てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

肘頭骨折 術後202日目 入院前検査

 抜釘手術のための入院を1週間後に控え、今日は病院に検査に行ってきました。検査項目は以下の通りです。

  • 尿検査
  • 採血
  • 心電図
  • 胸部レントゲン
  • 肘レントゲン

 新型コロナウィルスの影響で、病院は以前よりも待っている人が少ない印象を受けました。整形外科専門病院とはいえ、病院ですからいろいろな人が集まって心配ではありますよね。リハビリ室も、人が少なめ。早めに終わって、念入りに消毒中でした。こんな時に病院は一番大変ですね。

 

 検査のあと、院長先生の診察となりました。上記検査の結果は特に問題なし。入院や手術に関わる書類の説明を受けました。

 手術は全身麻酔で神経ブロックなのでその同意書を提出しなければなりません。(前回もしましたが。)同意しないという選択肢はありませんけどね。一抹の不安はあります。「手術にかかる時間はどのくらいですか?」と質問したら、「1時間」とのことでした。前回は2時間かかったので、「ずい分短くなるのですね」と言ったら、「そりゃそうだよ。入れるのは大変だよ。今度は抜くだけだから。それでも慎重にやらないと。骨が砕けたら困るだろ。」と。え、骨、砕けるの? そういうの、今、聞きたくないな。

 もう一つ気になっていた入院の期間を確認したら、「せいぜい1週間」だそうです。「傷が癒えたら退院だよ。」と。傷の状況で多少前後するそうです。ということは、順調ならば3月いっぱいで退院できるかな?

 

 1週間を切り、なーんとなく怖くなってきましたが、あまり深く考えずに心を整えていきたいです。

 次に、病院に行くのは、入院当日です。

 

 今日もお訪ねくださり、ありがとうございました。

 

 

 

肘頭骨折 術後201日目 卒業ソング

 コロナウィルス感染拡大防止で一斉休校。卒業式シーズンだというのに、例年のような卒業前の高揚感もなく、不思議な感じです。不要不急の外出を避けよとのことですが、学校以外の場所には子どもたちがあふれています。変ですね。

 

 職場の小学校でも、卒業式はシンプルに行われることになりました。在校生の出席がない分、リコーダーを持っている職員は、かわりに「威風堂々」を演奏することになりました。私はその日は手術なので、出席できないのですが、こんな状況ならば門出を送ってあげればよかったなと少し後悔しました。予定を入れたとき(2月中旬)は、こんなふうになるとは思わなかったんですよね。この1か月の展開の早いこと。

 

 ところで卒業式の退場音楽にリコーダーの「威風堂々」(♪ドーシドレーラーソー♪ のところ)は小学校では定番ですが、自分の頃はたぶん違ったように思います。楽器演奏なんかあったかなあ・・・? 「蛍の光」と ♪いーつまでもー たえるーことなくー♪ と ♪あじさーい いろにー かがーやーくそらー あおーく ひかーる うみー♪ という歌。昭和だな。いや、昭和にもいろいろありますね。これは昭和50年代。

 今、調べたら、♪いーつまでもー♪ は、「今日の日はさようなら」という歌でした。で、♪あじさーい いろにー♪ は、「草原の別れ」で、正しくは「あじさい色に華やぐ空、青く光る山」でした。記憶というものは案外いい加減ですね。

 この3曲が私が小学校の時の卒業ソングですが、中学での卒業ソングは、何と言っても「贈る言葉」です。第1回の「金八先生」のドラマを中学生の時に観ていた「リアル金八世代」なので。ただし私は女子校だったので「はぁー、こんな世界があるのかぁ」と感心したり、ちょっとうらやましかったり。親は地元の中学は荒れているからこれでよかったと言っていましたけど、正直、女子校はツマラナイ。

 そんな女子校でも、卒業ソングは「贈る言葉」です。いわゆる式歌(卒業式で歌われる歌)は「蛍の光」「仰げば尊し」「校歌」などで、「贈る言葉」はお別れ会などで好んで選ばれました。

 

 先日、久しぶりに武田鉄矢さんが最近歌われた「贈る言葉」をYouTubeで聴いてみましたら、ずい分、印象が違う。キーが下がってるみたいだし、渋みがかったお声です。オリジナルはどうだったっけと気になって昔のを探したら、ドラマの中で歌われている場面がありました。すごい。のびやかな歌声。赤木春江さんが若い!(歌とは関係ないけれど) 武田鉄矢さんご本人もつやつやしています。ああ、でも、そうそうこの感じだったよねと、タイムスリップしましたよ。それから人はこうして年を取るのかと、悲しくなりました。

 そうしたらさっき、武田鉄矢さんが、16日にTBS系で放送された「CDTVスペシャル! 卒業ソング音楽祭2020」に出演し、卒業生に言葉でメッセージを送って「贈る言葉」をうたったというニュースが目に入りました。

 以下メッセージを紹介させていただきます。(ライブドアニュースより引用)

新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、卒業式が相次いで中止となっている現状に「卒業式というのは人生の節目でね。人生の大切な思い出になるんですよ。今年は残念なことに、卒業式が迎えられないたくさんの卒業生がおるでしょう。しかし、卒業生たちにあえて言いたい。覚えておいてくださいね。この悲しい、思い通りにいかなかった卒業式がいつか必ず人生で1番深い、素晴らしい思い出になるから。すべての出来事は涙で終わるかもしれない。でも何十年か経つとね、それが一番深い、笑いながら話せる思い出になるから。その日を目指してきょうから歩いていきましょう」

 このメッセージを読んで、年をととるのを悲しいなんて思ってしまった自分を恥じました。キーが下がっても、高音がでなくても、のびやかでなくても、今の武田鉄矢さんが歌っていることに意味がある。今の武田さんには今のメッセージがある。歌はハートですよね。メッセージが伝わってくることが大事。うまく表現できないけれど。

 そう考えたら、渋みのあるあの歌声も、それはそれで素敵だなと思えてきました。

 

 このごろはYouTubeでたいていのタイムスリップができてしまう便利な世の中になりました。自分が中学生の頃は思いもつかなかったことです。星新一のSF小説みたいなことが現実になってきています。

 今の子どもたちが大人になるころには、どんな世の中になっているのでしょうか? 手術で入れたボルトが、時期が来たら自然にとけてしまうとか(もちろん人体に害なし)だったらいいのにね。結局そこに話が落ちたところで、今日のブログはおしまいにします。

 

 今日もお訪ねくださり、ありがとうございました。

 

肘頭骨折 術後200日目 今

 肘頭骨折の手術をしてから200日が経ちました。長かったようでもあり、あっという間のようでもあり。10日後には、ボルトを抜く手術を控えています。

 

 手術後、全く手が上がらなかったこと、肘が曲がらなかったことを思うと、今の状態はうそのようです。手を真上のに伸ばすことも、腕をすぽすぽ曲げることも可能です。同じ肘頭骨折をした人の中には、もっと緩やかな快復をしていらっしゃるかたもあるので、私はたぶん運がいい方のようです。

 

 ただ、骨折をした方の左手で何かを持つと、「ん? 痛いぞ」とたいてい思います。ななめ下へ重力がかかるのが苦手のようです。

 手をまっすぐ上へのばす「のび」の動作も苦手です。うーーーーんと伸びをしつつも、左手はゆるく自然に伸ばした状態だったりしています。ここをがんばって伸ばそうとすると・・・痛い。

 

 腕立て伏せは、骨折以来一度もしたことがありません。(壁ドンも無理です。)肘に負荷がかかる運動をしていいのか悪いのかいま一つわかっていなくて、取り敢えず、そうした動きは避けてきました。だから、骨折をする直前よりも、二の腕はぷにぷにだと思います。力、なくなったなあ。ここであえて筋トレを頑張るべきなのかどか悩み始めたら風邪を引いてこじらせて快復して、今に至ります。

 

 入院したらまた、筋力落ちるのでしょうね。手術後はしばらく動けませんし。ボルトを抜いたら、腕の伸び切らない感じとか、荷物を持った時の「ん?」な痛みとかはなくなるのでしょうか? 近々、答えをお出しできると思います。

 

 今日もお訪ねくださり、ありがとうございました。

 今日は」とても眠いので、短いですが、ここらで失礼します。

 

肘頭骨折 術後199日目 入院準備③

 昨日は雪が降って、あまりの寒さに一歩も家から出ませんでしたが、今日は晴れたので近所のショッピングセンターに買い物に行きました。

 コロナウィルス感染拡大はとどまる様子がありませんが、手術まで2週間を切っております。「こんな中で入院?」と先日、母にも言われてしまいましたが、それはそれ、これはこれと思っています。コロナは心配ですが私の肘の手術も「今」なので。それにコロナの感染のピークは数か月先かとも言われ始めました。手術を延期したところで、今よりももしかしたら状況は厳しいかもしれません・・・などとつらつら考え、「今でしょ」と言い聞かせているのです。

 

 ショッピングセンターでは入院に際して、少々買い物をしました。

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① スマホ用ケーブル

 先日、スマホの機種変更をして、モバイルバッテリーとつなげるケーブルが、タイプBからタイプ℃に変わりました。タイプ℃の充電器をすでに1つ、家族から譲り受けたのですが、予備としてモバイルバッテリーも持ち込みたい。

 

② イヤホン

 持っているのが壊れました。(片耳しか聞こえません。) ソ〇ーは、デザインはかっこいいけどお値段高めですぐに壊れてコスパが悪い気がすると長女が言うので(彼女の扱いが雑なのかもしれませんが)、PGAという会社のにしました。安かったから。ちなみに長女のおすすめは、パナソニック。自分の雑な扱いでも(やっぱり雑らしい)、壊れないという・・・。

 

③ S字フック

 百均で買いました。ベッドサイドに引っ掛けると何かと便利。ゴミ用のレジ袋とか、小さい手提げ袋を提げます。寝たままごみを捨てたり、欲しいものをさっと取り出したりできる。前回の入院で、同じフロアの人たちと、これがっあたらいいよねと話していました。

 

④ ウェットティッシュ

 やっとみつけた。先日、くろやぎ(街道ウォークの同行人・夫)が、子ども用ウェットティッシュというのを買ってきてくれたのですが、ちょっと少ないので追加。

 ボディシートというもので、体の汗を拭いたりするものらしい。香料強め。

 普通のウェットティッシュって、全然見当たりません。まあ、これでも、ないよりましかと。

 入院中は、ちょいちょい動けないときもあるので、ウェットティッシュはぜひほしいのです。

 

⑤ チョコレート

 チョコレートは傷を癒す効果があるそうです。(骨折した当初、ググって知りました。あのとき、自分でつけた傷もひどかったし、手術痕も見た目、すごかったです。) カカオ86パーセントの、ちょっと濃いのにしました。その方が効果あるかなと思って。ああ、また、腕に傷がつくのですね・・・ ガンバロー

 

 刻々と迫る手術の日。体調を整えて、準備良く。あとはうまくいくことを祈って。

  ショッピングセンターの中のブティックに、春物がたくさん。「いいなあ、たまには服、買おうかなあ。そうだ、退院したら、自分へのお祝いに買おう。」と言ったら、一緒にいた長女が、「選んであげるよ」と言ってくれました。楽しみだな♪

 

 今日もお訪ねくださり、ありがとうございました。

 

 

(肘頭骨折 術後198日目)まちなみウォッチ 府中→丸子

 3月なのに冷たい雨が降っています。どこへも行きたくないな。もうすぐ手術だし、風邪を引いても困るし。今日は、気になっていた街道ウォーク関連の記事を更新します。

 2月8日のウォーク、「府中→丸子」間のまちなみウォッチです。通常のレポート(バイブルにしているガイドブック『ちゃんと歩ける東海道五十三次』八木牧夫 山と渓谷社に名所旧跡として記載されているチェックポイントをたどるレポート)とは別に、歩ていて、思わずツッコミを入れたくなったショットや、心に残った風景を、気の向くままにレポートします。

 それでは、しばしお付き合いください。

 

 朝の静岡駅です。ここからスタートです!

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 駅前のメインストリート。うーん、なかなか都会。少なくとも、東京郊外のわが町(東京の田舎)よりもずっとずっと。

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 くだもの専門店に心惹かれて。くだものって、きれい。天井付近のバナナのオブジェにツッコミをいれたいかも。

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 呉服町の通りです。たくさんのお店が軒を連ね、活気があります。シャッター通りではありません。こういうの、嬉しいですね。

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 東海道を意識したオブジェ。安藤広重の東海道五十三次の浮世絵をはめ込んだこのタイプのものが、数メートルおきにありました。

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 呉服町についての説明板をアップします。

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 今川氏の時代から駿府本町として栄えていて、徳川家康の時代になって(慶長14年 1609)、呉服町と呼ばれるようになりました。その名の通り戦前まで十数軒の呉服屋さんが軒を連ねていました。東海道沿いの駿府の中心商店街だったのです。

 

 今では五つの福がそろう呉服町。ますます繁盛しますように。

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 こちらも、呉服町についての説明碑です。

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 家康公の衣服などを用意する呉服屋があったことに由来します。呉服屋の他、小間物屋も軒を連ねていました。ここの商人の一人で町年寄でもあった友野宗善は、家康公のまちづくりのアドバイザーでもあったそうです。という説明です。

 

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 駿府城下町は、武田氏や今川氏のころからすでに整備されており、家康がそれに手を加えて理想的な城下町にした・・・と言う説明です。ざっくりですみません。

 

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 静岡おでんまつりのポスター。おでんおいしそうだなあ、いいなあ・・・なんて思ってパチリしたのですが、これ、たぶん中止ですね。コロナ感染症の影響は、あちこちに。

 

 呉服町でひときわめだつビル。ふしみや。

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 くろやぎ(同行人・夫)がググって、江戸時代からの老舗だと教えてくれました。朝は冴えてるくろやぎ。

伏見屋は、1607年(慶長12年)、かの徳川家康公と主従関係にあった初代 小山善蔵が京都伏見より来静し、駿府に移り住んだのが「伏見屋」創業の始まりです。
徳川家御用商人、豆腐商、小間物製造販売と商いの形態を変えながら第十三代の時代から「他の人の為せざる事をしてこそ抜んずるすべもあれ」という信念のもと、箱根の山を越えて頭髪油や小間物を江戸で買い付け、呉服町にて販売を開始。
以来、婚礼の日本髪用品なども扱い、『静岡の美の文化』の発展に貢献して参りました。そして今もなお化粧品専門店として地域に貢献しております。(ふしみやHPより)

www.fushimiya-cosme.com

 

 帽子屋さんです。あまりいい写真ではありませんが、珍しかったので。たしかに、呉服町ですものね、帽子専門店があるのもうなづけます。

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 街道を歩いていたのですが、札の辻から県庁方面に、ちょっと外れてみました。

 

 静岡市役所です。1932年竣工。堂堂たるたたずまいです。

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 庁舎敷地内の植え込みに、駿府町奉行所跡の碑がありました。

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 こちらも敷地内の碑。静岡の」由来についてです。

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 廃藩置県の際、府中・駿府の名前をどうするかというときに、市内葵区にある賤機山(しずはたやま)にちなんで賤ヶ丘(しずがおか)に一旦決まったけれど、時世を考慮して「静岡」にしたそうです。

 

 正面に街灯があります。ガス燈? 確認したわけではないのでさだかではありませんが。

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 こちらも、植え込み内にあった説明碑です。

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 同じく植え込み内にあったもの。

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 徳川家康は駿府に居を構えるの当たり、安倍川の治水を目的に「薩摩土手」など大規模な築堤工事をおこなったということが書いてあります。家康、インフラ整備に余念がありませんね。

 

 県庁です。こちらも堂々たる風格。1937年に完成した建物で、コンクリート造りのビルに瓦屋根を載せた帝冠様式。

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 近づいてもう一枚。

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 窓辺に花が飾られています。

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 「花と緑のあふれるまち」の一環なのですね。

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 道路をはさんで県庁と市役所が向かい合わせになっています。かつては、駿府城の向かいに奉行所があったわけですね! と理解しました。

 

 県庁の斜め前のこちらは、静岡中央警察署。

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  静岡県議会議事堂跡でもあるようですね。

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 県庁・市役所・警察に近いところに、このような古地図の大きなパネルがありました。 パチリしたかったのですが、看板があって無理でした。残念。

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 こちらはひなんマップです。街道ウォークをしていて、なぜか避難地図をみるとパチリしてしまうのです。

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 札の辻に戻ってきました。呉服町通りと七間町通りが交差するところです。右手に見えるのが伊勢丹です。

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 こちらも札の辻です。里程元標の跡を示す膝丈ほどの石碑があります。(わかりにくいですが)

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こちらです。里程元標とは静岡市の道路元標です。ここにそれがあったというわけですね。

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 近くにこのような古地図のパネルもあります。

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 札の辻付近には、このようなオブジェもありました。

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 静岡市は、アメリカ合衆国ネブラスカ州オマハ市と姉妹都市なのですね!

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 札の辻から七間町に入ります。 七間町通りは、道幅が七間あったことからこの名が付きました。七間は約14メートル。え、江戸時代に14メートル。すごく広いですね。びっくり。

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 七間町通りには、七ぶらシネマ通りの表示もありました。映画館が多いからかな?

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 歩道には数メートル間隔に、こんな展示が。映画関連の昔の器械のようですね。

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 七間町通りには、府中宿についての説明碑もありました。

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 江戸時代の街道と城下町は、敵の侵入を防ぐために、道を曲げたり、お寺を外側に配置したりするくふうをしていました。(これまで通ってきた宿場もそうでしたね。) ここ府中宿も、そのような理由から複雑なルートを取っています。現代となっては、街道ウォーカー泣かせ。いえいえ、構いませんよ。往時を多い浮かべながら歩くのもロマンチックでまたよし。

 

 こちらが、現在の地図。なるほど、ジグザグ。

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 七間町についての説明碑です。竹細工やろうそくを扱うお店が軒を連ねていたそうです。

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 また、家康が駿府に住んでいた時、豊臣秀頼の鐘楼事件(京都のお寺の鐘に「国家安泰」と刻んだところ、「家康」の名を真っ二つにしたとして、怒りを買った)についてお詫びをするために、秀頼の乳母が訪ねたのが、ここ七間町の大野宇治の家です。駿府城の家康に直接謁見するのは恐れ多いとの理由で、こちらに家康の側室の阿茶の局を招いて謝りました。後に家康に直接弁明する機会もありましたが、結局この事件が大坂夏の陣の引き金になるのです。
 家康は、どう謝られても、これを理由に豊臣をつぶすつもりだったのでしょうね。秀吉は、どうも好きになれないけど、家康もタヌキ。

 

 説明板に近づいて撮ったものをもう一枚アップします。

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 バイブルに寄りますと、サッカーショップで右に曲がることになっています。サッカーショップではなくて、現在は、チョコレート屋さんでした。今後、街道ウォークをされる方は、要注意かも。チョコレート屋さんのところに、上記の碑もありました。

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 チョコレート屋さんの角を右に曲がると、津島神社へ続く道になります。静岡市の中心街は外れたようですので、ブログもここで一旦閉じることにいたします。近々続きをアップします。またお越しくだされば嬉しいです。

 

 今日もお訪ねくださり、ありがとうございました。

肘頭骨折 197日目 ホワイトデー

今週のお題「ホワイトデー」

 

 抜釘手術まで毎日更新を宣言して、ネタ探しに苦心しているので、今日も今週のお題からホワイトデーについて。

 

 バレンタインデーに比べ、始まりはここ最近、しかも日本発祥ということで、どことなく亜流のイメージがしてしまうホワイトデーです。そのせいでしょうか、「要は、おかえしの日でしょ」という目で見てしまい、あまり素敵な日という気はしないのが正直なところです。

 バレンタインデーに真剣にだれかにあげたことはなく、いただいたのも義理チョコのおかえしくらい。自分がホワイトデーに誰かにプレゼントすることはなく、受け身の日だったのですが・・・

 

 ある年、「あ、そういえばホワイトデーのお菓子、買わなきゃ。」と気が付き、あせったことがあります。息子が幼稚園の時、同じ幼稚園の女の子のHちゃんからバレンタインデーにチョコをもらっていたからです。といっても、Hちゃんのお母さんが気を利かせて、「Hから〇〇くん(息子の名前)へね。」と私に渡してくれ、Hちゃんから息子へと言う体裁を演出してくれたというのが本当のところ。特に息子へというよりも、他の子も等しくもらっていたので、いわゆる義理チョコです。

 「大変、明日はホワイトデーじゃん。」義理にはきちんと義理で答えなくては。でももう夜だし困ったな。慌ててコンビニで、そこで売っている一番気の利いた感じのチョコを買い求めましたっけ。私からHちゃんのお母さんに渡しました。バレンタイン同様、親から親へ、代理イベント。

 

 その後、もう一度ホワイトデーにお菓子を買ったことがあります。バレンタインデーに息子にチョコをくれたのは、家のお向かいさんのお孫さん。息子は小学校6年生、お孫さんは3年生。運動会で応援団長をやった息子を、同じ小学校に通うお孫さんがカッコいいと思ってくれたみたいで、手作りチョコをいただきました。ただし、ご本人からではなくお向かいさん(つまりおばあちゃん)から私へ。「自分で渡しなさいって言ったのに、ばあば、渡してって言われちゃって、ごめんなさいね。」としきりに言われました。

 この時のホワイトデーはさすがに覚えていて、事前に、コンビニではなくちゃんとお店で買いました。一応息子が一緒の時に買ったのですが、「どれにしようか?」と聞いても「知らないよー」と取り合いません。6年生なんてまだ子ども。「お返し」を考えるほど育っていないのかもねとどこかで納得してしまいました。

 当日はせめて自分でお向かいさんに持っていくようにいったものの、「なんでだよー」と知らんぷり。仕方なく私が持っていくと、「わたしたちで、やりとりしているね。」とお向かいさんも苦笑。ほんと、なにやってるんでしょうね?

 

 こんなことがあったせいか、ホワイトデーはやはり、どうも「お返しのマナー」みたいな気がしていたのです。

 もっとも我が家の次女は、中学生・高校生の頃から、ハロウィンもバレンタインデーもホワイトデーも、家のキッチンを占領してせっせとお菓子作り。イベントとして大いに楽しんでいました。こういう人たちがいるから、経済もまわるんだなと、傍らで見ながら妙に感心していた私です。

 そういえば、彼女、一人暮らしを始めましたが先日、帰ってきました。「お母さんのご飯を食べたいから」と嬉しいお言葉。で、ご飯を食べた後、「オーブン、借りるねー。今の部屋にはオーブンないんだよね。」と。ザッハトルテとかいうお菓子を作って、持って帰っていきました。ははあ・・・これが今回の帰宅の目的だな。ホワイトデーの一環か? オーブンを借りたお礼とかで、ザッハトルテ3つ、テーブルに残して・・・

 

 明日はホワイトデー。各種イベントを楽しむ人たちを見習って、私もなにかスイーツを買ってきますか・・・ もうすぐ手術だしね。パッと気持ちを明るく、元気を出していこう♪

 

 今日もお訪ねくださり、ありがとうございました。

 

肘頭骨折 196日目 月日は百代の過客にして・・・

今週のお題「卒業」

 

 今週のお題の「卒業」ですが・・・ 自分の卒業式ではクールにやり過ごし、これといって思い出すことはほとんどないです。「みんな、いつまでも友達だよ!!」と言って肩を抱き合うあの感じが、どうも苦手。次の進学先など、新たなステップへ進めることの方が、自分の中では重要でした。だから「卒業にまつわるちょっといい話」的なものはありません。

 

 高校1年生の時のクラスの様子は、よく覚えています。中学校からのエスカレーターの私立の女子校であったにもかかわらず、高校というものになじめませんでした。同じ系列の高校だったのですが、中高で制服も変わるし、校舎も別。先生も中学と高校は別の方々でした。

 中学までは校則がガチガチで先生も厳しかったのに、高校に入った途端、ゆるゆる。担任だった若い英語の男性の先生は、生徒たちが「歌え! 歌え!」とはやすと、校長の目を盗んで授業中にマイクを握り歌を歌いました。校長先生が巡回してくると、急に、「えー、では、教科書34ページ・・・」なんて言って。そのハチャメチャぶりを楽しむほど私は成長していなかったので、「なんてふざけたところだろう!」と半ば怒り、半ばがっかりしながら、日々を過ごしておりました。中学校を卒業したものの、気持ちが高校について行っていなかったのですね。

 日本史の先生も、大学院を出たばかりの若い男性で、授業中にしょっちゅう脱線して、猥談もどき(日本史に一応関係しているのですが)になったりするんです。30分もしてさすがに、授業に戻ろうとすると、生徒たちが「え~~、もっと話して~~」と言う。「いやいや、これでもまだ試験採用の身だから、勘弁してくれよ。」「いいじゃん。」 私はそんなやり取りを冷めた目で見ておりました。かわいくないね。でもなぜか、あの時の各種雑談の内容はよく覚えているし、「ホントかい?」と半信半疑で図書館に調べにも行ったんですよね(本当でした。ただの雑談ではなかった。)あの先生、今では校長先生になっておられ、学園の広報誌では大そう立派なことを書いていらっしゃいます。

 たぶんあのころのあの学校の若い男性の先生方は、校長先生に反発していたのだろうということは、生徒の身でも容易に想像できました。有名な都立の進学校からやってきた校長先生で、女子校の雰囲気からはやや浮いていて、話も長かった。

 「朝礼の時、今日は三つの話をしますって言うけど、あんなに長いくせに嘘つけと思って、聞きながらよくよく数えてみたら、確かに長いが話はちゃんと3つだった。校長は実はすごい。」と教えてくれたのは、古文の先生(やはり、若い男性の)でした。

 この先生の授業で印象に残っているのは、松尾芭蕉の「奥の細道」の序文を勉強したときのことです。

 「月日は百代の過客にして、行き交ふ人も また旅人なり。」という文章を読んで、「これは、学校だね。」と言いました。

「生徒のみんなは旅人。学校は変わらずそこにあるけれども、生徒たちは入っては出て行くから。先生たちは、そんな旅人を見ている。」

 あ、そうか。カチッと頭の中で納得のスイッチが入った音がしました。私たちは旅人なんだ・・・

 

 自分が学校現場に勤務するようになって、ますます感じます。月日の流れとともに生徒も先生も入っては出て行く(そう、先生も、です。そこが私立の先生とは違うところ)けれど、学校という存在は変わらずそこにある。まれに閉校することもあるけれど、それでも存在は思い出の中に残る。

 「卒業」というのは、旅人としてそこを通り過ぎていくときのことを言うのかな。旅人はまた別の場所(学校や職場)へ旅にでます。学校は定点観測だけれど(奥の細道の序文も定点観測の視点)、私たちは生涯旅をし続けるのですね。卒業は、その旅の、要所要所の区切りかな?

 

 今、私が卒業したいのは、骨折にかかわる一連のこと。先月、リハビリの「卒業」を言い渡されましたが、釘抜き手術を経て、病院を無事卒業したいです。

 

 今日もお訪ねくださり、ありがとうございました。