てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

先取りふむふむ 大磯→国府津

 次回のウォークは国府津までです! 次の宿場は小田原ですが、17.0㌔もありますからねえ・・・ 国府津でいったん区切ります。 それにしてもチェックポイント、たくさんあるなぁ。

ここでいうチェックポイントとは・・・

 初回から街道ウォークのバイブルにしています『ちゃんと歩ける東海道五十三次」(八木牧夫 山と渓谷社)で著者の八木牧夫さんが見どころとして挙げている箇所をいいます。

 正直言って、「なんでこれが見どころなの~?」と思ってしまった場所もありましたが、大体においてはずれはないし、スタンプラリーみたいな感覚でチェックポイントを探すのも楽しい。なので、当分、このやり方で行こうと思います!

 

さて、次回のチェックポイントは・・・

 

  1. 島崎藤村旧宅
  2. 妙昌寺
  3. 上方見付跡
  4. 滄浪閣
  5. 宇賀神社
  6. 八坂神社
  7. 道祖神(小磯幼稚園入口)
  8. 道祖神(切通橋)
  9. 旧吉田茂邸
  10. 西長院
  11. 宝前院
  12. 国府本郷の一里塚跡
  13. 道祖神(大磯警察署)
  14. 男女双体道祖神
  15. 国府祭座間問答石
  16. 宝積院
  17. 六所神社鳥居
  18. 道祖神(六所神社そば) ここまで大磯町
  19. 名残り松 これより二宮町
  20. 塩海の名残り
  21. 我妻神社鳥居
  22. 小沢寺
  23. 藤巻寺
  24. 道祖神(山西)
  25. 一里塚跡
  26. 密厳院薬師堂
  27. 茶屋本陣跡
  28. 稲荷神社
  29. 男女双体道祖神(押切坂)ここまで二宮町
  30. 浅間神社 ここより小田原市
  31. 車坂碑
  32. 大山道道標
  33. 道祖神(前川村)
  34. 男女双体道祖神(中宿公民館そば)
  35. 長泉寺
  36. 男女双体道祖神(前西川)

 

 おぉ! 36個もある!

 ちなみに、「20.塩海の名残り」と「21.我妻神社鳥居」の間にJR二宮駅があります。ここでタイムアウトになったりして・・・ いやいや頑張ろう。目指せ国府津。

 「29.男女双体道祖神(押切坂)」の後、押切橋で中村川を渡ると、小田原市になります。

 なお、小田原宿の入り口は江戸見付(山王口)であり、今回のウォークには含まれません。小田原宿は見所がたくさん。もう少し先の方が、ちょうどいいや。

 

見どころの中の見どころ?

 別荘地・こゆるぎの浜

 「こゆるぎ」という不思議な響きの言葉は、万葉集や古今集などに詠まれた「よろぎ(ゆるぎ、こゆるぎ、こよろぎ)の磯」のことです。明治になって、この浜の風景を好んで、文豪や政治家たちが別荘や邸宅を建てました。。

 まず、浜の手前にあるのが伊藤博文の旧宅滄浪閣。現在は中華料理店として営業しているようです。こゆるぎの浜を望む海岸地帯には、かつて東側から旧山内邸、旧徳川邸、旧山県邸、旧沖邸、旧大隈邸、旧西園寺邸、旧池田邸が並んでいました。

 吉田茂の旧邸はさらに西にあります。平成21年に火事により焼失してしまいましたが、昭和22年に建てられた応接間棟と昭和30年代に建てられた新館を中心に再建され、平成29年4月から一般公開されています。ちゃんと見ると、とても時間がかかりそう。悩ましいです。ささっと観る感じになる予感。

 

立場 二つ

 宿場と宿場の間に設けられた立場(たてば)は、人馬の交代をしたり旅人が休憩をしたりと、街道の旅の重要拠点でした。街道ウォーカーとしては見逃せないチェックポイントなのです。

中丸

 中丸の地は、大磯宿より一里(約4km)離れたところで「立場」と称し、荷馬の休息所だったそうです。その名残の場所を見つけられるかどうか・・・(ガイドブックに詳細は載っていません。)

梅沢

 押切橋の手前に「梅沢の立場」とも呼ばれた休憩所があり、茶店が軒を連ねていたそうです。チェックポイント「27.茶屋本陣跡」がこれにあたります。「押切坂上」という交差点の辺りですので、眺めのいい場所だったのでしょう。江戸の旅人の気分で、佇んでみたい。

絶景

袖ヶ浦

 二宮駅付近の海岸の「袖ヶ浦」という名前は、ヤマトタケルのために、走水の海に身を投げた弟橘媛の袖が流れ着いたという伝説によります。ちょっと悲しい命名ですね。

 海を見ながらの街道歩きができるでしょうか? 少し下りないと海は見えないかな? 

 

なんだか気になるチェックポイント

六所神社関連

 なぜ気になるかって、ややこしそうだから。

 ここの大祭・国府祭では、「座問答」という神事が行なわれます。

 はるか昔、大化の改新の折、相武(あいぶ)の国と磯長(しなが)の国が統合して相模国ができましたが、両国の寒川神社と川匂神社とが国司の参拝の順序をめぐって対立し、順番決めは翌年まで先送りとなり、なんと今でも未解決なのだそいうです。

 という説明をちょっと目にしましたが、うーん、よくわからない。現地で分かりやすい説明に出会えることを期待しよう。

 六所神社関連の名所・旧跡は、「12.国府祭座間問答石」と「17.六所神社鳥居」です。

 

西長寺・身代わり地蔵

 本尊・身代わり地蔵は、旅人の身代わりになるという言い伝えがあり、体に無数の刀傷が残っているそうです。刀傷、見ることができるかな? 京都・三条大橋までの旅の安全をぜひともお願いしたいです。

 いわれが面白かったので紹介します。ちょっと長い引用になりますが、ご容赦ください。

後鳥羽天皇の時代に、梶原平景時の家臣、悪太郎義景という人がこの地蔵尊を深く信仰していました。
1191年、鎌倉八幡宮に参拝する源頼朝の行列に突然襲いかかる集団があり敵味方入り乱れての大乱戦となり、悪太郎義景は敵方に加わったと間違えられて畠山重忠に討たれてしまいました。しかし、悪太郎の身体には刀傷ひとつなく不思議に難を逃れたのですが、この地蔵尊の身体より血潮が流れ出し、あたかも刀剣の傷を受けたような痕がついていました。これは永年この地蔵尊を信仰していたおかげだと皆が語り合っていることが主君の耳に入り悪太郎は助命され、重忠はこの刀を「地蔵丸」と名付け家宝として今日に伝わっているとのことです。
その後、明応年間に大住郡岡崎四郎の娘がこの地蔵尊を深く信仰し、夜更けになるまで参拝しているのを悪い若者達がこれを怪しみ、道をふさいだり邪魔をしたのですが娘は少しも恐れず、尊号を唱えながら行くのでますます怪しみ、待ち受けて娘の首を討ち落としてしまいました。
娘はひと声叫んで倒れてしまいましたが、身体に異常はないのでこの場を逃れ我が家に帰り、その出来事を話すと村の人達は驚いてこの地蔵尊を訪ねました。するとこの地蔵尊の首が落ちていました。
このような霊験のあることにより人々は皆、「身代り地蔵」と称して1689年お堂を建て建立し尊像安置の霊場としました。(大磯町ホームページより)

 塩海の名残り

 古来この辺りでは(二宮町葛川付近)、製塩がおこなわれていたという・・・。どんな跡が残されているのか、興味あり。説明板だけかな。それでもいいですよ。

 

「ガラスのうさぎ」

 チェックポイントにはないのですが、二宮駅の南口に「ガラスのうさぎ」の少女の像があるそうです。高木敏子さんの「ガラスのうさぎ」は、二宮駅で父を失った著者の戦争体験を綴った小説です。有名な作品だけど、あまり記憶に残っていないなあ・・・ 行く前に読んでみようかな。

 二宮町のホームぺージを見て知りました。

 

 ここまで読んでくださって、ありがとうございました。次回は、二宮町について、調べてみようと思います。また、訪ねて来てくださると嬉しいです。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180114162749j:plain

 


にほんブログ村

「まちなみ」ウォッチ 平塚→大磯

 平塚→大磯の街道ウォークで、「あれ?」と目に留まったちょっと気になる「まちなみ」あれこれをチョイスしました。

 

足元のアート

 

街道ウォークでは、マンホールウォッチャーになっています。

今回は平塚市と大磯町の、この二点です。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113102339j:plain

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113102402j:plain

 やっぱり平塚は七夕ですね~ 大磯町、渋い!

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113103101j:plain

 足元アート、もう一つおまけ。平塚駅前です。案内役は、平塚にスタジアムのあるJリーグ「湘南ベルマーレ」のマスコットキャラクター「キングベル1世」です。

 

発見! 旧跡

 

 事前チェックをしていなかったけれど、歩いていて「ん?」と気づいた名所・旧跡。掘り出し物感があって、嬉しかったです。

 

平塚市立崇善公民館(平塚小学校跡)

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113104119j:plain

 木立の中に佇む洋館に引き寄せられて近づいて見ると、どうぞお入りくださいというようにドアも開いていたので、ちょっとだけのぞいてみました。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113104138j:plain

 中にあった説明によりますと、平塚小学校の創設は明治6年と古く、平塚新宿八幡別当に「崇善館」が建てられました。関東大震災で建物は全壊、昭和16年築の校舎も空襲で焼失しました。これは理科教室があった建物で、唯一焼失を逃れたものだそうです。崇善館は、平塚小学校、平塚第一尋常小学校、平塚第一国民学校、市立平塚第一小学校と時代に合わせて名称が変わりましたが、創立当初を踏まえて、再び平塚市立崇善小学校と改称され、現在に至っています。

 こういう建物が残っているって、いいですね。

 

原敬大磯別荘跡地

 第19代内閣総理大臣に就任し、日本初の純粋政党内閣を組織するも、大正10年(1921)に東京駅頭で暗殺された原敬首相。65歳の生涯でした。ここ大磯に別荘を持っていたのは、40歳~57歳の時でした。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113221001j:plain

 

 街道風景

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113222514j:plain

 相模貨物駅です。ずらりと並んだコンテナに、ちょっと圧倒されました。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113222554j:plain

 久々に見つけた「日本橋まで〇〇キロ」の表示。

 

化粧坂

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113222628j:plain

 「化粧(けわい)坂」の信号がある分岐点です。左が国道1号線。街道ウォークですので、右の旧道に入ります。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113223114j:plain

 旧道に入ると、このような、車の通りのほとんどない、静かな松並木になりました。再び国道に合流するまで、この雰囲気がずっと続きます。いい感じの散歩道です。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113225028j:plain

 松並木の植え込みに、こんなちいさな黒松の鉢植えがありました。

 

大磯駅周辺

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113225150j:plain

 古来より大磯地域にあった井戸だという説明が。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113225224j:plain

 これですね。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113224602j:plain

 「大磯 歴史と味の散歩道」という看板が掲げられていたケーキ屋さん。その名も「鴫立亭」。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113224706j:plain

 ここにも同様の看板が掲げられていました。こちらは料亭のようです。

 

 

ちょっと気になった建物

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113223806j:plain

 三橋橋手前の日枝神社付近の街道沿いにあった土蔵。材木屋さんです。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113223851j:plain

 「大磯うまいもの」というキャッチフレーズが掲げられています。今日は定休日かな? どんなお店なんでしょうね。気になります。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113223942j:plain

 かなり高級そうな鰻屋さんを発見。名前は「國よし」。くろやぎ(同行人・夫)が、「あ、この店、この間の格付け選手権に出てた・・・」 そりゃ、高級なはずですね!

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113223959j:plain

 お店の奥行。間口に対してすごーく長いです!

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113224103j:plain

 風格ある店構えの和菓子屋さん。残念ながら、この日はお休みでした。

 

海岸の景色にしばし見とれて・・・

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113225706j:plain

 街道ウォークではじめて海に到達! 大きな歩道橋を渡ると照ヶ崎海岸です。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113225603j:plain

 夕日が海面にキラキラ反射して、きれい。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113225800j:plain

 「海水浴場発祥の地」の石碑です。

 

食事処・お土産

車屋

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113225951j:plain

 化粧坂の入り口にあった「車屋」。ちょうどお昼時に通りかかり、「うどん・そば」の暖簾に魅かれ入ってみました。

 狭い店内は、なかなかの繁盛ぶり。座れないかなと覚悟しましたが、どうぞと言ってもらいました。お客さんは、地元の人が多いみたいで、お客さん同士やお店の人とで、「今年もよろしく」とか、新年のあいさつを交わしている人がたくさんいました。お店の看板メニュー「化粧そば」を注文しました。少し待ちましたが、調理場にいる人が男性一人の割には(他にお料理を出したり注文を取ったりする女性が一人)早いタイミングで出てきました。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113230005j:plain

 冷たいおろしそばです。味濃いめ、大根おろしがちょっと辛かったけど、まあまあ美味しかったです。うどん・お蕎麦以外にも、各種丼もの、おつまみ、クリームあんみつ、コーヒーと多彩。チーズ入りカレー鴨南蛮とか、すき焼きうどんとか、オリジナルメニューも。家の近くのお店だったら、ちょくちょく来ていろいろ食べてみたいです。

 

パンの蔵

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113230024j:plain

 大磯駅前のパン屋さん。おしゃれな雰囲気につられて入ってみました。お値段はちょっと高め。地元ならではの変わったパンもあって面白かったです。山形食パンとあんパン詰め合わせを買いました。

 山形食パンは翌日の朝食に食べました。こだわりの味というほどのことではないけれど、十分美味しかったです。あんパン詰め合わせは、疲れていたので帰宅してすぐに食べてみました。みかんあんという変わり種が、意外にイケました。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180113230142j:plain

 

 ここまで読んでくださってありがとうございました。また、訪ねて来てくださると嬉しいです。

  

 第9回街道ウォーク(平塚→大磯)については、こちらもご覧くださいm(__)m

 

www.lupinus-shiroyagi.com

 

 

www.lupinus-shiroyagi.com

 

 

 


にほんブログ村

『君たちはどう生きるか』あれこれ

 晴れの日はてくてく歩き、雨の日は読書。晴歩雨読の休日スタイル。晴れの日の、陽の当たる部屋のコタツでの読書三昧も、至福の時間。

 金曜日の夜、本の話題をアップしようかなと、考えています。(続くかどうか自信はありませんが・・・。)週末の読書にいかがですか?

 

 記念すべき(?)第1回目は、『君たちはどう生きるか』あれこれ

f:id:kaz-mt-wisteria:20180112215811j:plain

  昨秋、宮崎駿監督が、次のジブリの新作の題名は「君たちはどう生きるか」だと発表して以来、吉野源三郎氏による同名の本が脚光を浴びています。マガジンハウスからは、オリジナルの『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎・著)と同時に漫画版の『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎・原案/羽賀翔一・画)も発売されました。歴史的名著とのことですが、恥ずかしながら読んだことがなかったので、この機会に両方読んでみました。

 

 まずは、オリジナル版から。

『君たちはどう生きるか』 吉野源三郎・著 マガジンハウス

 この本のすごいところは、1937年に刊行されたという点だと思います。大正デモクラシーの名残の自由な雰囲気を残しつつも軍国主義へまっすぐに向かっていった時代。未来ある10代の若い子どもたちには正しい感性を失わないでいてほしいという願いを込めて書かれたというだけあって、ひとことひとことに、子どもたちへの著者の愛が感じられます。

 冒頭のシーンを読んだとき、「あっ」と声をあげそうになりました。私には18歳違いの叔父(父の弟)がいますが、子どもの頃、随分かわいがってもらいました。その叔父が何かの話の折に、「デパートの屋上から見ると下を通る自動車がカブトムシみたいに小さく見えることがあって不思議な気持ちになるね。」と言ったことをなぜかはっきり覚えています。まさにこれと同様のくだりがコペル君と叔父さんの会話にもあったのでした。当時20代だった私の叔父もこの本を読んでいたのですね。ちなみに叔父は戦後生まれです。戦前に刊行された本が時代を超えて確かに読み継がれていたのだなあ、身近にもそういう人がひとりいたのだなあと、嬉しくなりました。

 この本の山場は、コペル君が友だちとのことで悩む後半です。ネタバレになってはいけないので詳しくは書きませんが、コペル君の悲しみや苦しみの本質は、現代の子どもたちのそれと変わらず、大いに共感できることと思います。

 

 続いて漫画版も読んでみました。

『君たちはどう生きるか』 吉野源三郎・原案/羽賀翔一・画 マガジンハウス

 白状すると、オリジナル版の『君たちはどう生きるか』を、途中まで読んで挫折してしまったことがあります。哲学書みたいで頭に入ってこなかったのです。今回はなぜ、すんなり読めたのでしょうね? 不思議です。

 で、オリジナル版にとっつきにくい人に、漫画版はどうでしょう?

 確かに、さらさら読めます。肝心の「おじさんのノート」の部分は、漫画ではなくオリジナルの文章をそのまま載せているので、もとの雰囲気がちゃんと残っています。そうした点が、なかなかよいとは思うのですが、私はやはりオリジナル版を(オリジナル版も)読んでほしい。オリジナル版を読んでしまうと、漫画では「あれ?」とひっかかることがあるのです。

 まず、今の子どもたちに受け入れられやすいことを念頭に置くと必然なのかもしれませんが、コペル君の言葉遣いが今風です。「〇〇しようぜ」とか。これがオリジナル版だと「君、〇〇したまえ」となるわけです。今の子は友だちに「したまえ」なんて言いませんものね。でもこの昔っぽい言い方が、この作品の世界に合っている気がするんです。

 それから、コペル君とおじさんとの関係がフレンドリー。「まったくもう、叔父さんは~」みたいなやりとりもあるんですけど、オリジナル版ではあり得ません。コペル君は、叔父さんを全面的に尊敬していて、言葉遣いも、とても丁寧。昔の子どもにとって、大人とはこういう存在だったのでしょうね。今風にしたのもわかりますが、やはりもともとの作品世界を考えますと、残念。

 もう一点、これは些細なことですが、コペル君たちが上級生に目をつけられる場面について。コペルくんたちとトラブルがあった同級生が、自分のお兄さんに仕返しをしてほしいと頼んだという話になっていますが、オリジナルでは、ただ「下級生のくせに生意気だ。気に入らない。」という理由にすぎません。あまりに理不尽な仕打ちになってしまうので話を変えたのかもしれなせんが、理不尽なままでよかったかも。違う話になってしまって、却って気になってしまいました。「こういうことじゃないんだけどなあ・・・」みたいな。

 とまあこのように、現代の子どもにたちに受け入れられやすくするために、漫画にしただけでなく、作品世界にかかわる部分にも変更が加えられている点が、「工夫」ともいえるし、「残念」とも感じられます。私は、漫画だけでなくオリジナル版も読んで、1937年の時代を大いに感じることをお勧めします。あくまでも、私見ですが。

 

 ついで『君たちはどう生きるか』に関連して、本を紹介します。

『僕は、そして僕たちはどう生きるか』 梨木果歩 理論社

 吉野源三郎氏の『君たちはどう生きるか』を大いに意識した小説(中学生向け)。主人公の現代の少年が、現代社会(社会と言っても、学校とか友だちとかですが)をどう生きるかを考えています。主人公のあだ名は、コペル君。叔父さんも登場しますが、こちらの叔父さんは、ちょっと頼りない感じで、コペル君たちに突っ込まれっぱなし。脇役です。オリジナル版では叔父さんがコペル君を導いてくれましたが、こちらでは、コペル君とその友人たちが、「どう生きるか」を、自分のことや、自分たちのこととして主体的に考えます。たくましく、すがすがしさも感じさせるコペル君たち。現代の子どもたちも、なかなかいいですね!

 

『つむじ風食堂と僕』 吉田篤弘 筑摩書房

 自分は将来どんな仕事をしたいのか悩む12歳の少年リツ君が、つむじ風食堂に来る大人たちに、仕事について尋ねます。様々な仕事観、人生観が語られていて、面白いです。

 今の子どもたち、親や先生以外の大人と話すことが、もっとあっていいんじゃないかと思いました。

 

『21世紀に生きる君たちへ』 司馬遼太郎 朝日出版社 

 司馬遼太郎さん(1923~1996)が、小学校の教科書のために書き下ろした文章です。21世紀になって18年目を迎えても古びない司馬遼太郎さんの言葉に、アーサー・ビナードさんの英語の対訳がついています。

 

 話が戻りますが、宮崎駿さんは、どんな「君たちはどう生きるか」を考えていらっしゃるのでしょうか。「思い出のマーニー」も「借りぐらしのアリエッティ」も、ベースになる作品がありながら、大いに創作が加えられていました。直近の作品「風立ちぬ」に至っては、ヒントを得てはいるものの、完全な宮崎駿さんのオリジナルで、メッセージがぎっしり詰まった作品になっていました。なんとなくですが、「君たちはどう生きるか」も、「風立ちぬ」のような渾身のオリジナル作品になるような気がします。とても楽しみにしています。

 

体調管理って何?

今週のお題「体調管理」

 「体調管理、どうしてる?」というお題を前に、はたと考え込んでしまいました。 体調管理って何だ? 体調って管理できるの?

 うだうだ考えているうちに、体調管理には二つの意味があるのではないかと思い至りました。一つは、体調を良好に保つための心がけ。もう一つは、体調不良になった時の対処。前者の意味での管理は私の場合、月並みですが早寝早起きに尽きますね。と言いたいところですが、やりたいことが山ほどあって、その割に手が遅い私は日々宵っ張りです。よくないなあ、こういうの。この生活サイクル、今年こそ何とかしなくちゃと思っているのですけれど。後者の意味での管理は、風邪の引き始めにすぐに葛根湯を飲むとか、頭痛の予感がしたらこじらす前に頭痛薬を飲むとか。これも月並みですね。そもそも体調管理なんて、自分でできることではないんじゃないでしょうか。どんなに気をつけていてもインフルエンザになったり、不摂生を重ねてきた人が長生きだったり、神の采配かと思うこと、結構ありますよね。

 ならば私たちは何もしないかというとそんなことはない。私も、健康のこと、もちろん気になります。この頃、以前より小さな不調を感じることが多くなりました。たとえば膝痛。それは突然やってきます。特に膝が痛いと歩くのが困難になり、あらゆることに支障をきたします。これは痛くなるかもという予感がすると、湿布をしてサポーターをして・・・。サポーターは、用途に分けて3種類持っています。夜寝るときにする保温重視型。軽度の時や予防用の薄手のもの。(ちなみにこれはバンテリンがいい。)痛くてどうしようもないときに使う、マジックテープでガッツリ固定するもの。膝痛がひと段落すると今度は肩が痛くなります。右手が上がらないかと思うと、次の日は左手。一度整形外科を受診したら、適度な運動をしなさいと言われたのですが、それならばと張り切ると次の日どこかが痛くなる。困ったものです。

 そんな日々を思い返してみて、ああそうかと気が付きました。体調管理とは、自分の体の内なる声に耳を傾けること。体がご機嫌でいるように、もしも小さな不調があればすぐに気が付くように、耳を澄ますこと。だから、体の声を聞くと、湿布はったり、頭痛薬を飲んだり、風邪気味だなと思ったらたまには早く寝てみたりしているわけですね。宵っ張りの私は日ごろの心がけは全然で、不調への対処の方の管理ばかりですが、それでも何とか健康でいるのは、運がいいのに加えて、体の声に耳を澄ますことはしているからかなと思います。

 最後に、風邪を引いた時の対処について。私のお勧めは醤油番茶です。

作り方

①梅干し(自家製)を網の上で黒焼きにしてから湯飲みに入れてつぶします。

②すりおろした生姜(ひとかけ分)を加え、お醤油をたらたらたらと適量かけて軽く混ぜます。

③最後にあつあつの番茶を注ぎ入れます。

 子どもの頃、母がいつも作ってくれました。ふうふう言いながら飲んで、すぐに布団に入って寝ると、あら不思議。次の日にはけろりと治っているのです! 残念ながら、結婚してからはほとんど作っていません。具合が悪いとき、自分にここまで手をかける元気はないです。子どもたちには、味が不評で作っていません。私は好きな味なのですが。卵酒、すりおろしリンゴ、はちみつレモン湯・・・。人は風邪の対処法として、「これさえ飲めば」とか「これは効く」とか、様々なものを挙げます。そこには私のように、子どもの頃の思い出が重なっていることも多いです。もしかしたら、あまり根拠はないのかもしれません。「効く」と信じている気持ちこそが、最高の薬なのだと思います。

 というわけで、体の声に耳を傾けることと、「これで大丈夫!」みたいなポジティブシンキング。私の体調管理はこれに尽きます。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180111235139j:plain

 

 

第9回 平塚→大磯②

 平津→大磯 街道ウォークの後半です。

 高来神社を後に、再びてくてく歩き始めると・・・

 

虚空蔵堂

下馬標があったという虚空蔵堂。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110221811j:plain

 

絵を見て、しばし江戸時代にタイムスリップ。

大磯町が作ったこのイラスト入りの案内表示、この先たくさん見かけますが、イメージ出来て、とても良いと思いました。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110221201j:plain

 

 

化粧井戸

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110221637j:plain

虎御前がお化粧をするのに使ったという井戸です。

 

化粧井戸から少し歩いたところにあった看板です。安藤広重の『東海道五十三次(保永堂版)大磯虎ヶ雨』です。この辺りが、画の風景になった場所ですよということでしょうが・・・ 実際にはもう少し先なのではないかと思います。理由は後程、書きます。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110222124j:plain


化粧坂の一里塚

化粧坂の途中に一里塚があります。ちなみに、「化粧」の読み方は、「けしょう」ではなく「けわい」です。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110222205j:plain

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110222413j:plain

 

 



松林

化粧坂の松並木。進行方向は逆光でしたので、振り返ってパチリしました。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110223211j:plain

 

江戸方見附跡

見附は宿場の入り口のことです。ところで、先の広重さんの大磯の画ですが、画の中央に棒杭があります。これは宿場との堺を示す棒鼻です。つまり、ここ「江戸方見附」のあった所こそ、画の風景の場所なのではないかと思われます。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110223635j:plain

 

こちらが広重さんの『東海道五十三次(保永堂版)大磯虎ヶ雨』化粧坂が下りになり、宿場町に向かいます。左手前方には海が見えます。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110222537j:plain

画の構図にならって、パチリしてみました。いかがでしょう?

ゆるやかな下り坂。左手に海は見えませんが、確かに海の方向ではあります。右手立て札は、見附跡の説明板です。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110222646j:plain

 


 各宿場の両端には、城門に似た「見附」が設けられており、一般的に江戸側の出入口にあるものを「江戸見附」、京都側にあるものを「京方見附」とか「上方見附」「京口見附」と呼んでいました。

日枝神社

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110223835j:plain

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110224008j:plain

境内に多数の庚申塔がありました。「青面金剛」との説明書きがありました。

 

神明神社

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110224220j:plain

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110224248j:plain

ピンクの紙灯篭に、目が引き寄せられてしまいました。初詣用、ですかね?

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110224355j:plain

明治天皇が本陣に宿泊されたときに、御羽車をここ神明神社でお預かりしたとのことです。

 

延台寺

虎御前の「虎御石」があるという延台寺。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110224915j:plain

 

本堂では初だいもくの法要が行われていました。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110225203j:plain

 

こちらに、虎御石が納められているということです。毎年5月第四日曜日の虎御石まつりで、ご開帳されます。触ると安産などの御利益があるそうです。

隙間から、のぞいみました・・・

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110225226j:plain

 

虎御石の説明です。ご参考までに。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110224542j:plain

 

穐葉神社

歩道に張り付いて見上げるような立地の小さなお社です。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110224718j:plain



北組問屋場

跡地は駐車場です。説明板しか残っていませんが、イラストから、往時の賑わいを想像してみました・・・

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110225301j:plain

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110225425j:plain


小島本陣跡

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110225545j:plain

尾上本陣跡

 

古い建物の脇に、本陣跡を示す札が立っていました。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110225654j:plain

お蕎麦屋さんの看板がかかっていますが、現在営業している気配はありません。(帰って来てから食べログを見たら、閉店と書いてありました。)

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110225727j:plain

 

地福寺

島崎藤村夫妻のお墓があることで知られるお寺です。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110231441j:plain

境内にたくさんの梅の木。満開の頃、来てみたいですね。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110231603j:plain

 

静子夫人のお墓です。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110231536j:plain

 

藤村のお墓です。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110231634j:plain

 

石井本陣跡

f:id:kaz-mt-wisteria:20180111003252j:plain


跡地には、老舗旅館「大内館」が建っています。左手の蔵がコーヒーショップになっているようでしたが・・・なんとなく敷居が高くてそそくさと退散。

 

南組問屋場跡

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110232200j:plain

この裏に、「新島襄終焉の地」の碑があります。


新島襄終焉の地

同志社大学の前身の同志社英学校の開設者・新島襄が病に倒れて療養していた旅館「百足屋」のあった場所です。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110232101j:plain

南組問屋場跡と背中合わせになっています。

 

高札場跡

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110232235j:plain

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110232312j:plain

高札場跡の説明板は、個人のお宅の門の上方に掲げてありました。古い雰囲気のお宅のせいか、説明の札を見上げると、江戸時代の人になった気分?



湘南発祥之地碑

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110232349j:plain

中国の湖南省洞庭湖のほとり湘江の南側を「湘南」といい、大磯の景色がそこに似ていたことから、この辺り一帯を「湘南」と呼ぶようになったという説明にびっくり。関東で生まれ育っていながら、全然知らなかったです。


鴫立庵

フェンスのオブジェがおもしろい。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110232414j:plain

この日最後のチェックポイントとなりました、鴫立庵へ。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110232448j:plain

鴫立庵には、町内の人100円、町外の人300円の入場料がかかります。受付の男性が、出て来てくださって、町外からというと、とても丁寧な説明をしてくださいました。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110232527j:plain

中の様子です。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110232554j:plain

芭蕉句碑です。本当にたくさんの句碑があったのですが、とてもたくさんなので割愛します。

館内の説明書きです。先ほどの男性の案内の方が、どうぞ写真に撮ってくださいといってくださいました。大変わかりやすい説明だと思いますので、そのまま載せさせていただきます。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180111005534j:plain

f:id:kaz-mt-wisteria:20180111005544j:plain

f:id:kaz-mt-wisteria:20180111005556j:plain

 

出口のところにあったオブジェ。フェンスのデザインは、これだったのですね!

第15世庵主の原昔人が、病床の正岡子規に贈ったという自作の銅像だそうです。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110232722j:plain

 

振り返ってもう一枚パチリ。静かな佇まいです。俳諧道場として、今も定期的にここで集まりが持たれています。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110232808j:plain

 

 

この日の最終目的地、大磯駅に到着しました。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180110232838j:plain

品川、川崎、東神奈川、保土ケ谷、戸塚、藤沢、茅ヶ崎、平塚・・・・

これまで到着した駅と比べて、格段にローカルな大磯駅です。

思えば遠くまで来たもんだ・・・

 

16時8分、平塚駅を出発してから6時間49分。21708歩でした。

 

ここまで読んでくださって、ありがとうございました。

次回はまちなみに焦点を当てた、旅の報告をします。

また訪ねて来てくださると嬉しいです。

 

 


にほんブログ村

第9回 平塚→大磯①

 1月7日(日)、第9回東海道ウォークを実施しました。旅の様子を写真と共に、2回に分けて振り返ります。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108150752j:plain

 9時17分、平塚駅に降り立ちました。駅ビル「ラスカ平塚」がそびえます。あいにく、青空に・・・とは言えません。冬の曇り空ですが、頑張りましょう!

 

 

お菊塚

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108150831j:plain

 平塚駅前と言えば、お菊塚。紅谷町公園の中にありました。一応、お花もお供えされていました。よかったね、お菊さん。


江戸方見附跡

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108150859j:plain

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108150931j:plain


 明治初期に駐日イタリア公使のバルバラーニ伯爵が母国に持ち帰った写真をもとに復元されたという見附。二方向から撮影してみました。


八王子神社

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108150949j:plain

 事前情報のなかった八王子神社でしたが、説明板によりますと、神社の傍らを八王子古道が通っていたことが名前の由来のようです。徳川家康が中原御殿に行くときにここで休息したとも。家康の従者、笹尾正成が、ただの石祠に過ぎなかったのを財を投じて神社にしたそうです。おおよそのことがわかったところで、中に入ってみましょう。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108151007j:plain

 手入れはきちんとされているのですが、大きな木がなく、お社の雰囲気が薄いかも。社殿も石灯籠も、むき出しな感じ。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108151024j:plain

 小さなお稲荷さんに和みます。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108151041j:plain

 駐車場に祠がありました。説明板に道祖神社(祭神 猿田彦)と書いてありました。

脇本陣跡

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108151058j:plain

 本陣・脇本陣・問屋場などの「〇〇跡」という碑をパチリしたときは、振り返って、その跡が現在どうなっているのかもパチリすることにしています。

 ここ平塚宿脇本陣跡は、現在マンション建設中でした。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108151115j:plain

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108151156j:plain

 

高札場跡

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108151226j:plain

 高札場跡は、お茶屋さんになっています。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108151342j:plain

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108151408j:plain

東組問屋場跡

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108151436j:plain

 こちら、現在はお魚屋さんです。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108151507j:plain

 

本陣跡

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108151606j:plain

 本陣跡は神奈川銀行平塚支店です。支店入口脇に石碑があります。近づいてみましょう。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108151631j:plain

 昭和47年に平塚支店を改築した際に、このようなきちんとした石碑を建てたのですね。感心してしまった・・・ 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108151651j:plain

 こちらは、平成13年に平塚市が建てたもの。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108151715j:plain

 神奈川銀行平塚支店さんの計らいに、座布団3枚。(3枚という枚数に特に根拠はありません・・・)

 

宝善寺

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108152147j:plain

 事前情報がなく???だった宝善寺。庶民的なこの外観に、用心深い「くろやぎ」(同行人・夫)は引き気味でしたが、構わずお邪魔します。

 なるほど、ありとあらゆるものがてんこもりで、博物館的な・・・? 博物館にしては庶民的な。説明するよりもまず、写真をアップしますのでご覧ください。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108152209j:plain

 江戸時代末期の俳人、斎藤麗山の句碑。

 「すそはまだ くらきにあけて ゆきのみね」

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108152250j:plain

 水子地蔵

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108152319j:plain

 鬼門除けのおまじないの、さるすべりの木という説明

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108152343j:plain

 武田信玄小田原攻め戦没者供養塔

 

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108152412j:plain

 こちら、本殿です。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108152436j:plain

 本殿脇に展示されていた日本最古の鉄道レール。仏さまとはあんまり関係ないかもしれないけど。住職さんのコレクションですかね?

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108152520j:plain

 宮本武蔵ゆかりの瓦を敷き詰めているとの説明です。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108152546j:plain

 平塚宿屋敷門の遺構

 旧平塚警察北側のあった旧岩崎家の屋敷門を譲り受けたもの


 とまあ、いろいろあったのですが、宝善寺とはなんぞ? 帰って来てから改めてパチリしてきた説明板の写真を見ましたところ、京都東寺の末寺で、約800年前の建久年間に鎌倉まで来た東寺の僧により開かれたとのこと。小田原北条氏の庇護を受け、江戸時代になって宝善寺の前に平塚宿の本陣が置かれると、本陣菩提所として大いに栄えた・・・とのことです。

 くろやぎよ、恐れることなかれ。一応(というのも変ですが)平塚宿に由来あるお寺であります。

 

西組問屋場

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108152614j:plain

 江戸の宿場町の雰囲気たっぷりのこの建物・・・

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108152637j:plain

 平塚市消防団第一分団です。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108152702j:plain

 建物の前に、問屋場跡の碑と説明板があります。景観に配慮していて座布団1枚。


平塚の塚f:id:kaz-mt-wisteria:20180108152809j:plain

 平塚の地名の由来になった「平塚の塚」は「西仲町公園」の中にあります。公園の入り口に「平塚の塚緑地」という石柱がたっていました。正面にそびえる石碑は「平塚碑」

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108152837j:plain

 塚って、この辺りですかね? 平らだけど。いや、平らだから平塚。説明板あるし。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108152903j:plain

 平塚碑を記念にパチリ。晴れてきて嬉しい。

上方見附跡

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108152946j:plain

 広重さんの「東海道五十三次(保永堂版)」平塚縄手道の画は、おそらくここからの景色だろうと言われています。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108165911j:plain

 

 というわけで、現代版をパチリしました。いかがでしょう?

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108170026j:plain

 目の前が東海道。正面に高麗山。その横に小さく富士山。なるほど画の構図は同じ。飛脚と駕籠かきではなく、行き会うのは車。この写真では、せっかく見えた富士山がわかりづらいので、ズームしてもう一枚アップしますね。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108170305j:plain

 これでいかがでしょう?

花水橋

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108153108j:plain

 「平成の一里塚」があるという事前情報に、???でしたが、これですね。「平成の一里塚」という説明板とともに「塚」がありました。

 先の一里塚のあった「古花水橋」(川は流れていません。交差点です。)を渡ると大磯町になります。現代の花水川の流れる「花水橋」の手前に「平成の一里塚」はあります。

 説明文を読みますと、平塚市に一里塚があるなら大磯町にも作ってみようじゃないか、景色はこっちの方がいいですよ~みたいな主旨でありました。(ちょっとざっくりしすぎかも。すみません。)

 で、景色ですが。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108153151j:plain

 高麗山の右隣に富士山は・・・見えませんね・・・

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108153227j:plain

 これが、花水橋。大きな立派な橋です。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108153250j:plain

 花水橋からの眺めです。


 浮世絵考証のスポットとしては、本家の一里塚に軍配が上がりますが、確かに景色はなかなか良いと思います。

善福寺

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108153315j:plain

 平塚入道が、母・虎御前の生地の近くに草庵を結んだというのが、このお寺ですが・・・ お邪魔します。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108153347j:plain

 境内に親鸞聖人の像がありました。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108153429j:plain

 静かな境内です。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108153503j:plain

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108171949j:plain

 横穴式古墳のようなものがあり、特に説明はなかったのですが気になったのでパチリしました。帰って来て事前チェックを見直したら、縄文時代の遺跡だそうです。自分の作った事前チェックなのに、忘れていた・・・ ダメだなあ・・・

茅葺の旧家

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108153813j:plain

 事前チェックの時、残っているかなあと不安だったのですが・・・

 道路の反対側から見つけた瞬間は、「ばんざーい」と叫びたいくらいでした。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108153840j:plain

 どなたかが住んでいらっしゃる気配は感じられませんでしたが、きちんと手入れされていました。

慶覚院

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108175444j:plain

 高来神社の二つ目の鳥居を一旦くぐって、すぐ右にあります。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108153920j:plain

 ピカピカで新しい印象の、不思議なお寺。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108154440j:plain

 こちらは、高来神社内の案内板の写真です。最近、改築したんですね。どうりで。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108153948j:plain

 本堂です。

高来神社f:id:kaz-mt-wisteria:20180108154127j:plain

 参道です。成人式の前日、振袖姿の新成人と記念撮影をする家族も。お天気でよかったですね。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108154158j:plain

 境内の力石。女石と男石。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108154223j:plain

 このエリアのどこかに、高来神社の「シイニッケイ」という市内で有名な古木があるとのことです。樹幹の心材が枯死腐朽し空洞化しているスタジイの古樹の凹部に,ヤブニッケイが密着生息しているものだそうですが、どの木でしょうか? とうとうわからずじまい。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108154307j:plain

 本殿です。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108154339j:plain

 本殿の裏から山道になっていて、高来神社上宮になります。少々興味はあったのですが、くろやぎ(同行人・夫)が明らかな拒絶反応を示し、確かに案内に所要時間も何も書いていなかったので、やめました。街道ウォークですからね、あまり脇道に逸れるのもね・・・

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108154405j:plain

 左が男坂、右が女坂だそうです。いってらっしゃーい!

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108154044j:plain

 街道沿いの大鳥居の右側の石柱は、紀州徳川家の14代目・徳川頼倫侯の麗筆です。事前にチェックしていたのに危うく見落とすところでした。思い出してよかった。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180108154019j:plain

 高麗山をバックにひときわ目立つ大鳥居を後にして、次へ向かってまたサクサク歩き始めました。ちょうどお昼時でまだまだこれからなのですが、長くなるので、ここでいったんブログを閉じます。

 

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。次回はこの続きをアップします。また訪ねて来てくださると嬉しいです。

 

 


にほんブログ村

あとからふむふむ 平塚→大磯

 1月7日(日)、「第8回街道ウォーク 平塚→大磯「」を実施しました。この間4.0㌔。これまでのウォークで10㌔を超える行程もこなしていたので、今回は余裕。2時前には大磯駅近くに到着しました。「大磯→国府津」は見所も多く距離も結構あることを思うと、今回はもう少し先まで歩みを進めておくと次回が楽だろうと判断。事前チェックをしていなかった大磯駅周辺の次回予定地を回りました。

 というわけで、後からになりますが、予備知識(終わってしまったから予備知識ではなく復習ですかね・・・)をアップします。

 当初予定以外に見学したのは、以下の通りです。

 延台寺

 日本三大仇討ち物語の一つ『曽我物語』のヒーロー、曽我兄弟の兄・十郎祐成と結ばれた、一代の舞の名手、虎女(虎御前)が開いたお寺です。境内には虎女供養塔、虎池弁財天の碑、虎御前祈願の龍神、子授け祈願の石仏、大磯宿遊女の墓等あり、古い歴史を感じさせます。又、春には境内の桜の大樹が花を競い、参詣客の目を楽しませてくれます。

 山下長者はなかなか後継ぎの子どもに恵まれませんでした。あるとき妻が、虎池弁財天に祈願を思いたち日夜お願いしたところ、夢枕に弁財天が現れました。翌朝、美しい石が置かれており、その石を日夜礼拝していたところ、めでたく女児を授かりました。1175年のことです。虎池弁財天より「虎」の字をいただいて「虎」と名づけました。
虎女が大きくなるにつれて石もまた大きくなっていく。人々は生石といって不思議がり、山下長者はありがたい霊験にお堂を建てて、弁財天とともに虎女の守り本尊としました。この石が「虎御石」です。

 曽我十郎の仇討ちの相手、工藤祐経は仇討ちの気配に気付き、十郎が山下長者の屋敷にちょくちょく来ることを知り、刺客を差し向けました。十郎めがけて矢を射かけたが、矢は見事にはね返され、続いて太刀で切りつけたが歯がたちませんでした。よくみればそれは大きな石(虎御石)であり、刺客は驚いて逃げ帰りました。石には矢の当ったあたりに矢きずのくぼみができ、長い刀きずもついていました。それ以降、「虎御石」を「十郎の身代わり石」とも呼ぶようになりました。

 虎御石は、周囲86センチメートル、重さ130キログラム。十郎を守った虎女の愛の証、矢きずが確認できます。
 毎年5月第四日曜日(曽我十郎が仇討ちを果たしたのが旧暦の5月28日であることに因み、毎年開催日が決定されます。)には虎御石まつりが開催され、虎御石がご開帳されます。この石に触れると安産・厄除け、大願成就にご利益があるとされています。当日は甘酒サービス、ちびっこ剣道大会、詩吟等の行事が奉納され、参拝客でいっぱいになります。

穐葉神社

 

北組問屋場跡

 

小島本陣跡

 建坪246坪でした。小島本陣の大福帳は大磯町郷土資料館に展示されています。

尾上本陣跡

 建坪235坪でした。

地福寺

 文豪島崎藤村夫妻の墓碑が、樹齢100年~200年の梅の古木約20本に囲まれて建てられています。毎年2月上旬頃より生前に藤村も愛でた梅の花が境内一面咲き誇ります。
また毎年、藤村の命日の8月22日には、(社)大磯町観光協会主催による「旧島崎藤村忌」が開催され、藤村ゆかりや藤村ファンの方など多数の方が墓参・献花に訪れます。

 藤村の読経・埋葬式は昭和 18年8月26日に地福寺にて催され、安田靱彦氏や有島生馬氏等多数の参列者に見送られました。有島氏が『夜明け前』の一編を朗読、静子夫人が安田画伯の庭に咲いた只一輪の白の芙蓉の花を捧げました。棺には愛用していた筆や紙、タバコやパイプを、埋葬時には執筆中の『東方の門』を掲載した刷り上りの雑誌が投げ入れられました。

 有島生馬氏の筆による。夫妻の墓標の裏面には次のように記載されています。
「島崎藤村墓」
明治五年二月十七日木曽馬籠ニ生レ 昭和十八年八月二十二日大磯ニ歿ス
「島崎静子墓」
明治二十九年十一月八日生レ 昭和四十八年四月二十九日没

石井本陣跡

 現大内館。建坪235坪。

南組問屋場跡

新島襄終焉の地

 新島襄は同志社大学の前身、同志社英学校を開設し、その後同志社大学設立を企画していましたが、病のため早くに世を去ってしまいました。
早稲田大学の大隈重信、慶應義塾大学 ( 前身 ) の福沢諭吉とともに明治の三大教育家として知られています。

 潮湯治、医療の目的で大磯海水浴場が1885年に松本順により開設されたことからも想像できるように、大磯海岸の潮風は病弱の人の療養には活路を開くあこがれの地であったようです。
 新島襄は以前から大磯に来たいと思っていたようですが、明治22(1889)年11月、病に倒れたのを機に知人の勧めもあり、同年12月28日、大磯で静養し再起を計ることになりました。海岸に程近い百足屋 ( むかでや ) 旅館の、松林に囲まれた別館の愛松園にて静かに療養され、近づく春の訪れを待っていられました。愛松園は現在はありませんが、愛宕神社の丘陵つづきの高台にあり、大きい松が高くそびえ相模湾の眺望のよい処で園内には梅の古木がたくさんありました。
 「庭上の一寒梅笑って風雪を侵し開く、争はずまた力まめず、おのづから百花の魁を占む」
また、明治23(1890)年、病床にて筆をとりて  
「送歳悲しむことやめん
病弱の身鶏鳴はやすでに佳辰を報ず
劣才たとい済民の策に乏しくとも
なお壮図を抱いて此の春を迎う」
 愛松園にて再起の希望を持ち療養していましたが、明治23年1月20日危篤に。妻の新島八重も東海道線に乗って大磯にやってきました。
「グッドバイ、また会わん」
 襄が八重に送った最後の言葉です。襄は1月23日午後2時21分、46歳11ケ月の生涯を閉じられ、大磯が終焉の地となりました。新島襄が危篤におちいったという電信を受けた愛弟子の徳富蘇峰は、新橋駅から急いで汽車に乗り駆けつけましたが、すでに生死の境をさまよい取るすべもなかったとなげかれていたそうです。

 昭和15(1940)年、新島襄の門下生が集い、 旧百足屋の敷地内に碑を建てられました。
碑の文字は徳富蘇峰の筆によります。

 

高札場跡

 

湘南発祥之地碑

 

鴫立庵

 心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ

 これは、平安末期の歌人・西行法師が大磯あたりの海岸を吟遊して詠んだといわれている歌です。江戸時代初期の 1664 年に小田原の崇雪(そうせつ)という人物が、西行のこの歌にちなみ、昔の沢らしい面影を残す景色の良いこの場所に鴫立沢の標石を建てました。そして石仏の五智如来像(釈迦・阿弥陀・大日・阿しゅく・宝生の五仏)をこの地に運び草庵を結んだのが始まりです。
 その後、紀行家と知られ、俳諧師としても有名であった大淀三千風(おおよどみちかぜ)が鴫立庵主第一世として入庵して以来、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び日本三大俳諧道場として、現在第二十二世 鍵和田庵主へと続いています。

 

 ここまで読んでくださりありがとうございました。次回は、実際の旅の記録をアップします。また訪ねて来てくださると嬉しいです。

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180107232647j:plain

照ヶ崎海岸の夕日

【参考】

www.town.oiso.kanagawa.jp

『ちゃんと歩ける東海道五十三次』八木牧夫 山と渓谷社

 

 


にほんブログ村