てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

第7回 藤沢→茅ケ崎②

  藤沢→茅ケ崎のウォーク後半です。

 義経ゆかりの大きな神社、白幡神社を後にして、再び街道を歩くと、いくらもしないうちに伊勢山橋に。橋の下は線路で、橋の袂が小田急線・藤沢本町の駅です。

 お昼近いというのに、まだ藤沢本町。少しペースを上げないと。

 

 真源寺

 

 橋を渡ってすぐのところに真源寺が見えます。
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 本堂です。

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上方見付跡


 真源寺の向かいが上方見付跡です。こんなところです。f:id:kaz-mt-wisteria:20171212232240j:plain

 


光妙寺
 

 「さあ、ペースを上げていこう!」と張り切っていたものの、ここで挫折。光妙寺が見つからなくて。街道脇の丘の上らしいのですが、まっすぐ行く道がありません。ぐるぐる探し回ること、おそらく30分。やっと見つけたお寺の入り口はこんな感じ。

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 本堂はスロープを上って、さらに階段も登って、奥まったところにありました。

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 本殿の手前横に神社がありました。本殿正面に直角に鳥居があるのが珍しくてパチリしました。お寺と神社が同じ敷地にあるケース、ちょくちょくありますが、ここまで近いのは珍しい気がします。

 

 

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  光妙寺に行くための道は、かなり探しにくいです。道路の向かい側にこのお店が見えたら、細道に入ってください。

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 ここです。この先もくねくねと坂道が続きますが、一言では説明できません。

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  ガイドブック『ちゃんと歩ける東海道五十三次』に載っていたのでチェックポイントにしたのですが、街道ウォッチャーとしての見どころは特になかったように思います。街道から外れてわかりにくそうなときは、パスするのもひとつの選択かも。でも、迷った挙句見つかって、よかったなあと思う場所も多いし・・・悩ましいです。


 
旧道痕跡

 旧道痕跡ってこれかなあ? これはただの道筋であって、道痕っていうと、石垣とか、土手とか、削った跡とか? でも、そんなの、なかったなぁ・・・

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 この曲がり方が、旧道っぽいけどね・・・

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養命寺

 

 迷いに迷った光妙寺。またこんな調子だったらどうしようと不安が頭をかすめたけれど、ここは街道沿いですんなり見つかりました。よかった。

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 本堂です。本尊の木造薬師如来坐像は、関東最古の玉眼入り仏像といわれていて、寅年に公開されるそうです。

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 境内に庚申塔。ウォークを重ねているうちに、庚申塔に気が付くようになりました。

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 なぜ、横たわっているんでしょうね? 不思議。

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おしゃれ地蔵
 

 女性の願いを叶えるお地蔵様です。養命寺向かいの街道沿いにあります。昔から、通りかかるたくさんの女の人たちが、たくさんお願いしたのでしょうね。女性限定のお願いっていろいろありますものね! 私ももちろんお願いしました。

 お地蔵様、口紅してる? おしゃれ。

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柏山稲荷神社
 

 街道から離れていたため、くろやぎ(夫・街道ウォークの同行者です)の提案で、泣く泣くパス。光妙寺のダメージは大きいですね(泣)

 

 この先、八坂神社、小さな神社、八坂神社と、チェックポイントが続きます。ロードマップに記載されているのは、最後の八坂神社のみ。しかも、最初の八坂神社は街道沿いではないし。大丈夫かなあ?

 

後日、くろやぎ(夫・同行者)が、ピンで行ってきました。くろやぎのブログにアップしているので、ご覧ください。

rkuroyagichan.hatenablog.com

 

八坂神社

 

 最初の神社がさっぱり見つからない。位置的にはこれかな? 神社には見えないけれど。くろやぎが、桜の樹もあるから神社だよと。ちょっとした空き地だし、神社があった跡なのかもね。

 

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小さな神社

 

 街道沿いに、小さな鳥居。小さな神社は、すぐに見つかりました。

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 小さな石段をトントン上ります

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 小さな社殿がありました。いいな、こういうの。

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八坂神社
 

 八坂神社は、マップに記載されているので見つけやすいかと思っていたけど、それなりに探しました。大きなバイパスをぐるりとまわりこんだ街道の裏に、このような祠がありました。さっきの八坂神社みたいに、神社の跡かな?と思いながら入っていきますと・・・

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 社務所のような平屋の建物の裏に、いきなり現れた鳥居と本殿。

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 よかった、跡じゃなくて。

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 本殿のすぐ横は、断崖絶壁。下を車がビュンビュン走っています。

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 改めて入口から振り返るとこんな景色。本当はこれ、まっすぐ本殿に続く参道だったのですね。きっと、バイパスを作るときに、鳥居の位置を変えたのでしょう。坂の上、左にある小さな祠が先ほどの写真です。あれがないと、神社だとはわかりませんでした。

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大山道道


 大山道道標は、立派な祠で、遠くからでもよくわかります。道標には「是より右大山道」と刻まれている・・・らしいです。

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 祠に向かって左にも道標があります。 

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 鳥居です。この先が大山道になります。大山詣での道しるべだけあって、さすがわかりやすいですね。

 

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一里塚跡

 

  四ツ谷の一里塚。日本橋より13里目。ただの棒杭でした。特に説明もありません。

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二ツ家稲荷

 

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 境内の寛文10年(1670)建立の庚申供養塔です。古いものが、よく残っていますね。

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西國巡礼供養塔
 

 うっかりすると見落としそうなところにありました。特に案内表示もなく・・・ すぐ先が、茅ケ崎市との境です。

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 南国風植物の中に傾きながら埋もれていました。

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 側面に「あふり山  わけいる道にしをり置 つゆのことのは しるしとぞなぞれ」と刻まれているそうですが。

 

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松並木
 

 この辺りから、松並木が続きます。往時がしのばれますね。

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明治天皇御小休止跡碑
 

 日暮れが近いので早歩きに(汗)。はい、ここですね。一般のお宅の前なので、遠慮しながらパチリ。

 

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上正寺 

 渋いけれど、なかなか風格のある山門です。

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 四代将軍家綱に献上された上野寛永寺の石灯籠だそうです。これまた、古いですね。

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 本堂です。このお寺は、聖徳太子が自ら彫ったという太子像があることで知られていますが、像はこの中でしょうか。

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地蔵堂

 地蔵堂は、街道から少し入った所にありましたので、探すのに少し時間がかかりました。路地をちょっと入っては「ない・・」、その先の路地を入っても「違う・・・」をくりかえしていると、なんとなくピンときました。入って見ましょう。

 ピンときた理由は、この写真向かって右端の煉瓦の囲みの中の石です。「石碑か何か?」と思ったのですが、何も刻まれていませんでした。街道ウォークの回数を重ねてきて、いろんな石が何かに見えてしまう・・・(笑)

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 道の先に、ありましたよ。小さな祠。お地蔵様というよりは、観音様かな?

 

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 すぐ隣に、これ。お、これはお地蔵様ですネ。

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 向かい側にこれ。ミニミニ観音。

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 一カ所にいろいろありました。夕方で、裏道で、墓地もあって、正直ちょっと怖かった。すみません。


 
千手院
 


 街道をはさんで、熊野神社と向い合せにあります。神社の御神輿が境内を通ることもあるとか。面白いですね。

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 この庚申塚は怖くないな。さっきの地蔵堂は怖かったけれど。ちゃんとお寺の境内にあるからかなぁ・・・

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 広く信仰を集めていたという閻魔堂はこれかな。隣に稲荷神社もあります。お寺と神社の距離、またまた近いですね~

 

 

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廣徳寺
  

 こういう、長い真っ直ぐの参道、好きです。暗いけどパチリ。あ、フラッシュ、光った。

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 遅くに、お邪魔します・・・

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 割と庶民的なお寺ですね。好感度100%。

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熊野神社

 

 神社の鳥居の手前に鐘楼! えー? お寺みたい。でも、赤いから、神社っぽい。面白いからパチリ。神社って、鐘をつくのですか。一般的にあることなのか、それともここだけの事例なのか。

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 広い境内ですね。

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 庚申塚もありました。

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 こちらが本殿です。このほかにも両脇に小さなお社がありました。鳥居をくぐってすぐのところには、小さな弁天池と弁天社もありました。一つの境内に、いろいろなお社があります。

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旧道痕跡

 このチェックポイントは、さっぱり見つからなかったです。この辺りのどこか、らしいけれど。ガイドブックによれば、歩道脇に昔の道の跡がわずかに残っているという説明でしたが、整備されてしまったかなと。

 

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 この駐車場にあったとか? うーん、よくわからない、お手上げです。

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牡丹餅立場跡
  

 牡丹餅が名物だったという立場があった場所です。ちゃんと説明板があって助かりました。昔は、一休みする旅人で賑わっていたのですね。一瞬、ロマンに浸って見ました。

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東海道の松並木碑
  

 

 茅ケ崎高校の前に、説明板がありました写真を撮ったら思いっきり、フラッシュが光りました。これにて、今日のウォークは終了です。茅ケ崎駅まであと少し。惜しかったなぁ。

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  茅ケ崎駅までバスで帰りました。すっかり日が暮れてしまいました。

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 茅ケ崎駅着、16時56分。7時間55分、33698歩の藤沢→茅ケ崎ウォークでした。

 

 長々お付き合いくださりありがとうございました。次回は、説明板をアップします。また、訪ねて来てくださると嬉しいです。



 


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第7回 藤沢→茅ケ崎①

 第7回街道ウォーク 藤沢→茅ケ崎を2回に分けてレポートします。

 12月10日(日)、空気は冷たいながら天気はまずまず。9時4分に藤沢駅を出発しました。

 

 

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  江の島道の道標です。前回も写真に撮りましたが、朝の光の中の方がいいですね。さあ、今日もがんばるぞ!

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 遊行寺橋へ向かう途中にある庚申堂。ラフカディオ・ハーンが立ち寄ったことでも知られています。当時から堂内はかなり傷んでいたようです。

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 このように厳重にフェンスが立ちはだかり、入ることはできません。残念ですが、仕方がありませんね。ラフカディオ・ハーンさんが初めて踏んだ日本の地は、ここ湘南エリアでした。残された文章を見ても、文明開化の波に乗って古いものに目がいかなくなってる日本の様子を憂えているのがわかります。この後、ハーンさんは松江に行って、古くからの日本がまだそっくり残っていることに驚き、絶賛してくれるわけですが、こういう様子を目にしていたから、余計だったのかもしれませんね。

 

 さて、遊行寺橋まで来たところから、東海道に入ります。街道ウォーク=東海道ウォークということにするならば、正確にはここからになりますね。

 

紙問屋(桔梗屋

 

 遊行寺橋から歩き出してまもなく、いかにも宿場町らしい造りの建物に目が引き寄せられます。

 桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家です。本社は横浜に移転しましたが、現在も藤沢の店蔵は支店として営業を続けています。右手にある「紙」の看板が、営業中であることを伝えているようで、いいですね。

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松屋
 

 旅籠小松屋源蔵跡があるということで探したのですが、それらしい案内板はありませんでした。その代わりと言ってはなんですが、その辺りに、「小松屋」という名前のラーメン屋さんがありました・・・

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 近づいて、見てみますと、 脂、にんにくを控えたラーメンだそうです、はい。

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 この感じ、何かを思い出すぞ・・・ あ、そうそう、鶴見の信楽茶屋跡、信楽ラーメンになってた。デジャブ。参考までに、こちら。この場合は、歩道に説明板がありましたけどね。小松屋の近くにも説明板があればいいのになあ。

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藤沢御殿跡

 

 江戸時代の初め頃、藤沢にはまだ本陣がなかったので、将軍は自らの宿泊のために、ここ、現在の公民館の辺りに藤沢御殿をつくりました。

 手前に大きな材木屋を営む立派な旧家(?)がありました。

 足をのばして川沿いに登ると陣屋小路の石仏郡があったらしいです。しまった、見逃した・・・

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本陣跡(蒔田源右衛門本陣跡)

 

 このあたり一帯が藤沢宿のあったところで、歩道には本陣跡を記す案内板がたっています。江戸時代初期は大久保町の堀内家が藤沢宿の本陣でしたが、類焼のため坂戸町の蒔田家が明治三年まで、その要職にありました。

 藤沢宿には、享和三年(1703)当時で、本陣1軒、脇本陣2軒、旅篭46軒があり、問屋場が旧大久保町(近藤眼科医院付近)と旧坂戸町(消防署本町出張所付近)に設けられていたそうです。近藤眼科医院と消防署本町出張所、チェックすればよかったなあ。またまた見逃してしまった・・・ なんか、いろいろ事前チェックした割に、見逃しも多い藤沢宿です。

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妙善寺

 細い道の奥に見えるのが山門のようです。進んでみましょう。

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 甍屋根の山門です。

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 こちらが本堂。蒔田家の墓所があったらしいですが、よくわからなかったです。

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 境内に稲荷神社があって、墓所よりこちらに気を取られてしまいました。本堂のすぐ左手がお稲荷さんの鳥居だったもので。ずいぶん近いですね。

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常光寺

 

 常光寺は、明治五年に警察署の前身である「邏卒屯所(らそつとんじょ)」が置かれました。墓所を包むように、約7900㎡の静かな寺林が広がっています。

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 六地蔵さまが、お迎えしてくださいます。

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 ポップなオブジェが、ありますね。

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 ここにも。

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 本堂左脇に市指定文化財の「庚申供養塔」が2基あります。向かって右が万治2年(1659)、左が寛文9年(1699)のもの。

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 本堂です。

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  本堂に向かって左手前にある、推定樹齢300~400年にもなるカヤの巨木です。大きくて、写真におさまりきりません。紅葉してきれいです。

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 こちらは山門近くのクスノキです。これも大きいですね。

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 木の下に置かれている木製のベンチも、いいですね。お墓参りに来た人とか、ちょっと座るのにもいいし。

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 境内には、英文学者で詩人の「野口米次郎(1875-1947)」の碑があったそうです。見落としてしまったけど、まあ満足です。素敵な雰囲気のお寺でした。

 

永勝寺

 

 藤沢宿で働いていた飯盛り女(遊女)のお墓があることで知られるお寺です。

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 小松屋が建てた飯盛り女のお墓です。こうして供養したこと自体、大変珍しいことだったそうです。(確か、川崎宿の宗三寺にも、供養塔がありましたね。あの時は駆け足でちゃんと見ていないのですが。)

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義経首塚

 

 旧東海道(国道467号線)沿いの小道を入っていったところにあります。

 平泉で討ち取られ鎌倉に送られてきた義経の首は、首実検の後に片瀬の浜に捨てられたといわれています。

 

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 潮にのって境川をさかのぼり白旗神社付近に漂着した首を里人がすくいあげ、洗い清めたと言われているのがこの井戸です。 

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 夜間に鎌倉方面から、首が目を見開いて亀の背に乗り飛んできたとも伝えられます。

ちょっと怖いな・・・ この首塚は、小さな児童公園の一角にあって、若いお母さんたちが子どもを遊ばせながら、おしゃべりに花を咲かせていました。怖い怖い首塚の存在は、あんまり気にしていないみたい・・・

 

白旗神 

 大きな鳥居にびっくり。これほどまでに大きな神社とはイメージしていなかったので。

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 白旗神社は、古くは寒川比古命を祀っていましたが、後に義経も合祀するようになったそうです。義経公の碑を発見。

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 「義経松」という碑もありました。近くに松はなかったみたいだけど。

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 本殿に向かう石段の下の庚申塔の一群の中に、右側面に「此よりはちおうしかいとう」、左側面に「これよりほしのやかいとう」と刻まれたものがあったらしいですが、見落としました。かつて二つの道の岐路にたてられていたもののようです。また、江の島弁財天道標も1基あったようです。街道ウォーカーとしては要チェックでしたね。失敗。

 

 本殿です。質素ながら重厚です。

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 本殿脇に力石がありました。品川の芝大神宮で見て以来、力石って何?と疑問に思っていたのですが、やっと納得のいく説明に出会えて、嬉しくなりました。

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 これがその説明です。

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 石に触れると健康になるということですので、たくさん触らせてただ来ました。五円玉も置かせていただきました! 健康維持できるかな?

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 芭蕉の句碑です。

 

草臥亭(くたびれて)宿かる此や藤の花 松尾芭蕉 (『吉野行脚』)

 背後は藤棚です。大きな棚ですね。花の季節は見事でしょうね。

 

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 大きな絵馬が青空に映えています。一足早くお正月気分。

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  絵馬に向かって右側のスペースは、「湯立神楽」が行われる場所でsじょうか? 「湯立神楽」は秋祭りに行われる神事です。お面をうけた山ノ神が道化を演じながら参拝者にお餅をまくなど、独特な神事として知られています。

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  やっと白旗神社の参拝を終えて、やれやれ。まだ藤沢宿から出ていないと、これより少しペースを上げたウォークでしたが、実はこの後、焦る気持ちとは裏腹に、うまくいかないことも多々あって。

 とりあえず、いったんブログを閉めます。また引き続き訪ねて来てくださると嬉しいです。ここまで読んでくださり、』ありがとうございました。

 

 

 


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藤沢→茅ケ崎 「はとり亭」のラーメン

 12月10日(日)、第7回街道ウォーク 藤沢→茅ケ崎を実行しました!

 ですが、今回はいろいろ反省が・・・。本来は次の宿場の平塚まで行きたいところを、チェックポイントをじっくり見たいからという理由で茅ケ崎までにしたのですが、最初のうち油断していて藤沢宿でのんびりしてしまい、結果茅ケ崎まで完歩できませんでした。

 前回、ふじさわ宿交流館で、よさげなパンフレットをたくさんGETできたことをいいことに欲が出て、東海道ではない遊行寺通りもチェックしたこと、宿場に残る蔵をチェックポイントに加えたこと、蔵のひとつが、奥まったところにあってなかなか見つからなかったことにより、藤沢宿にかける時間が当初のつもりよりはるかにオーバー。藤沢本町の近くの白旗神社に着くまでに、すごく時間がかかってしまいました。この時点で、まだ白旗神社だと、焦り始めたのですが、その直後のチェックポイントの、とあるお寺がなかなか見つからず、膨大なロスタイム。しかも、もしかしてそこまで頑張らなくてもよかったかもという感想のお寺でした。(すみません。街道ウォーク的に、という意味で、です。見どころとか、よくわからず) ロスタイムが予想される場合は、見つからないときは引き返す判断も必要かなと反省しました。その次のチェックポイントの某神社は、街道から結構外れていたので、断念。

 お寺が見つからないときは、風がピューピュー吹いてきて、割とみじめでした。冬だなぁと思いました・・・ 気分を変えるために、遅いお昼にしました。なんと14時近く。

 終着点を辻堂の駅に変えることも考えたのですが、日没まで(写真撮影可能時刻まで)行けるところまで行こうということにして、お昼の後は、ロスタイムを取り返すべく、ガンガン歩きに歩いて・・・茅ケ崎高校前で、タイムアウトとなりました。

 日没後もてくてく街道を歩きました。茅ケ崎駅までたどり着かなければなりませんから。本村というバス停まで来たところで、ちょうど茅ケ崎駅行のバスに乗れたのは、本当にラッキーでした。ちなみに、この本村という交差点の近くにチェックポイントの海前寺がありました。もちろん、時間が遅いので見学は無理でしたが。次回は、茅ケ崎駅からここまでバスで来て、海前寺から街道ウォークをスタートさせることになりますね。ちょっとロスですけれど、この程度のロスで済んでよかったです。

 いろいろ消化不良みたいなことを書いてしまいましたが、藤沢宿をじっくり見ることができたのは、よかったと思います。古い町並みとか土蔵とか、街道ウォッチャーとしてとても興味があったので、こうなったのはむしろ必然だったのかも、とも思います。

 それと、今日のお昼ご飯は当たりでした。先ほども書いたように、疲れていて気分転換に、本当にすぐそこにあったラーメン屋さんに入ってしまったのですが、とても美味しかったのです。羽鳥という交差点の近くにある「はとり亭」というお店です。イチオシメニューの「鶏そば」を頼んでみました。実をいうと、ラーメンならやっぱりチャーシューでしょ!と内心思っていたのですが、やわらかくておいしい鶏肉で、スープも優しい味でした。化学調味料を使わずに、素材を大事に、丁寧に作っている、みたいなことがお店の中の貼り紙に書いてありました。納得。若い男性と、やはり若い女性の二人でお店を回していて、お客さんが割とたくさんで忙しいはずなのに、感じよい対応でした。もう行くこともないと思うけど、とてもいいお店だったなあとしみじみ思い出しています。

 明日から、順次、ウォークの様子をレポートします。また訪ねて来てくださると嬉しいです。

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藤沢宿を歩く前に・・・ ちょっとつっこんだ事前チェック!

 次回ウォーク藤沢→茅ケ崎を前に、事前チェックは一応済んでいるのですが、先日、ふじさわ宿交流館でもらってきた数々のパンフレットを眺めているうちに、もう少しまとめておきたくなりました。藤沢宿の街道沿いには、昔の名残を感じる建物や風景が結構あるようで、見逃したくないなと思ったからです。

 JR藤沢駅遊行寺橋(江の島道)

東海道ではないのですが、せっかくあるくので、JR藤沢駅で降りて遊行寺橋へ向かうルートにも注目してみました。

庚申塔

藤沢駅北口から遊行通りを5分ほど歩くと、朱塗りの柵に囲まれた庚申堂があります。江戸時代、道教の影響を受けて人間の肉体には「三尸蟲」(さんしのむし)というものが巣くっていて、寝ている間に天に昇り、その人の罪を天帝に密告し、それによって人の寿命が決められるとされていました。その為、六十日に一度めぐってくる庚申の夜には、誰もが眠らず徹夜して、「三尸蟲」が抜け出さないように見張る庚申待の信仰が生まれました。この庚申堂は明治時代に小説家のラフカディオ・ハーンが江の島を訪れた際に立ち寄ったことでも知られています。このお堂は庚申待の宿や寄り合いの場所として使われていたようです。境内には、様々な「庚申供養塔」が連なる先に、市指定文化財の「青面金剛の像」(漢文十三年銘・1673)があります。髪は炎のように逆立ち、頂にはドクロがくっきりと見え、衣の裾には雌雄の鶏。「見ざる、聞かざる、言わざる」のシンボル三猿。中央の猿だけは「邪気面」の下で首をかがめてうずくまるポーズで、鮮やかに彫りだされた「青面金剛像」の威圧感を強調しています。
堂内には、江戸時代の作とされる木造の「青面金剛像」が両脇侍をともなって祀られています。この「青面金剛像」と両脇侍も市指定文化財ですが、開帳は六十年に一度、庚申の年と決められていますので、次にその姿を拝むことができるのは西暦2040年になります。なお、現在のお堂は「大正」時代に建て直されたものです。それ以前の庚申堂のようすについては「小泉八雲ことラフカディオ・ハーン(1850-1904)が『知られざる日本の面影』のなかで明治二十三年にここに立ち寄ったときの印象について述べていますが、その一文から察すると堂内はかなりひどくいたんでいたようです。

江の島弁財天道標

遊行通り先のロータリーの中には市指定文化財の江の島弁財天道標がたっています。この道標は、管を用いて鍼をさす管鍼術の考案者で、江の島弁財天を厚く信仰していたといわれる杉山検校が、江島神社に参詣する人々が道に迷うことのないようにと寄進したものと伝えられ、この他に市内にほぼ同形の道標が12基指定されています。

蔵まえギャラリー(旧榎本米穀店)

遊行通り先のロータリーの左手斜めにある少し細い道を進みます。この道は、藤沢宿から石上、片瀬を通って江島神社に至る江の島道と呼ばれた道筋で、江島神社に参詣する人々が歩いた旧道です。ほどなく行くと左手に元米穀商の土蔵造りの家が、わずかに往事を偲ばせています。このあたりを「蔵前」といい、江戸時代に年貢米を納入する蔵があったところです。

明治初期の境川の流れ

 

 以上をチェックポイントにします。白山神社、金砂山観音などもあるのですが、先を急ぎます。茅ケ崎まで行かなければんありませんから。

 

遊行寺橋~二ツ家稲荷神社(東海道

既に記事にしている「先取りふむふむ」ではチェックしていない場所を挙げます!

 

白幡交差点際看板「かながわ信金本町支店」横看板

東海道分間延絵図」に描かれた江戸時代の藤沢宿を現在のまちの姿に重ね合わせて作成した絵図が案内板になっています。街道ウォークのお宝パチリポイントとして要チェック!

 

旧家を見ておきたい!

 
石曽根商店


大正14年建築。明治34年創業の履物店。天井高く、商品や材料を納める棚を設けています。

桔梗屋店舗蔵

 明治44年築、母屋明治末年頃築。江戸時代からの茶・紙問屋を営んだ旧家。江戸型の店蔵の典型である藤沢で「蔵のまち」を伝える唯一現存する店蔵です。国登録有形文化財

稲元屋の南蔵・北蔵

稲元屋は弘化2年創業の雑貨薪炭商・呉服商。店舗は藤沢大火で焼失し、2棟の土蔵蔵だけ残っています。

みつはし園茶舗

大正14年建築。明治43年創業、木材は羽鳥の引地山で調達、大工も羽鳥村から呼んで建築したとのことです。藤沢の町屋の形式の建物です。

内田商店

昭和4年築。屋号は箱専」と言い江戸時代は指物師を営み明治に銅鉄問屋に転じました。藤沢の町屋の代表的な建物です。

内田商店の蔵

大正6年建築、壁を石組とする蔵。石材は房州石の最高級の桜目で、横須賀から牛車で運んだとの事です。

関次商店の蔵・関野家

明治6年創業の米穀肥料商。明治19年築の穀物蔵、明治40年築の肥料蔵があります。米穀肥料商として広範囲に商圏を拡大しました。

旧鎌田商店の蔵

明治30年築。明治10年代の紙商で石蔵のみ存在。石蔵は米穀肥料の保管庫。藤沢は明治から昭和にかけて肥料商や米穀の集荷商が集中しその姿を伝える貴重な存在です。

 

 見たいものが増えました。楽しみです!

 ここまで読んでくださりありがとうございました。また、訪ねてくださると幸いです。

 【参考】

ふじさわ宿交流館ホームページ

www.fujisawa-kanko.jp

 

パンフレット「歩いて見よう藤沢宿」藤沢地区郷土づくり推進会議発行

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今年買ってよかったもの

今週のお題今年買ってよかったもの

 

 今年買ってよかったものは、自分へのプレゼントの腕時計。お正月に実家を訪ねた時、母が「もうすぐお誕生日なんだから、何か買いなさい。」とそっと渡してくれたお小遣い。この歳になって親からお小遣いなんて、本当に胸が詰まるような思いなのですが、だからこそというか、母の気持ちと一緒にありがたく受け取りました。さて、どうしよう? 生活費に入れてしまって、日々のおかずになるのは忍びない。なにか、形に残る素敵なもの・・・。「そうだ、時計だ、時計を買おう。」

 初めて腕時計を買ってもらったのは、中学入学を控えた春休みでした。母と叔母に連れられて、池袋のデパートで、同じく中学生になる従妹とおそろいで買ってもらった入学祝の腕時計。銀色の小さなトレーに載せられて差し出された時計の値段にびっくりしたことを、昨日のように思い出します。はっきりした値段は覚えていないのですが、「これは、なくしちゃいけないな」と。やがて中学生になると、毎朝、腕時計のぜんまいを巻くことが日課になりました。巻きすぎてもいけないと、デパートの売り場の店員さんから説明を受けていたので、毎朝きっかり50回。1週間に1回は、ニュースの時報で、時刻合わせもしました。片道1時間の電車通学をしていたので、時計はいつも、私の腕にありました。

 いつのころからでしょう? 腕時計をしなくなったのは。初代の腕時計は、ブレスレットタイプの時計に代わり、やがて子どもが生まれると、腕から消えました。赤ちゃんを抱く時に、堅い時計は危険ですからね。普段使いの電池時計を持っていた時期もありましたが、いつの間にか動かなくなってしまい、10年以上、腕時計を持たない暮らしが続きました。時刻を知るだけなら、携帯電話の画面で事足ります。

 ちょっとしたきっかけは、施設に入所している義母が、タンスにしまっていた自分の大切な腕時計が動かなくなってしまったと、言い出したことでした。壊れてしまったに違いないと嘆く義母を「大丈夫、修理に出せば必ず直るから」となだめて、時計を店に持って行ったところ、太陽光で動く電波時計であることが判明。日の当たる場所に出して待つことしばし、ちゃんと正確な時を刻み始めたではありませんか。「お母さん、壊れていなかったですよ。ほら、お日様に当てれば動くんです。」と言うと、「そうなのよ。あたし、知ってたわよ。かわいいでしょう? いい子なのよ、この時計。」と珍回答。認知症ゆえの珍回答でもありますが、時計がかわいいという言葉に、妙に共感してしまった私です。いいなあ、時計買おうかなあ。ソーラー電波時計

 そんなときに実母からのお小遣いでした。近所のスーパーの時計売り場をそうっとのぞいてみますと、思っていたより高価でがっくり。そういえば、義母は、銀座の時計店で買ったのよと言っていたっけ。他の記憶はあいまいなのに、なぜか銀座の時計店を強調していたっけ。ご自慢の時計だったのですね。私が、よほどがっかりした顔をしていたのでしょうか。娘と歳が変わらないくらい若い男性の店員さんに、声をかけられました。おずおずと予算を言うと、ケースの奥から、予算よりやや高めながらまあまあな値段のを出してきてくれました。わぁ、どれにしよう・・・と決めらないでいると、「これなんか、いかがでしょう?」と、シンプルなチェーンの時計を選んでくれたのでした。

 こうしてまた、腕時計のある暮らしが始まりました。ぜんまいを巻くことも時刻合わせもありませんが、朝、時計をすると「さあ、今日も頑張って仕事に行こう。」と思えます。そうそう、「お母さんの時計を見て、私もソーラー電波時計が欲しくなって、買っちゃいました。」と義母に見せたら、「ね、かわいいでしょう? よかったわね。」と喜んでくれましたっけ。またまた珍回答ながら、心がぽっと暖かくなったのでした。

 実母と義母の後押しで買った腕時計、つけているとあったかい。だから、今年で一番、買ってよかったものです。

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街道ウォークの強い味方 ふじさわ宿交流館

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 前回のウォークで見学した「ふじさわ宿」交流館。期待通り(それ以上)の収穫があったので、報告します。

 そもそも、この交流館については、以前からとても楽しみにしていました。というのも、ふらりと立ち寄った「かわさき宿交流館」で、盛りだくさんの内容にびっくりして、この先どこにこういう交流館があるのか調べて、スタンバイしていたのです。

 

kaz-mt-wisteria.hatenablog.com

 

 

kaz-mt-wisteria.hatenablog.com

 

 そして、今回、立ち寄ったふじさわ宿交流館の感想です。

 ふじさわ宿交流館とは

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 遊行寺参道(いろは坂)手前、遊行寺橋の近くにある「ふじさわ宿交流館」は、江戸時代の宿場の建物を模したナイスな外観です!

 藤沢宿は、江戸時代には旧東海道の宿場町として、大山詣や江の島詣をする人々の交通の要衛としてにぎわいました。ふじさわ宿交流館は、藤沢の歴史や文化に触れ、人々が交流できる場として平成28年(2016)に開館しました。ごく新しい施設です。道理で、とてもきれいだと感じたわけです。管理・運営は、指定管理者である公益社団法人藤沢市観光協会により行われています。

 1階が展示室、2階が会議室(利用については要予約・有料)という作りになっていて、1階はあまり広くはありませんが休憩もできる多目的室もあり、藤沢宿紹介の映像が流れていました。

 充実した展示が特徴のかわさき宿交流館(あの日は時間切れで展示室まで見ることができなかったのですが)に比べると、展示室の規模も展示の数もやや物足りないのですが、それを補うくらい素晴らしいのは、無料で配布しているさまざまなパンフレットです。数も多ければ内容もとてもよいです。ここに立ち寄れば、藤沢宿のあらゆる情報が得られるという、街道ウォーカーにとっても本当にありがたい拠点となっています!

 

配布資料紹介

 というわけで、交流館に置いてあったパンフレット類を紹介します。

神奈川県観光地図(藤沢版)

 サブタイトルが「東海道神奈川九宿 宿場探訪」。川崎宿神奈川宿保土ヶ谷宿、戸塚宿、藤沢宿、平塚宿、大磯宿、小田原宿、箱根宿の名所案内です。12折りの縦長ハンディサイズ。「藤沢版」と言っているだけあって、藤沢宿の説明だけやや多め。広げると1枚の大きな紙になり、裏面は神奈川全体の地図になっていて圧巻。

 平成29年3月発

藤沢市藤沢宿交流館

ふじさわ宿交流館の利用案内です。

旧東海道・藤沢

 B4(?)判縦長の二つ折り仕様。表面はごくシンプルな観光マップと名所についての簡単な説明。この説明には英語も併記されているのが特徴。裏面は藤沢宿の紹介です。かなり詳しい内容になっています。

発行:藤沢市藤沢宿交流館(公益社団法人藤沢市観光協会

歩いて見よう 藤沢宿

 23ページにも及ぶこの冊子は、とても面白いです。藤沢宿のなりたち説明にはじまり、浮世絵巡り、昭和初期のまちなみや商店街の様子、見どころポイント、飲食店や和菓子屋さんのまで、実に盛りだくさんです。なかでも興味深いのは、昔懐かしい写真のコーナー。よくこれだけたくさんの写真が残っているものだと感心してしまいます。

 この冊子の副題は「トランスボックス・ラッピング巡り」。トランスボックスとは電柱の地中化に伴い歩道に設置されたボックスで、「藤沢地区郷土づくり推進会議」ではこの箱に昔の写真や浮世絵をラッピングしていて、歩きながら藤沢宿について学べるようになっています。

発行:藤沢地区郷土づくり推進会議 第2版:2017年(平成29年)1月13日

 ちなみにトランスボックスはこちら。前回パチリしました。

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東海道・江の島道・大山道

 A2版(?)の4つ折り。

 副題が「藤沢宿から各地へ延びる街道」で、表面は、藤沢宿を中心に、東海道、江の島道、大山道、鎌倉道、八王子道、厚木道について、観光マップが掲載されています。裏面は、広げて1枚の大きなマップになります。文久2年(1862)の藤沢宿の復元図です。これはとても貴重だと思います! このマップを見ながら、実際に歩いて見ると、一気に江戸時代にタイムスリップできそうです。こういう資料、無料で配布してくれるなんて、本当にありがたいです。

 

 というわけで、配布されている資料、どれもそれぞれに、貴重です。トランスボックスといい、宿場町藤沢への思いがつまったまちづくりがなされていると感じました。そうした活動を行う地域の拠点であるふじさわ宿交流館は、街道ウォーカーにも大変心強い存在です。感謝。

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www.fujisawa-kanko.jp

 ここまでお読みくださり、ありがとうございました。また訪ねてくださると幸いです。

 

 

 


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クローズアップ!茅ヶ崎

 次回ウォークの終着点は、茅ケ崎駅です。なぜ、宿場町平塚まで行かずに茅ヶ崎なのかは、単純に距離のわりに見どころチェックに使うの多さを憂慮してのことなのですが、茅ケ崎は江戸時代も先を急がず宿を取った旅人もいて、「間の宿」と呼ばれていました。宿場のようなそうでもないような・・・? 不思議な立ち位置の茅ケ崎に、焦点を当ててみましょう。

 

 まずは、茅ケ崎市について、市のホームページで、あらましを見てみましょう。

茅ヶ崎市プロフィール

 

 茅ヶ崎市は、神奈川県の中南部、東経139度24分、北緯35度20分に位置し、東京から西に50キロメートルあまり、東は藤沢市、西は相模川をはさんで平塚市、南は海岸線約6キロメートルに及ぶ相模湾、そして北は寒川町と接しています。面積は35.76平方キロメートル、東西6.94キロメートル、南北7.60キロメートルで、周囲は30.46キロメートルに及んでいます。

 気候も四季を通じて温暖という環境から、明治から昭和初期にかけては湘南の別荘地、保養地といわれてきました。こうした自然に恵まれた住みよい条件のなかで、昭和22年10月、神奈川県下で8番目の市として市制を施行し、昭和30年4月には旧小出村との分村合併により現在の市域となりました。その後、東京、横浜への交通の利便性や恵まれた自然環境を背景に急激な都市化が進み、平成元年12月に県下で7番目の20万都市に発展しました。 

 

 平成29年12月1日現在、人口は、240790人、世帯数は100435世帯です。

 

 なるほど。茅ケ崎市は温暖な気候を武器に、保養地として発展・都市化してきたのですね。現在でも、「海」「サーフィン」のイメージを売りに、観光客の誘致に力を入れたり、アーチストの方の移住をバックアップする事業を行ったり、湘南の「ゆったりとした時間」が流れる場所として、大いにアピールしているようです。

 圏央道の開通以降一段とアクセスが良くなった茅ヶ崎は、都心に近い観光地として、あるいはベッドタウンとして、これからも発展していくのでしょう。

 

 では、「別荘地・茅ケ崎」以前の茅ケ崎、明治より前の茅ケ崎は、どんなところだったのでしょうか?

 

茅ヶ崎の歴史

古代~中世

 茅ケ崎駅構内、東海道本線と相模線の分岐点近くに、大きな岩が2つ積み上げられています。1926年(昭和元年)に発見された石神古墳の天井石です。古墳自体は破壊され今はなく、天井石も移動されたため、古墳の正確な場所も不明ですが、築造時期は7世紀前半以降と推定されます。 

 また、下寺尾からは平安時代中期の大寺院遺跡が発見され、古瓦などが出土しています。市の西部は大庭氏の開発地として伊勢神宮に寄進され、大庭御厨となりました。大庭御厨のうち懐島郷を拠点としたのが大庭景義。頼朝に協力し、鎌倉造営に中心的働きをしました。

 懐島地域は、相模川が流れるなどしており、頼朝が橋を架橋するなど交通の要衝でありました。十四世紀に町屋が形成されていました。懐島地域はその後たびたび支配者が交代しましたが、室町時代には熊野や伊勢信仰が流入、ちがさき、まちや、やはた等の村名が熊野や伊勢の御師の記録に見えます。

 

近世

 近世の市域には二十三カ村の複数の旗本などが支配する相給村落がありました。海岸地帯は半農半漁の漁村でもあったので漁場の争論が起こりましたが、近世の中期には次第に海岸地先の漁場が確定していきました。相模川河口の中島村は対岸馬入村への東海道の渡船場が置かれ、柳島湊の船や周辺農村から船頭が動員されました。

 東海道の立場であった南湖の茶屋町は、元禄から享保期ころに茶屋が開業し、参勤交代大名などの休憩地となりました。宿と宿の間にある村を「間(あい)の村」といい、間の村の中で、馬を継ぎ立てたり、人足や駕籠かきなどが休息する場所を「立場(たてば)」といいました。大名の休憩場所になるような立場があった茅ケ崎。「間の宿」としての役割を担っていたことがよくわかります。

 このように茅ケ崎は漁場と湊のある町として、参勤交代の間の宿として、いずれにしても交通の要所として栄えていたのです。

 

近代

  明治22年(1889)、町村制により茅ヶ崎、鶴嶺、松林、小出の四カ村が成立。同四十一年(1908)には小出村を除く三カ村が合併、茅ヶ崎町が誕生。昭和二十二年(1947)には茅ヶ崎市となり、同三十年(1955)には小出村の一部を合併し現在の市域となりました。その後の発展については、前述のとおりです。

 

【参考】

『神奈川県の歴史散歩』下  神奈川県高等学校教科研究会社会科部会 山川出版社

茅ヶ崎市ホームページ

www.city.chigasaki.kanagawa.jp

国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所ホームページ

http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/01_aruku/0602.htm

 

  ここまで読んでくださり、ありがとうございました。 また、ご訪問くださるとうれしいです。

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