポイントではありませんでしたが、ちょっと気になる説明板をにつけたので。説明は読んでの通り。公民館の名前の付け方にも、宿場町らしいセンスがあるのですね。

妙善寺

 

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常光寺

 

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  お寺よりも像の方が古いのですね!

 

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 この地図、いいですね。どこに何の木が植わっているのか、よくわかります。

永勝寺

 

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 小松屋は他と比べると良心的な旅籠だったということですね。それでも、飯盛り女の制度は、ひどいものですね。

 

義経首塚

 

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白旗神社

 

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 湯立神楽、一度見てみたいです。

 

上方見付跡

 

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 つまり、正確な場所は、よくわからないということですね。

養命寺

 

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おしゃれ地蔵

 

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 お願いが叶ったらおしろいを塗ってお礼をするという発想がユニークです。本来は道祖神の形態だけれども、土地の人の「地蔵」という呼び方を尊重しているという説明にも、いいなと思いました。

大山道道

 

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二ツ家稲荷

 

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 庚申信仰の説明が面白いです。

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上正寺

 

 

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廣徳寺

 

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 お砂踏み、しっかりさせていただきました。

 

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牡丹餅立場跡

 

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東海道の松並木

 

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ここまで読んでくださり、ありがとうございました。また、訪ねて来てくださるとうれしいです。

 


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今年中にやっておきたいこと

今週のお題「今年中にやっておきたいこと」

 

 今年中にやっておきたいことは、庭仕事です。

 以前に、とある方の本で、庭付きの借家に引っ越してきて、庭から前の住人の暮らしがわかるというくだりを読んで、面白いなと思ったことがありました。庭の思わぬところから、初夏になると紫蘇が出てきたり、ミントなどのハーブの茂みがあったりするのを見つけると、顔をみたこともない相手なのに、妙に距離が近くなるというのです。コンテナの植物はその時期を楽しむものが多いですが、庭の植物たちは、毎年その姿を見せてくれます。宿根草は地面に深く根をはって、多年草は種を飛ばしながらたくましく。

 子どもたちが小さいころは、庭付きアパートに住んでいました。かつては雑木林だったという庭は、取っても取っても、ヤブカラシのような雑草が姿を現し、「もともとは藪だったんだよ」と、まるで自然が主張しているようでした。半ばあきらめ、コンクリートのたたきのスペースに、コンテナを置いて、子どもと庭のある生活を楽しみました。晩秋に球根をたくさん植えると、春先には色とりどりのチューリップの花が庭いっぱいに咲きました。夏にはトマトやキュウリの収穫をしました。子どものためと言いながら、自分が一番楽しんでいた気がします。そんなある日、実家の父が訪ねて来て、ぼそりと言ったのです。「周りを手入れしてあげないと、大事にしたい植物も育たないよ。」 そうか、トマトやキュウリが今一つ美味しくないのは、このためだったのか。コンテナの土や日当たりだけよければいいというものではないのか。恥ずかしいことですが、そこまで考えたことがなかったのです。庭を見る目が変わった一言でした。

 10数年前に中古の戸建てに引っ越してきました。もともと畑だったというだけあって、藪の中のような植物は生えてきません。猫の額よりも小さい申し訳程度の庭ですが、嬉しくていろいろな草花を植えてみました。ビオトープガーデンを目指して、小さいながらも庭をデザインして様々な低木や宿根草を配置し、日当たりのいい一等地はハーブの寄せ植えにしました。グランドカバー用にワイルドストロベリーやスパニッシュデイジーを増やし、東側の細長いスペースには、野菜用のコンテナを置きました。ここで収穫する野菜は、以前のアパートのものとは比べ物にならないくらい美味しかったです。

 庭づくりに夢中になっていたのには、もう一つ訳がありました。その頃、私は乳がん検診で、グレーに近いと言われていました。要観察と言われ、また来年必ず検査するようにという程度のグレーだったのですが、それでも憂鬱になってしまいます。そんな時、「私にもしものことがあっても、庭は10年20年残る。」と思ったのです。無心に庭の土をいじっていると、しばらくはもやもやした気分も忘れることができました。自分の痕跡を残せるものは庭である。この思いは、グレーの疑惑が去った今も変わりません。

 だからこそ、庭はよい状態に保っておきたいと思っています。今はフルタイムで仕事をするようになり、庭にことを考える時間も手入れをする時間もなくなりました。ほんの少しの季節の花のコンテナと、かつて植えた宿根草が顔を出している程度の庭になってしまいましたが、荒れた庭にはしたくありません。草木が枯れて雑草が少ないこの時、徹底的に草取りをしてダメ出しをしておくと来季が楽です。寒いですが夏の直射日光のもとよりはマシですし、蚊に悩まされることもありません。1月になると、我が家では毎年植木屋さんに来てもらい、庭木はもちろん、庭全体を見てもらっています。その前にいったんきれいにしておきたい。12月は、庭仕事のチャンスなのです。

 だから、私が今年中にやっておきたいことは庭仕事です。

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