次回ウォーク、「茅ヶ崎→戸塚」の準備を始めます。例によって街道ウォークのバイブル『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(八木牧夫 山と渓谷社)のチェックポイントを中心に、事前チェックをします。
- 海前寺
- 八王子神社
- 松並木
- 一里塚跡
- 旧寛永寺石燈籠
- 円蔵寺
- 十間坂
- 第六天神社
- 金剛寺
- 南湖の左富士碑
- 鶴嶺神社鳥居
- 弁慶塚
- 神明神社
- 旧相模川橋
- 上国寺
- 信隆寺
- 男女双体道祖神
- 道祖神
- 馬入橋
- 明治天皇馬入御小休所思址碑
- 陸軍架橋記念碑
- 馬入の一里塚
- 丁髷塚
海前寺
天正19年(1591)の創建。領主丸毛権之丞の菩提寺。鐘楼の脇には仁王像が配され、境内には六地蔵が安置されています。
八王子神社
境内には道祖神や庚申塔があります。
松並木
一里塚跡
旧東海道の、江戸日本橋より14里目に当たります。
昔は1里ごとに築かれていましたが、道路の拡張、改修でほとんどが壊されて、ここに残る塚は大変貴重なものです。
旧寛永寺石燈籠
徳川家の菩提寺として栄えた上野の寛永寺には、全国の大名から歴代将軍への供養としてたくさんの石燈籠が献上されていましたが、それが市内に6基移されています。戌辰(ぼしん)の役や関東大震災や戦災などで被害を受けた寛永寺への再建寄付の返礼として贈られたものです。
円蔵寺
真言宗高野山。慶安2年(1649)、徳川家光より朱印を受けました。厄除け茅ヶ崎大師。境内に六地蔵、乃木希典大将像、水師営のなつめの木、203高地血染の岩片があります。
十間坂
十間坂とは「此処右に冨士 大山 箱根、左に江嶋 鎌倉 六浦 金沢など見ゆるゆえ十景坂ともいう」を由来としています
第六天神社
社宝には山岡鉄舟寄進の掛軸一幅があります。立派な境内と堂々たる構えの社殿の、市内でも屈指の 神社です。
金剛寺
高野山真言宗。境内に大師堂があります。
南湖の左富士碑
鳥井戸橋の渡り詰めに「南湖の左富士碑」があります。東海道を京に向かえば冨士はいつも右に見えますが、この場所は街道が北に向かっているので進行方向の左側に見えて珍しいので、名所になっていて、浮世絵にも描かれています。
歌川広重の「五十三次名所図会 藤沢 南湖の松原左り不二(竪絵東海道)板元:蔦屋吉蔵(つたやきちぞう)」です。広重晩年(59才)の作品です。
この画は表題にもあるように東海道の南湖の松並木の風景に加え、「左富士」が描かれています。現在でも鳥井土橋(とりいどばし)から、きれいな「左富士」を見ることができます。
南湖は立場(宿場と宿場の間の休憩場所)のあったところでした。街道をちょうど右に大きく屈曲するまでの辺りが茶屋町です。かつては小林本陣の松屋、脇本陣の江戸屋・橘屋など、茶屋や民家が軒を並べていました。
鶴嶺神社鳥居
街道沿いの大鳥居から北へは松並木の参道が続きます。
鶴嶺八幡宮は、平安時代の終わり頃ともいわれる起源をもつ古社です。平(大庭)良正が1133年に九州宇佐八幡宮からご神体を勧請したのが始まりとも、1051年に源頼義が奥州に向かう途中、石清水八幡宮を勧請したのが始まりとも言われています。
「八幡大菩薩佐塚大明神両社之記録」という文書によれば、戦乱により荒廃した神社を復興した別当寺常光院の上人朝恵が、江戸時代はじめ(1650年頃)に東海道(現国道1号)までの約420間(約760m)に松を植え、参道を整備したそうです。
参道は史跡に、松並木は天然記念物に指定されています。参道は、発掘調査により現道面以下に数段階の古参道面が確認されています。また現存する松並木には、もとより当時の松はありませんが、時代ごとに補植が繰り返され、往時の面影を偲ぶ松並木の景観を今に伝えています。
境内には、根回り8.5㍍、高さ29㍍の大イチョウもあります。前九年の役(1051~1062)の戦勝祈願に源義家が自ら手植えしたと伝えられています。
弁慶塚
鶴嶺神社の境内に標石があります。弁慶塚は、里人が頼朝の落馬を憂い、義経一族の霊を慰めるために弁慶塚を造りました。
神明神社
往時、境内には清水があり陰陽師・安倍晴明が東下りの折、喉を潤したところから清明井戸とも呼ばれました
旧相模川橋
旧相模川橋脚は、大正12(1923)年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡です。当時の歴史学者沼田頼輔によって、鎌倉時代の建久9(1198)年に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証され、大正15(1926)年に国の史跡に指定されました。
平成13年から実施された保存整備に伴う調査では、橋脚についての詳細が確認された他、新たに橋脚の北側から関連する大きな土留め遺構も発見され、19年2月6日に追加指定を受けています。
また、関東大震災の時、橋の手前の左側の田が隆起、七本の橋脚が出現しました。
旧相模川橋脚は、歴史遺産(史跡)としての重要性に加え、関東大震災の地震状況を示す天然記念物としての面を有しており、重要な地域遺産として高く評価されて、24年度、史跡指定に加え国の天然記念物としての指定を受けました。
なお頼朝はこの橋の落成式の帰途、義経一行の亡霊に驚いた馬が暴れて落馬してしまったこと原因で翌年死亡したといわれています。鎌倉期はここが相模川であったと言われています。
上国寺
日蓮宗妙厳山。本堂に安置されている永正11年(1514)造立の木造日蓮坐像は、全国の日蓮像のうちでも古い方に属し、市内の仏像彫刻のなかでは貴重な像です。
像高32.0センチ。袖張42.5センチ。膝張り26.0センチ。寄木造り。玉眼嵌入。頭部、体部共に前後矧ぎ。肩膝前は別木。像内の胎内頭部後面に、向かって右から「三月日/永正十一年/作之」と墨書銘があります。
信隆寺
寛永元年(1624)の創建。その時の鰐口が残っています。永禄7年(1564)造立の木造日蓮坐像は、全国の日蓮像のうちでも古い方に属し、市内の仏像彫刻のなかでは貴重な像です。
像高42.0センチ。袖張65.6センチ。膝張35.5センチ。寄木造り。玉眼嵌入。彩色(後補)。頭体は1材を頸部で割りはなち、耳後ろで前後に矧ぎます。体部は6材を割り矧ぎ。胎内背面に、向かって右から「八月十三日/法主日□坊/南無妙法蓮華経/願主仏国寺善行坊/日受/敬白/于時永禄七年甲子」と墨書銘があります。
男女双体道祖神
銅葺屋根の祠の中に納まっています。
道祖神
二体の道祖神が祠の中に納まっています。
馬入橋
今宿から中島に至る辺りは、かつて相模川が流れていましたが、川の位置は江戸期になると、ここに変わっています。
頼朝が落馬したとき、馬が川で溺れて死んでしまったので馬入川と呼ばれるようになりました。この一件から架橋は不吉と言われ、江戸時代、相模川(馬入川)の渡河は船渡しでした。 現在の馬入橋の辺りに渡船場があり、付近の村々から船頭が交替で動員されました。「武家の外、舟ちん十文」とあり、川幅常水で40間(約47㍍)出水時80間(約94㍍)といわれていました。
『東海道中膝栗毛』では、喜多さんがここはなんという川かと人に尋ねると、肝心の川の名前を言わずに「渡しだ」としか答えないの見て、面白がった弥次さんが歌を詠んでいます。
川の名を問へばわたしとばかりにて入が馬入の人のあいさつ
「渡し」に「私」(我)をかけ、「入が馬入」を「入我我入」(密教仏教の用語。如来が自己に入り、自己が如来に入り、両者が一体になること)にかけています。「お前が我か、我がお前か」が転じて、要領を得なくて無茶苦茶なこと。
なお、馬入川の水源は甲州猿橋です。
明治天皇馬入御小休所思址碑
陸軍架橋記念碑
大正12年(1923)9月1日、関東大震災によって馬入橋が倒壊。同月17日、陸軍工兵大隊が急遽派遣され復旧されました。
馬入の一里塚
日本橋より15里目。往時、北側の塚前には井戸、向かいには川会所や川高札がありました。
丁髷塚
喧嘩が元で16名の若者が死罪を命じられましたが、代官は若者たちのまげを切り斬首に代えました。打首に代えて切り落としたまげを埋めた場所です。
ここまで読んでくださりありがとうございました。次回は、平塚宿について事前チェックをアップします。また訪ねてくださるとうれしいです。
【参考】
『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(八木牧夫 山と渓谷社)
『神奈川県の歴史散歩 下』(神奈川県高等学校教科研究社会化部会歴史分科会編)
茅ヶ崎市ホームページ
www.city.chigasaki.kanagawa.jp
平塚市ホームページ
藤沢市浮世絵博物館ホームページ
国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所ホームページ