てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

浮世絵ウォーク 戸塚


 今週末も雨予報。亀の歩みが固まって石にならないように、浮世絵ウォークを戸塚まで進めましょう。

 今日の浮世絵はこちら、歌川広重東海道五十三次』の「戸塚 元町別道」です。

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 「元町別道」と題されていますが、描かれているのは現在の大橋とその西側に位置する「こめや」の風景です。橋の下を流れているのは柏尾川で橋の手前は保土ケ谷寄りの吉田町、対岸は矢部町です。

 画面中ほど、橋の手前の青い石柱には「左り かまくら道」という文字が刻まれています。これは柏尾川に沿って鎌倉へと伸びる鎌倉道の分岐点であることを示しています。

 「こめや」という大きな看板が目を引きますが、これは米穀店ではなく、旅人が一休みしたり宿泊したりする旅籠です。軒先には「大山講中」「神田講中」など、様々な講中の名前が書かれた木札が下がっています。「講」とは、共通の信仰を持つ人々のサークルで、たとえば「大山講中」の木札は、この旅籠が大山石尊大権現(現在の阿夫利神社、神奈川県伊勢原市)に詣でる大山講の人々が指定休憩所だったことのしるしです。

 絵の中の人物に注目してみましょう。主役は、着くやいなや、店先の縁台に、ひらりと馬から飛び降りている男です。いったい何をそんなにあせっているのでしょうか? 男の顔は見えません。馬を引いてきた男(馬子)は、何食わぬ様子であらぬ方を眺めています。男の左側には飛び降りる男を「ようこそいらっしゃいました」と腰をかがめて愛想よく迎える店の女。右側で一休みしようと菅笠の紐を解こうとしている旅の女の表情は、「あらやだ」と言っているようにも見えませんか? 男の表情は図りかねますが、両脇の女性のそれぞれの表情が、この場面を見る者の想像を自由に膨らませてくれます。

 エキストラ(通行人)的な役割でありながら、なかなか存在感があるのが、橋の上の老人です。長い道のりを歩いてきて、そろそろ一休みをしようかと橋の向こうの店を探しているのでしょうか。主役の男とその周りの雰囲気が「動」なら、この橋の上は、老人の存在で「静」の空間を作っています。橋の上から店先の4人をクールにを見つめる老人の表情は、店先の人たちの表情より、よほどくっきり描かれています。画を眺めている人も、老人の視線を感じて、ついつい橋の上へ目が吸い寄せられてしまいそう。エキストラというより名脇役ですね。

 老人は、笠は脱いで小脇に抱えています。道中歩いて、暑くなったのでしょうか。では、馬上の男が傘をかぶっているのはなぜ? 自分で動いているわけではないから、汗もかいていないんじゃないかな。ではここまで歩いてきた旅の女は、暑くなかったのかというと、日焼けを気にしていたのかな? 紫外線! ちょっと平成の妄想の域になってきたので、このあたりでやめておきましょう。

 

 ところで、この絵のことを知ろうとすればするほど、謎に包まれていることがわかってきました。実際の風景を丁寧に描き込んでいるかと思いきや、どうしてどうして、意外と創作もあるのかも。

 

橋の方角の謎

 橋の手前は吉田町(保土ケ谷寄り)なのか、矢部町(戸塚寄り)なのか?

 おそらく吉田町(保土ケ谷寄り)なのではないかと思います。手前に「左り かまくら道」の道標がありますが、この道標の通り、橋の手前で左に折れて川沿いを南下していくと鎌倉に出るというのは、ルートとして合点がいきます。正面に見えるのは海でしょうか。だとすれば、海は南方向なので、橋の手前が吉田町(保土ケ谷寄り)、対岸が矢部町(戸塚寄り)ということになり、これも納得です。

 ただ、私がひっかかるのは横浜市文化観光局の発行しているリーフレット「横浜旧東海道みち散歩」に次のような記述があったからです。

この橋は、柏尾川が東海道を渡る地点になりますが、絵の中央にある「左り かまくら道」と記された道標から柏尾川に沿って鎌倉へと伸びる鎌倉道の分岐点(実際にはこの絵にある分岐点ではなく、対岸の江戸側から柏尾川の左岸に沿う形になる)であることが示されています。

 

 この解説によれば、橋向こうが吉田町(保土ケ谷寄り)で、道標の実際の場所は橋向こうだったということでしょうか。解釈の理由を知りたいのですが、これ以上はわからず、謎になりました。

 

「こめや」の謎

 絵の方向を検証する有力な手掛かりは、「こめや」の位置だと思います。「こめや」は実在の店で、1910年頃まで実在していたそうです。店先で米菓子を出していたとか、旅籠をたたんだ後は実際に米穀店を営んでいたこともあったという記述も目にしましたが、典拠としてはいまひとつ確信が持てません。

 1910年頃の古地図が手に入って、「こめや」の位置が記載されていれば、この絵を見る方角も確定されるでしょう。とはいっても、「こめや」がこの時代から後、対岸に移転したのだったら、話はまた変わってきます。なので、「こめや」の歴史・変遷を知ることが重要だと思います。そうは言っても、手元の資料やネット環境だけでは情報が乏しすぎます。てくてく歩きのなかで、何かがわかるといいなあと思います。

 

道標の謎

 この道標は、 近くの妙秀寺の境内に移設されて今でも見ることとができます。ですが、道標の文字が違う! 広重の絵は「左り かまくら道」、現存する道標は「かまくらみち」。広重さん、間違えてスケッチしたとか? でも普通、文字なんて間違えないよね?

 このことは、広重さんの研究家の間では、有名な謎なんだそうです。「広重さん、実際に東海道を歩いてスケッチしたわけではないんじゃないの?」という説も浮上しています。実は広重さんの「東海道五十三次」、司馬江漢の「江漢図」を原画としてるという説が濃厚で、この広重さんの「戸塚宿」も「江漢図」にベースになったという画が見つかっています。

 私は、まったくの推論ですが、広重さんは「江漢図」見ていて、東海道を旅した時に、かねてからチェックしていたこの場所をスケッチしたのではないかなと思います。道標については見たままではなく、あとから描いたものなんじゃないかなと。今みたいに写真に撮るわけのもいかないし、そのとき写し忘れたら、後からなにか資料を見て、あるいは記憶を頼りに仕上げるしかないでじゃないですか。それに広重さん、この絵の世界を描きたかったわけで、正確な記録を残そうとしていたわけではないのだもの。

 この謎については、様々な研究者が言及していて、にわか研究家のような推論は危険だと思うので、このくらいにしておきます。

 

再版の絵の謎

 この絵はあっという間に人気が出て、売れに売れて版木が擦り切れてしまいました。そこで改めて原画を書き直し、再版したというエピソードがあります。

 新しい版では、「馬から飛び降りる男」が「飛び乗る男」になっていたり、「こめや」の店に扉がついていたりと、はっきりわかる変更がたくさんあります。なぜ、ここまで変更を加えたのでしょう? 「まさかニセモノ?」と、いささか乱暴な説もあったようですが、私は広重さんの芸術家としての試行錯誤かな感じます。あ、だから、別に謎じゃないです!

 

 このように謎の多い絵ではありますが、この橋が吉田橋であることは確かです。当時は長さ10間(約18.2㍍)、幅2間半(4.6㍍)の板橋でした。現在の橋は昭和61年(1986)に架け替えられたもので、両側に大名行列が持つ毛槍を模した街灯が建っています。

 

 街道を歩く前に、浮世絵のことを知っていたら同じ場所を通ったときに面白いんじゃないかなと気軽に始めた浮世絵鑑賞ですが、謎がざくざく出てきて、とんでもないことになっています! とても解決する材料が足りません。謎を頭にひっかけながら、てくてく街道を歩いていきます。しかし、ぶらさげてる「謎」、どんどん増えるなあ。ま、それもいいか・・・(笑)

 

【参考】

『広重と歩こう東海道五十三次』(安村敏信 岩崎均史

『謎解き浮世絵叢書 歌川広重保永堂版東海道五十三次』(監修・町田市立国際版画美術館/解説・佐々木守俊)

 


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