街道ウォークを2回やってみて思ったこと。それは、「やっぱり、名所・旧跡について、ある程度の知識を入れておいた方が楽しいなぁ」ということ。
街道ウォークのバイブルでルート重視のガイドブック、『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(八木牧夫 山と渓谷社)のひとことコメントを頼りに、ぶっつけ本番で名所・旧跡を見学していたのですが・・・
例えば、チェックポイントとして挙がっているものの、名前だけでどんなところか(なぜチェックポイントになっているのか)わからないお寺があったりします。訪ねてみて、説明板を読んで初めて「へぇ~ そうなのかぁ!」と納得するのも楽しいです.
けれども、中に入りづらくて説明板も見つからず、もやもやしたまま通り過ぎることも。せっかく訪ねたのに、なんだかちょっと残念ですよね。
また、一日に10キロ近く歩く中で数10カ所をチェックするとなると、どうしても時間が限られてしまいます。一から理解するよりある程度わかっていて眺めた方が、周りの景色とかに目を向ける余裕があって、発見が多いのではないかと思います。
そういうわけで、次回の川崎→神奈川ウォークは、「先取りふむふむ」をしてから出発することにしました。
いつものバイブル『ちゃんと歩ける東海道五十三次』に記載されているチェックポイント&一言説明に、新たに購入した本などの説明を補って、まとめます。
1.教安寺
境内には江戸時代に鋳造された梵鐘で、市内に今でも残っている3つの中の一つがあります。また江戸中期に庶民から生き仏様と敬われた徳本上人の六字名号碑もあります。山門前左側に建っている石灯龍は
京口棒鼻にあったもので、
富士講の信者が建てたものです。
京口棒鼻跡。宿場の京都側の出入口にあたる所が
京口土居で、切石を積んだ土居がありました。幕末には外国人警護のために関門番所がおかれました。
「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」元禄7(1694)年5月、故郷伊賀に向かう
芭蕉が見送りにきた門人とここで別れました。5か月後、大阪で亡くなったため、関東最後の句になりました。
4.人骨慰霊碑
江戸時代、災害や飢餓などで亡くなった身元不明の遺体を埋葬したのではないかといわれています。人骨が多数出土し、投げ込み塚ともいわれています。これら無縁仏の供養のため「供養塔」が建てられました。
6.専念寺
本堂に定朝作・
紫式部の念持仏と伝える千手観音が祀られています。富士山から飛んできたという「夜行石」「お乳岩」があります。
7.市場一里塚跡
日本橋より5里目の一里塚「市場村一里塚」の記念碑があります。
明治9年(1876)の地租改正の折、一里塚は払い下げられて、敷地内にある稲荷神社に、一里塚の片方が残っています。(一里塚は街道の両側にありました。)
資料に特に記載がありません。当日のお楽しみ。
9.下町稲荷
資料に特に記載がありません。こちらも当日のお楽しみですね。
鶴見橋の名称は
第一京浜に架けられてから、
鶴見川橋に変わりました。橋の長さ26間(約47メートル)。橋の下には菱蔓が多く、橋上から大山箱根連山が見えたそうです。現在の橋は平成8年竣工。
安政6年(1859)の横浜開港以来、外国人に対する殺傷事件がたびたび発生したため、取り締まりのために
鶴見橋の袂に関門が設けられました。その規模は往還幅4間(約7メートル)を除き、左右に杉の角柱を建て大貫を通し、黒渋で塗り込んだ大掛かりなものでした。
当日のお楽しみ
14.鶴見神社
鶴見村の中で最も大きな茶屋で、「江戸名所図会」にも描かれています。「米饅頭」「竹皮包の梅干」「梅漬け生姜」が名物でした。
*JR
鶴見駅東口徒歩3分「清月」というお店で、「鶴見の米饅頭」を売っているそうです。興味津々!!
16.鶴居堂
咳の特効薬「苦楽丸」のお店。丹頂鶴が庭内に舞い降りたところから、屋号を鶴居堂と名付けました。
17.佐久間屋
鶴見村の名主。かつて式台が残っていました。現ネオマイム鶴見、らしいです。
18.さぼてん茶屋跡
19.慶岸寺
浄土宗。
天正9年(1561)創建。参道口に子育て
地蔵尊があります。
20.魚河岸通り
徳川幕府以来、御奈八ヶ浦(おさいはちがうら)の一つとして、
江戸城に魚介類を定期的に献上していたお店があった通りです。河岸の埋立で昭和46年に漁業は完全に消滅し、魚介商のお店は減少しましたが、現在も飲食店業者や一般のお客さんが新鮮な食材を求めに来ます。
21.道念稲荷
悪疫が流行したとき、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したそうです。「蛇も蚊も祭事」が行われます。
22.正泉寺
真言宗。寛永元年(1624)の開創。本尊は海中より出現したといわれる
薬師如来坐像。昔の漁村のお寺でした。
23.御社母子稲荷神社
当日のお楽しみ
文久2年(1862)
島津久光の行列の前を、馬に乗った英国人リチャードソンほか3名が横切ろうとしたところ、
薩摩藩士に切り付けられました。後に、賠償問題のこじれから薩英戦争となり、完敗した薩摩は長州と同盟を結び、倒幕に突き進む起爆剤になりました。
*
生麦駅近くに参考館があります。時間に余裕があれば、チェックしたいです。
当日のお楽しみ
海江田武次がリチャードソンにとどめを刺したところ。
27.才兵衛稲荷
浄財のお金を紛失し、身を投げた僧を祀っています。
28.遍照院
境内の
タブノキは
横浜市名木古木に指定されています。この辺りに、東子安の一里塚(
日本橋より6里目)があります。
当日のお楽しみ
30.長延寺跡
神奈川通東公園内。昭和40年(1965)に移転するまで、ここに長延寺が建っていました。このお寺は、開港当時、オランダ領事館に充てられました。また、このあたりは、
神奈川宿への江戸からの入り口にあたり、土居があった所でもあります。街道両脇に土盛りがされ、その高さは約2.5メートル。その上には竹矢来が設けられていました。
31.笠のぎ稲荷神社
良泉寺裏。
鎌倉時代からの神社です。笠を
かぶった人がこの前を通ると、不思議と笠が自然に脱げ落ちたところから笠脱(かさぬぎ)といわれるようになりました。
32.良泉寺
このお寺には、開港当時、外国領事館の指定を受けましたが、住職は本堂の屋根をはがし、修理中であることを理由に断ったという話が伝わっています。
33.能満寺
鎌倉時代の創設とされています。内藤新四郎光善というこの地の漁師が海中より拾い上げたという虚空蔵菩薩が本尊です。
34.神明宮
江戸時代は能満寺に所属していましたが、明治初めの
神仏分離令により分かれました。かつて境内を流れていた上無川に
牛頭天王(ごずてんのう)の
御神体が現れ、洲崎大神およびこの神社に
牛頭天王を祀ったという伝承があります。また、境内にある梅の森稲荷には、若い女旅人にまつわる哀れな話も伝わってます。
35.東光寺
本尊は
太田道灌の守護仏でしたが、小田原北条氏の家臣・平尾内膳がこの仏を賜り、東光寺を創建したといわれています。道灌は内膳に本尊を与えるときに、「海山へだつ東のお国より、放つ光はここもかわらじ」との歌を詠んだといわれ、名称の由来とされています。
★市立神奈川小学校あたり、浦島伝説が伝わっている地区のようです。ちなみにその伝説とは・・・
浦島太郎は相模国三浦のじゅうにんでした。 「太郎は墓の傍らに庵を結んで菩薩像を安置し、父母の菩提を弔いましたが、この庵がのちの観福寿寺で、通称「うらしまでら」と呼ばれました。観福寿寺は明治5年に廃寺になり、現在は慶運寺に聖観世音菩薩像が安置されています。
なお、浦島丘の蓮法寺には浦島太夫・太郎父子の供養塔や亀塚の碑があります。
また、七島と大口通との境を流れていた川は浦島太郎が足を洗った川だということで、大口通に足洗川の碑があり、子安通一丁目には太郎が足を洗ったという井戸があります。」(横浜市神奈川区ホームページより)
*今回の記事を書くにあたり、『ちゃんと歩ける東海道五十三次』の他に、以下の資料を参考にしました。
『決定版東海道五十三次ガイド』(東海道ネットワークの会21 講談社)
『「東海道五十七次」の魅力と見所』(志田威 交通新聞社)
川崎市川崎区ホームページ
川崎市川崎区:東海道川崎宿一覧
横浜市鶴見区ホームページ
横浜市 鶴見区 「鶴見みどころ90」
横浜市神奈川区ホームページ
横浜市 神奈川区 神奈川区役所ホームページ 神奈川宿歴史の道【パンフレット紹介】
上の2冊は、最近、新たに購入したガイドブックです。それなりに説明が載ってはいるのですが、やや踏み込んだことが知りたくなると、少し物足りないです。1冊で東海道五十三次の名所・旧跡を案内するのですから、紙幅に限りがあり、当然のことですね。そこで、大変参考になると今回気がついたのが、該当する自治体のホームページでした。自治体ごとに取り組みに個性があり、その違いも面白かったです。これからも、ウォークに出かける前には、自治体のホームページのチェックは、ぜひやろうと思いました。