てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

浮世絵ウォーク 戸塚


 今週末も雨予報。亀の歩みが固まって石にならないように、浮世絵ウォークを戸塚まで進めましょう。

 今日の浮世絵はこちら、歌川広重東海道五十三次』の「戸塚 元町別道」です。

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 「元町別道」と題されていますが、描かれているのは現在の大橋とその西側に位置する「こめや」の風景です。橋の下を流れているのは柏尾川で橋の手前は保土ケ谷寄りの吉田町、対岸は矢部町です。

 画面中ほど、橋の手前の青い石柱には「左り かまくら道」という文字が刻まれています。これは柏尾川に沿って鎌倉へと伸びる鎌倉道の分岐点であることを示しています。

 「こめや」という大きな看板が目を引きますが、これは米穀店ではなく、旅人が一休みしたり宿泊したりする旅籠です。軒先には「大山講中」「神田講中」など、様々な講中の名前が書かれた木札が下がっています。「講」とは、共通の信仰を持つ人々のサークルで、たとえば「大山講中」の木札は、この旅籠が大山石尊大権現(現在の阿夫利神社、神奈川県伊勢原市)に詣でる大山講の人々が指定休憩所だったことのしるしです。

 絵の中の人物に注目してみましょう。主役は、着くやいなや、店先の縁台に、ひらりと馬から飛び降りている男です。いったい何をそんなにあせっているのでしょうか? 男の顔は見えません。馬を引いてきた男(馬子)は、何食わぬ様子であらぬ方を眺めています。男の左側には飛び降りる男を「ようこそいらっしゃいました」と腰をかがめて愛想よく迎える店の女。右側で一休みしようと菅笠の紐を解こうとしている旅の女の表情は、「あらやだ」と言っているようにも見えませんか? 男の表情は図りかねますが、両脇の女性のそれぞれの表情が、この場面を見る者の想像を自由に膨らませてくれます。

 エキストラ(通行人)的な役割でありながら、なかなか存在感があるのが、橋の上の老人です。長い道のりを歩いてきて、そろそろ一休みをしようかと橋の向こうの店を探しているのでしょうか。主役の男とその周りの雰囲気が「動」なら、この橋の上は、老人の存在で「静」の空間を作っています。橋の上から店先の4人をクールにを見つめる老人の表情は、店先の人たちの表情より、よほどくっきり描かれています。画を眺めている人も、老人の視線を感じて、ついつい橋の上へ目が吸い寄せられてしまいそう。エキストラというより名脇役ですね。

 老人は、笠は脱いで小脇に抱えています。道中歩いて、暑くなったのでしょうか。では、馬上の男が傘をかぶっているのはなぜ? 自分で動いているわけではないから、汗もかいていないんじゃないかな。ではここまで歩いてきた旅の女は、暑くなかったのかというと、日焼けを気にしていたのかな? 紫外線! ちょっと平成の妄想の域になってきたので、このあたりでやめておきましょう。

 

 ところで、この絵のことを知ろうとすればするほど、謎に包まれていることがわかってきました。実際の風景を丁寧に描き込んでいるかと思いきや、どうしてどうして、意外と創作もあるのかも。

 

橋の方角の謎

 橋の手前は吉田町(保土ケ谷寄り)なのか、矢部町(戸塚寄り)なのか?

 おそらく吉田町(保土ケ谷寄り)なのではないかと思います。手前に「左り かまくら道」の道標がありますが、この道標の通り、橋の手前で左に折れて川沿いを南下していくと鎌倉に出るというのは、ルートとして合点がいきます。正面に見えるのは海でしょうか。だとすれば、海は南方向なので、橋の手前が吉田町(保土ケ谷寄り)、対岸が矢部町(戸塚寄り)ということになり、これも納得です。

 ただ、私がひっかかるのは横浜市文化観光局の発行しているリーフレット「横浜旧東海道みち散歩」に次のような記述があったからです。

この橋は、柏尾川が東海道を渡る地点になりますが、絵の中央にある「左り かまくら道」と記された道標から柏尾川に沿って鎌倉へと伸びる鎌倉道の分岐点(実際にはこの絵にある分岐点ではなく、対岸の江戸側から柏尾川の左岸に沿う形になる)であることが示されています。

 

 この解説によれば、橋向こうが吉田町(保土ケ谷寄り)で、道標の実際の場所は橋向こうだったということでしょうか。解釈の理由を知りたいのですが、これ以上はわからず、謎になりました。

 

「こめや」の謎

 絵の方向を検証する有力な手掛かりは、「こめや」の位置だと思います。「こめや」は実在の店で、1910年頃まで実在していたそうです。店先で米菓子を出していたとか、旅籠をたたんだ後は実際に米穀店を営んでいたこともあったという記述も目にしましたが、典拠としてはいまひとつ確信が持てません。

 1910年頃の古地図が手に入って、「こめや」の位置が記載されていれば、この絵を見る方角も確定されるでしょう。とはいっても、「こめや」がこの時代から後、対岸に移転したのだったら、話はまた変わってきます。なので、「こめや」の歴史・変遷を知ることが重要だと思います。そうは言っても、手元の資料やネット環境だけでは情報が乏しすぎます。てくてく歩きのなかで、何かがわかるといいなあと思います。

 

道標の謎

 この道標は、 近くの妙秀寺の境内に移設されて今でも見ることとができます。ですが、道標の文字が違う! 広重の絵は「左り かまくら道」、現存する道標は「かまくらみち」。広重さん、間違えてスケッチしたとか? でも普通、文字なんて間違えないよね?

 このことは、広重さんの研究家の間では、有名な謎なんだそうです。「広重さん、実際に東海道を歩いてスケッチしたわけではないんじゃないの?」という説も浮上しています。実は広重さんの「東海道五十三次」、司馬江漢の「江漢図」を原画としてるという説が濃厚で、この広重さんの「戸塚宿」も「江漢図」にベースになったという画が見つかっています。

 私は、まったくの推論ですが、広重さんは「江漢図」見ていて、東海道を旅した時に、かねてからチェックしていたこの場所をスケッチしたのではないかなと思います。道標については見たままではなく、あとから描いたものなんじゃないかなと。今みたいに写真に撮るわけのもいかないし、そのとき写し忘れたら、後からなにか資料を見て、あるいは記憶を頼りに仕上げるしかないでじゃないですか。それに広重さん、この絵の世界を描きたかったわけで、正確な記録を残そうとしていたわけではないのだもの。

 この謎については、様々な研究者が言及していて、にわか研究家のような推論は危険だと思うので、このくらいにしておきます。

 

再版の絵の謎

 この絵はあっという間に人気が出て、売れに売れて版木が擦り切れてしまいました。そこで改めて原画を書き直し、再版したというエピソードがあります。

 新しい版では、「馬から飛び降りる男」が「飛び乗る男」になっていたり、「こめや」の店に扉がついていたりと、はっきりわかる変更がたくさんあります。なぜ、ここまで変更を加えたのでしょう? 「まさかニセモノ?」と、いささか乱暴な説もあったようですが、私は広重さんの芸術家としての試行錯誤かな感じます。あ、だから、別に謎じゃないです!

 

 このように謎の多い絵ではありますが、この橋が吉田橋であることは確かです。当時は長さ10間(約18.2㍍)、幅2間半(4.6㍍)の板橋でした。現在の橋は昭和61年(1986)に架け替えられたもので、両側に大名行列が持つ毛槍を模した街灯が建っています。

 

 街道を歩く前に、浮世絵のことを知っていたら同じ場所を通ったときに面白いんじゃないかなと気軽に始めた浮世絵鑑賞ですが、謎がざくざく出てきて、とんでもないことになっています! とても解決する材料が足りません。謎を頭にひっかけながら、てくてく街道を歩いていきます。しかし、ぶらさげてる「謎」、どんどん増えるなあ。ま、それもいいか・・・(笑)

 

【参考】

『広重と歩こう東海道五十三次』(安村敏信 岩崎均史

『謎解き浮世絵叢書 歌川広重保永堂版東海道五十三次』(監修・町田市立国際版画美術館/解説・佐々木守俊)

 


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クローズアップ! 戸塚宿

 まだ保土ケ谷宿にも到達していないのですが、ブログは戸塚宿へ! 今週末も台風の心配が。もともと亀の歩みだったのに、石になってしまいそう・・・ 久しぶりの週末の太陽サン、待っている人、多いと思うけどなぁ。

 

 戸塚区は、 1939年 (昭和14年) 4月1日 、鎌倉郡内の1町7か村(戸塚町、川上村、豊田村、中和田村、本郷村、瀬谷村、中川村、大正村)が横浜市に合併し、誕生 しました。その後、瀬谷区栄区泉区を分区しましたが、面積が横浜市でいちばん広い区です。戸塚区内では旧東海道は南北方向にまたがっており、全長約11.7㎞あります。その中で戸塚宿は、2つの見付跡(江戸見附と上方見附)に挟まれた2.3キロの範囲であると解説している資料を多数見かけました。この範囲は現在では吉田町、矢部町、戸塚町に及ぶ地域で、JR戸塚駅周辺の中心街に重なります。

 ここではたと考え込んでしまったのが、先日のブログにも書きました「北斎東海道程ヶ谷」の場所は、権太坂のある保土ケ谷か、品濃坂のある戸塚かという問題です。

 

kaz-mt-wisteria.hatenablog.com

 武蔵国相模国の国境から西寄りを戸塚宿の管轄としていたと書いている資料もあって、そうなると品濃坂は保土ケ谷ではなく戸塚ということになるのですが、江戸見附に入ってからが戸塚宿ならば、品濃坂は、まだ保土ケ谷のエリアなのでしょうか。だとすれば、北斎は品濃坂の松林を絵にかいて「程ヶ谷」とタイトルをつけたと考えることができ、いろいろ合点がいきます。

 仮説ですが、宿場の定義は二つあって、狭義には江戸寄りの見附と上方寄りの見附の間の人が集まり生活しているエリア(宿場町)、広義には国境などの境までの管轄エリア。そうはいいつつ、〈見附の外・かつ国境の内側〉の街道沿いは、宿場の(この場合戸塚)の管轄エリアでありながら曖昧で、隣の宿場の名前(この場合保土ケ谷)で呼ばれたりすることもあったのかなあ・・・と。乱暴な仮説ですが。そもそも宿場の範囲って、どうやって決めるんでしょうね? 明確に説明している資料は見当たりませんでした。そんなこんなの疑問を頭にひっかけながら街道ウォークをしようと思います。いつか、「そーなんだ!」っ納得する説明に出会えるかも。

 前置きが長くなってしまいました。先ほど、戸塚区は1939年 (昭和14年) に誕生したと書きましたが、戸塚宿の成立は慶長9年(1604)です。隣宿である藤沢、保土ケ谷の宿が成立した慶長6年に遅れること3年でした。それまでは日本橋を早朝に発っても、1泊目は距離的に保土ケ谷宿での泊まりを余儀なくされましたが、地元の陳情により戸塚が宿駅になりました。地元の陳情って、江戸時代もあったんですねえ。

 日本橋から数えて5番目の宿場町で起点の日本橋からは10里半(約42キロ)の距離にあり、朝江戸を発った当時の旅人の一番目の宿場町として最適であり、さらに鎌倉への遊山の道、大山参詣の道の分岐の宿として大変な賑わいを見せました。誘致の結果、成功ですね! 地元としては、ほっくほく? なんか、こういうの、今もよくありません? 程ヶ谷は大打撃? あ、でも、保土ケ谷って「今日はこの辺りでほどほどにして泊まっていきなされ」みたいな宿場でしたね。ゆったりのんびり派、あるいは戸塚まで行きたくても日がとっぷり暮れてしまった人たちにとって、ありがたい宿場なので、それなりにお客を二分していたのでしょう。

 ちなみに、東海道宿村大概帳【天保14年(1843)頃】によると、戸塚宿内の人口は2900人戸余、家数は613軒、本陣は2、脇本陣は3、旅籠は75軒と東海道五十三次の宿場の中では10番目に宿泊施設の多い宿場でした。

 昭和30年以降、戸塚区は、道路網の整備や鉄道の延伸、工場の進出や宅地開発などで人口が急増しました。宿場町の中心があった戸塚駅周辺のエリアは、近年になって再開発が進み、新しく生まれ変わろうとしています。江戸時代に思いを馳せつつ、変わっていく戸塚の町をウォッチする街道ウォークにしたいと思っています。

 早く行きたいなあ!

 

【参考】

 

国土交通省関東地方整備局ホームページ

戸塚宿を歩く

横浜市戸塚区ホームページ

横浜市 戸塚区役所 旧東海道戸塚宿の歴史を歩く散策マップ

『「東海道五十七次」の魅力と見所』(志田威 交通新聞社

『広重と歩こう東海道五十三次』(安村敏信 岩崎均史 小学館

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先取りふむふむ 保土ヶ谷→戸塚②

 次々回の「先取りふむふむ 保土ケ谷→戸塚②」、境木地蔵を過ぎると、保土ケ谷宿から戸塚宿の管轄になります。武蔵国に別れを告げて、これより相模国に入ります。

 説明が見当たらなかったチェックポイントは空欄になっていて、当日のお楽しみです。

 

21.萩原代官屋敷跡

 現在も武家門の残る萩原家は代々旗本杉浦氏の代官を務める家でした。幕末から明治初期へかけての萩原家当主萩原行篤は直真陰流の免許皆伝の剣士で、この地で道場を開きました。安政5(1858)には道場へ新撰組近藤勇も訪れ、剣客名簿にその名を残しています。

 

22.焼餅坂

 焼餅坂は当時の品濃村と平戸村の境にあり、一町半(約160㍍)の坂道でした。坂の傍らで焼餅を商っていたので焼餅坂と名付けられたといいます。別名牡丹餅坂(ぼたもちさか)とも呼ばれています。戸塚を描いた浮世絵には、山坂や焼餅がしばしば登場します。切通しの坂は長らく往時の姿をとどめていましたが、近年開発が進みました。

 

23.品平橋

 

24.品濃一里塚

 江戸から数えて9番目の一里塚です。神奈川県内ではほぼ完全な形で残る唯一の一里塚で、県の指定史跡となっています。旧東海道をはさんで品濃側(西側)に大きな榎が植えられていたそうです。

 現在は品濃側(西側)、平戸側(東側)ともに、塚の周辺が公園として整備されています。左右ともに小高い丘のような形で、平戸側(東側)には桜が多数植えられ、品濃側(西側)も複数の木が育った状況です。

 一里塚は、直径5間(約9メートル)塚の上に榎1本を植えるのが基本的なパターンですが、状況によっては例外的にこのように山状のものもあり、一里山という地名がいくつか残されています。

 

25.品濃坂

 品濃坂は、朝早くに江戸を立ち日暮れまでに戸塚宿に向かう旅人には、宿場町までもう一歩のところです。一方、江戸方面に向かう人にとっては最後の急な上り坂で、この難所を越えれば境木の立場まであと一息でした。海も見えてきて、江戸への思いを馳せていたかもしれません。やっぱり、北斎の「東海道程ヶ谷」は、ここかなぁ?

 

26.福寿観音

 

27.旧東海道(品濃坂)道標

 

28.赤関橋

 

29.王子神社

 祭神は大塔宮護良(もりよし)親王です。親王の首級が本殿下に祀られたと伝えられています。護良親王後醍醐天皇の王子で仏門に入り天台座主となりましたが還俗し、父後醍醐天皇鎌倉幕府打倒に尽くしました。気性の激しい親王足利尊氏と対立し、後醍醐天皇にも疎まれてしまいます。親王は尊氏暗殺を計画しますが露見して捕まり、その後鎌倉に幽閉されて利直義の命令により殺されました。

 

30.成正寺

 

31.柏尾の大山道道

 大山道入口です。お堂には正徳3年(1713)建立の不道明王像が祀られています。お寺の前には「従是大山道」と刻まれた道標や庚申塔があります。

 

 

32.益田家のモチの木

 益田家の敷地には県の天然記念物に指定された樹齢300年を超えるといわれる樹高19メートルの株と18メートルの株の2本のモチノキがあり、東海道を行きかう人々を今も見守り続けています。奥には茅葺屋根の旧家が残っているらしいです。(残っているかしら?)

 


33.斎藤家土蔵

 土蔵と棟門の旧家。赤レンガの建物は、鎌倉ハム発祥の地。明治10年ごろに英国人のカーチスが柏尾村に外国人専用のホテルを建て、宿泊客にハムを供したのが始まりと言われています。明治20年に斎藤家の祖斎藤角次や地元の斎藤満平等がカーチスからハムの製造法を伝授され、ハムの製造を始めました。煉瓦造りの建物は大正7年(1918)に建造され、2階はハムの仕込み室でした。

 

 

34.護良親王首洗井戸

 この地の言い伝えによれば、鎌倉で殺された親王の御首を側目が夜中に盗み取ってこれを奉じ、当時の豪族斎藤氏に救いを求めて難を逃れ、この井戸で御首を洗い清めたそうです。

 

 

35.五太夫橋

 

36.宝蔵院

 真言宗のお寺。本尊は寛永9年(1632)造立の不動明王で、境内には地蔵堂、日本舞踏芸道精進の扇塚などの石造物があります。

 

37.江戸見付跡

 見付とは宿場の入り口のことです。ここは戸塚宿の江戸側の出入り口です。レストラン・フォルクス前の植え込みに、戸塚宿の入り口記念碑があります。旧東海道の宿場に設けられた見付は、宿場を見渡しやすいような施設となっていることが多いようです。参勤交代の大名らを宿役人がここで迎えました。

 *戸塚との境は境木地のあたりかなと認識していたのですが、入口は、ずっと戸塚寄りなんでしょうか?

 

38.妙秀寺

 日蓮宗のお寺で本尊は釈迦如来です。境内には戸塚の浮世絵歌川広重の「東海道五十三次之戸塚」に描かれている大橋の脇の延宝年間(1673~1681)の「左かまくら道」道標が移されています。

 

39.一里塚跡

 戸塚の一里塚。日本橋より10里目。

 

40.木之間稲荷

 江戸中期に伏見稲荷大社の御分霊を祭祀したもの。

 

41.吉田大橋

 歌川広重の「東海道五十三次之戸塚」に描かれている戸塚宿を代表する場所の一つです。当時の長さは10間(18.2㍍)幅2間半(4.6㍍)の板橋でした。現在の橋は昭和61年(1986)に架け替えられたもおので、両側に大名行列が持つ毛槍を模した街灯が建っています。

 

42.善了寺

 天福元年(1233)江戸麻布の善福寺の僧了全が浄土真宗のお寺として開山したそうです。本堂の前には親鸞上人像が建っています。本尊は蓮如作と言われる阿弥陀如来です。江戸期には矢部の問屋場が置かれ、朔日から4日まで人馬の継立が行われました。問屋場跡は明治の初めには明充学舎という学校でした。

 

43.山王祠

 

【参考】

『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(八木牧夫 山と渓谷社

『決定版東海道五十三次ガイド』(東海道ネットワークの会 講談社

『「東海道五十七次」の魅力と見所』(志田威 交通新聞社

『広重と歩こう東海道五十三次』(安村敏信 岩崎均史 小学館

横浜市戸塚区ホームページ

横浜市 戸塚区役所 旧東海道戸塚宿の歴史を歩く散策マップ

横浜市観光文化局ホームページ

横浜市:文化観光局 横浜旧東海道の魅力に触れてみませんか

 

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 私は日ごろ自転車通勤です。普通の雨の日も嵐の日も、レインスーツを着て自転車で出かけます。(我が家は駅から遠く、職場も駅から遠いので、公共交通機関を使うより自転車で行った方がずっと面倒でないのです。)レインスーツは、奮発したゴアテックスなので、まあまあ快適。そんな状況なので傘を使う機会があまりなくて(雨の中、近所のコンビニとかに行くときは、ビニール傘を使います)、折りたたみ傘も、壊れて以来、持っていませんでした。けれども今年の8月、旅行に行くにあたりどうやら雨らしい、ということで傘を買うことにしたのです。おりしも「台風直撃」の予報だったので、「丈夫」が売りのヨーカドーオリジナルの折りたたみ傘を買いました。タグにも「こわれにくい耐風傘」と書いてありました!

 「まさか。さすがに台風は無理でしょ!」と思ったのですが、いよいよ折れるかと何度も思うたびに傘はしなやかにしなるだけで、壊れることなく台風の中、旅を続けることができたのです。

 残念なことに、その傘は不注意で、なくしてしまいました。買ったばかりなのにとショックで、しばらく傘は買わなくていいやと思っていたのですが、やっぱり街道ウォークにはあったほうが安心ですよね。先日の土曜日、色違いで同じものを買いました。んー、微妙・・・ もっといい感じのもあったんですけど、おしゃれなものって華奢なんですよね。「丈夫で長持ち」を優先しました。

 なんか、昭和のお父さんが、奥さんに使うほめ言葉みたいですね。「丈夫で長持ち」で結構結構(笑)

先取りふむふむ 保土ケ谷→戸塚①

 9月半ばより始めた週末街道ウォーク、亀のような歩みでなんとか神奈川宿まで来たものの、このところの長雨で、滞っています。

 「浮世絵街道」で一休みしていましたが、「先取りふむふむ」(事前チェックのことです)を、次々回のウオーク、保土ケ谷→戸塚まで進めておこうと思います。

  それでは早速、保土ケ谷駅を降りて、宿場町の中心に向いましょう!

 

1.問屋場

 情報が見つかりません。当日のお楽しみになります。

 

2.高札場跡

  当日のお楽しみ

3.金沢道道

 金沢や鎌倉へ向かう道との分岐点で、角に道案内の石碑が4基並んでおり、横浜市地域有形民俗文化財になっています。そのひとつに「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花」と杉田梅林への道を示す俳句を詠んだ碑があります。

 

4.苅部本陣跡

 慶長6(1601)年、徳川家康より「伝馬朱印状」が「ほどがや」あてに出されたことで、保土ケ谷宿が成立。東海道を往来する幕府の役人や大名は宿場に設置された本陣に宿泊しました。

 東海道に面して通用門が現存します。本陣制度が明治3年(1870)に廃止され、現在の東海道で往時の姿をとどめるのは草津と二川の2本陣だけとなりました。一方、本陣の門・玄関・茶室など部分的な遺構が他に転用され、当時の威容を伝えているものが三嶋・関・坂下などに数例ありますが、街道に面した通用門が残るのは保土ケ谷宿の軽部家だけです。
※外観見学のみ

 

5.脇本陣跡 大金子屋跡(八郎右衛門)

 当日のお楽しみ

 

6.脇本陣跡 藤屋四郎兵衛跡

 当日のお楽しみ

 

7.脇本陣跡 水屋与衛門跡

 当日のお楽しみ

 

8.旅籠屋跡 本金子伝左衛門跡

 江戸時代、旅籠として栄え、格子戸や通用門が当時の雰囲気を伝えています。旅籠とは、旅人を宿泊させ、食事を出すことを業とする家のことで、現在の建物は明治2年(1870)に建て替えられました。庭、玄関、障子などに当時の技が見られ、江戸時代の雰囲気を残す貴重な建物です。
※外観見学のみ

 

9.茶屋本陣九衛門跡

 当日のお楽しみ

 

10.保土ケ谷の一里塚

 区民と横浜市との協働により、松32本を植樹し、旧東海道を象徴する松並木がよみがえりました。松並木の中に一里塚も復元し、塚の上には昔のように榎を植え、松並木とともに再現されています。地域の方々による美化活動が盛んです。(松並木プロムナード)

 

10.外川神社 上方見付跡

 お仙人様の名で親しまれ子供の虫封じに効きき目があるといわれました。ご神木のケヤキが見事です。祭神は日本武尊

 

11.出羽三山供養塔

 当日のお楽しみ

 

12.樹源寺

 鎌倉時代に建てられた医王寺が焼失した後、江戸時代初期(1628年)に苅部家により身延山久遠寺の末寺として開山しました。庭園が美しいそうです。日蓮宗

 

13.稲荷神社

 当日のお楽しみ

 

14.権太坂改修碑

 昔は今より急坂で江戸からの旅人がはじめて出会う難所でした。一番坂と二番坂があり松並木が続き景色も良く富士山を眺めることができました。

 

15.権太坂標石

 当日のお楽しみ

 

16.投込塚跡

 江戸時代の旅では途中で行き倒れになる人が多く、どこの宿でも無縁仏として寺院などに埋葬していますが、宿駅を離れると街道沿いに墓石も置かずに埋葬するしか術がありませんでした。

 ここ権太坂近くでも、そのようにして行き倒れた人や牛馬を葬っていましたが、その後、平戸の東福寺で供養され、投込塚のあった場所に無縁仏を弔う墓石と石仏が建てられました。

 投込塚は、江戸時代の旅の過酷さを物語っていますが、権太坂が厳しいことからこの地区で倒れた旅人は特に多かったようです。なお、権太坂の名は、旅人が地元の老人に坂の名称を訪ねたところ、老人は自分の名前を聞かれたと勘違いして、「権太」と答えたことから、その名がついたといわれます。

 

17.若林家 境木立場跡

 保土ケ谷宿からも戸塚宿からも難所の坂を上り詰つめたところに、旅人や馬が休息するための立場が設けられ、数件の茶屋がありました。その内の1軒が現存し、明治天皇も休息されたというのが、この場所です。

 

18.萩原代官屋敷跡

 萩原家は平戸の領主で代々旗本杉浦越前守の代官をつとめ、幕末の頃にはこの場所に道場を開きました。今は武家屋敷門と倉が残っています。

 

19.境木地蔵

 かつて地蔵堂境内にケヤキの大木があり、ここが武蔵国相模国の国境であることから「境木」という地名になったといわれています。創建は萬治2年(1659年)。江戸からの道中の安全を祈る旅人が多く参拝されました。

 

20.武相国境モニュメント

 かつて、この地、武蔵国(保土ケ谷宿)と相模国(戸塚宿)の境に、国境の印として建植されていたという大きな角柱が、平成17年に街道脇に再現されました。

 

 保土ケ谷宿と戸塚宿の境で、ブログも一区切りにします。保土ケ谷の宿場町の中は、事前の解説が見当たらず、当日のお楽しみのチェックポイントが多いです。それはそれで楽しみです。

 

 宿場町を抜けるといよいよ権太坂。昔の急勾配とは違うのでしょうが、やっぱりかなりの急坂なのでしょうか? 「百聞は一見に如かず」。いや、「見」ではないか。こういうの、なんて言えばいいのかな? 「百聞は一体験に如かず」。うーん、ちょっとセンスないな・・・

 週末またまた台風? まさかまさか。ご勘弁を・・・

 

 【参考】

『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(八木牧夫 山と渓谷社

『決定版東海道五十三次ガイド』(東海道ネットワークの会 講談社

『「東海道五十七次」の魅力と見所』(志田威 交通新聞社

『広重と歩こう東海道五十三次』(安村敏信 岩崎均史 小学館

横浜市保土ケ谷区ホームページ 

横浜市 保土ケ谷区 旧東海道保土ケ谷宿 保土ケ谷宿見どころ・名物

 横浜市観光文化局ホームページ

横浜市:文化観光局 横浜旧東海道の魅力に触れてみませんか

 

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 今年の夏、山形県を旅行したときに買った、さくらんぼ柄のミニがまぐちです。立石寺(山寺)近くの雑貨屋さんで見つけました。がま口の値付けも見つけて、ひとめぼれして買いました。

 もったいなくてしまっていたのですが、五円玉をためるのに使うことにしました。

 街道ウォークをしてると、お詣りする場所が多いです。「お賽銭といえば5円でしょ」と入れていると、五円玉はすぐになくなっちゃいます。「10円は遠縁(とおえん)で縁遠くなるから入れないほうがいい」と子どものころ観光バスのガイドさんの説明を受けて以来、5円の次は20円になります。20円は二重のご縁でよくないかな?とチラリとかすめるけど、ま、いいか。いろんな人とご縁があるのもいいことだし! 十円玉を2枚ずつ入れていると、これまたすぐなくなっちゃって、五十円玉や百円玉に。 それもなくなると、さすがに1000円札はちょっと・・・。(五百円玉は、微妙…)「あー、小銭、ためておくんだった! それも五円玉。」と思うのです。

 というわけで、さくらんぼ柄のおさいふ。でも私、デビットカードでお買い物することが多くて、なかなか五円玉が手に入りません。せっせと入れているのは、私ではなく、街道ウォークの同行者・くろやぎ(夫)だったりします。

  くろやぎについては、もしよければ、こちらをご覧ください。

 

rkuroyagichan.hatenablog.com

浮世絵ウォーク 保土ケ谷or戸塚?

 季節外れの台風のお蔭で、週末街道ウォークも足止めをくらっております。次までのつなぎとして、神奈川、戸塚、保土ケ谷の浮世絵を順に見てきましたが、「あれ? 何か忘れてない?」と思っていらっしゃる方もいるかもしれませんね。そう、葛飾北斎の『富嶽三十六景』の「東海道程ケ谷」です。

 

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   この絵について書くのが遅くなったのは、今回のタイトルを「保土ケ谷or戸塚?」としましたように、絵の場所か保土ケ谷なのか戸塚なのかはっきりしなかったからです。タイトルが「東海道程ケ谷」となっていることから、保土ケ谷宿内の「権太坂」がその場所だろうと長らく考えられていましたが、ここ10年くらい前から疑問視されるようになっているのです。理由としては、富士山の位置が「権太坂」からの見え方ではない、あるいは向かって右側に急な山道があるのは権太坂の地形ではない、などのようです。

 そこで、新たに考えられたのが、同じく見晴らしのいい場所であった「焼餅坂」「品濃坂」です。「山梨県立博物館かいじあむ」のホームページでも、所蔵しているこの作品について、次のような解説をしています。

保土ヶ谷宿は、武蔵国橘樹(たちばな)郡と相模国鎌倉郡の境界付近に位置する東海道の宿場。本図は、東から西へ、宿の南端にある武蔵・相模国境の品濃坂より富士を望む。右側に見えるのは、庚申塚で青面金剛の石像が祀られているとされる。

 仮に、この場所が「品濃坂」、あるいは「焼餅坂」だとすると、どちらも戸塚宿内の場所になってしまいます。タイトルは「程ケ谷」なのに。「えーっ、どっちなの?」と、実は謎に包まれた作品なのです。

 ですが、謎はさて置き、絵を眺めてみましょう。

 きつい坂を越えてきて見晴らしのよい高台に出ると、つい一息入れたくなりますね。坂道でさんざん揺られて、ややお疲れ気味の女の人や、草鞋を結び直す駕籠かきと、それを待つ間に汗をぬぐう相棒など、それぞれの人物がそれぞれに自分のことをしているのが面白いです。馬を引いている男の人だけは、目の前の景色に目を奪われています。彼の視線の先は、富士山。疲れが一瞬吹き飛ぶ光景ですね。馬上の偉い方は、早く進んでくれという感じで、無言ですが。

 リズミカルに歩いていくと、樹と樹の間に富士山が見えたり隠れたりします。その面白さに気づいた人は、この一行の中にいるでしょうか? ただひとり気づいている北斎さん自身が、「どうです? 面白いでしょう?」と言っているみたいです。

 並木は、暑い夏には旅人に緑陰を与え、冬は吹き付ける風や雪から旅人を守ります。また風雨や日差しから道そのものを守る役目もありました。江戸幕府は街道に並木を植えることを命じており、保土ケ谷宿近くの松並木は、とても見事で、北斎さん以外の人も作品に描いています。北斎さんは、河村岷雪の『百富士』「程ヶ谷」から、松間の富士の構図の着想を得たのではないかとも言われています。それで、この図のタイトルも「程ケ谷」なのかもしれませんね。

 もう一度、絵に目を戻しますと、右側に一人の虚無僧が、一行とは反対の方向に向かってひたすら歩いています。虚無僧はその先にある庚申塚(青面金剛)の石像を、見上げているようにも見えます。庚申塚は一般に、道標などを兼ねて、村境や国境に建てられたものです。とすると、ここはやはり、「権太坂」というよりは、武蔵と相模の国境に近い「焼餅坂」か、品濃一里塚近くの「品濃坂」かな?と思ったりします。

 とここまで書いて、アーチストの北斎さんにとっては「神奈川沖浪裏」でもそうであったように、場所がどこかというのはさほど問題ではなかったのではないかと思えてきました。この絵の松の姿は、フランスの画家クロード・モネの作品「ポプラ並木」に影響を与えたといわれています。さすが、世界の北斎さん! 河村岷雪の『百富士』「程ヶ谷」に着想を得て、自分のアートとして昇華させ、世界に影響を与えた人。特定した場所ではなくて、保土ケ谷に近い見晴らしの良い高台の風景を、松並木に見え隠れする富士山の面白さを織り交ぜながら一つの作品世界として表現したのかもしれませんね。

 そうはいいましても、「権太坂」か「焼餅坂」か「品濃坂」か、やはり気になるところ。どこなんだろう?と考えながら、ぶらぶら街道を歩くのもいいものです。たぶんそうなりそう(汗)

 

【参考】

『千変万化に描く北斎富嶽三十六景』(大久保純一 小学館

横浜市保土ケ谷区ホームページ

横浜市 保土ケ谷区 旧東海道保土ケ谷宿

 

 

浮世絵ウォーク 保土ケ谷

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 題名が「新町橋」となっていますが、「帷子橋(かたびらばし)」のことです。慶応元年(1648)に東海道のルート変更が行われたことに伴い、この橋の先の宿場町が保土ケ谷宿の東に移転したことから、このあたりは「新町」と呼ばれていました。

 絵を見てみましょう。橋の中央でこちらを振り返っている深編笠を被った男の人は、尺八を袋に入れて腰にさした虚無僧(こむそう 一般のお坊さんのように髪を剃らないで、放浪をしながら修行をしている出家僧、ですかね)です。その後ろには、駕籠(かご)に乗った武士が付き添いの家来と両掛(りょうがけ つづらなどの箱状のものを、天秤棒の両脇にかけて運びます)を担ぐ用人を伴って続きます。橋の反対側・右手からは、男の人の一団が、今まさに橋を渡るために曲がってこようとしており、その橋の袂には「二八そば」の看板を出した茶屋も見えます。神奈川「台の景」の茶屋同様、広重の丁寧な作品世界づくりには、つくづく感心してしまいます。1枚の絵の中に、実にいろいろな人がいて、それぞれの人の物語がその奥にしまわれているように感じるのです。

 また、橋や橋脚、橋桁などは、光と影を色分けして表現しており、屋根や笠に使われている黄色は、空と同様の明るい日差しを感じさせ、人々の営みを、明るい日差しに包まれたのどかな情景に調和させています。そうした明るい色調とは異なり、不思議と切り離されて感じるのが、画面左端には田んぼが広がっているエリアです。よくよく目を凝らすと、田んぼ道を、農具を担いでとぼとぼ歩く農夫と息子の姿が見えます。当時、旅に出るのは、庶民にとってめったにない贅沢だったことでしょう。なにやらにぎやかな人々の往来の傍らで、いつも通り、もくもくと労働にはげむ人がいることも、広重は忘れずに伝えています。大変、示唆のある絵だと思います。

 帷子橋は、昭和40年頃、川があふれることが多かったため、天王町駅の南側から天王寺駅の北へ進路を変更する河川改修が行われ、橋も移転しました。現在の帷子橋は、この絵の中にある橋ではありません。元々の橋のあった場所は天王町駅前公園となり、跡地として橋のモニュメントが設置されています。

 先ほど、橋の反対側右手から人々の一団が曲がって渡ろうとしていると書きましたが、橋を川に対して直角に架けたため、橋の両側で道路が屈曲していることを示しています。おそらく、橋のこちら側・前方は、絵には描かれていませんが、道が左手から回り込むようになっていると思われます。風景をうまくトリミングすることで、構図に面白みが増していますね。

 実際に歩いてみると、旧東海道が、帷子橋跡の公園の辺りで曲がっていることに気付くのだそうです。次回ウォークでは、私も、広重さんの浮世絵を思い出しながら、「ふむふむ」と歩いてみたいものです。

 

【参考文献】

『広重と歩こう東海道五十三次』(安村敏信 岩崎均史 小学館

横浜市保土ケ谷区ホームページ

横浜市 保土ケ谷区 旧東海道保土ケ谷宿 旧東海道と浮世絵

横浜市文化観光局ホームページ

横浜市:文化観光局 横浜旧東海道の魅力に触れてみませんか

 

ここにアップした画像は、残念ながら黄色を中心とする発色が、うまく出ていません。画集等で、本物に近い色調をご確認ください。

 

 

浮世絵ウォーク 神奈川②

 神奈川宿の様子を描いた浮世絵と言えば、これ。歌川広重の『東海道五十三次』の中の、神奈川「台の景」という1枚です。JR東神奈川の駅の改札口を出たところに、この絵が通路の壁面を飾っており、「街道ウォークの駅なんだ!」と前回嬉しくなってしまったことを思い出します。

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 この絵は、「台之景」と題されているように、神奈川宿の西端にある台町の風景が描かれています。「台」という名称の通り、東京湾に面した崖上に立地する台町は、対岸の房総半島南部まで見渡すことができる眺望を売り物として多くの茶屋が軒を連ねていました。この絵でも、茶屋の女の人に手を引かれて仕方なく立ち寄ろうとする人、「いやいや、結構」と振りきろうとする人、なんてにぎやかなことでしょう。その先にはもう一人、茶屋の女性が待機中。これは、引っかからずに通り過ぎる方が大変かも!

 手前の茶屋の欄干(テラスのような)が見えますが、海が見渡せる特等席だったことでしょう。弥二さん・喜多さんが活躍する『東海道中膝栗毛』にも、次のようなくだりがあります。

ここは片側に茶店軒(ちゃやのき)をならべ、いずれも座敷二階造、欄干つきの廊下、桟(かけはし)などわたして、浪うちぎはの景色(けいしょく)いたってよし

 十返舎一九も、この絵に描かれている茶屋で一休みしたことがあったのかもしれませんね!

 欄干の上の赤提灯の後方に細い洲崎が見えますが、これが開港前の横浜村から突き出た陸地です。眼下には帆を下して神奈川湊に停泊する船が描かれています。ちょうどそのあたりが現在の横浜駅周辺になります。なんとなんと、横浜は海だったんですね! 何十年も関東に住んでいながら無知でした・・・

 坂道に目を戻しましょう。先ほどの、茶屋に入る入らないのドタバタをしている旅人、かなり目立っていますが、その後ろに小さな女の子と手をつないでいるお父さん、そのすぐ後ろにも大きな四角い荷物を背負った男の人が続きます。男の人の大きな荷物は、仏像を入れた厨子で、男の人も、お父さんと女の子の親子連れも、巡礼に行く人たちです。もくもくと歩く様子は、先のにぎやかな旅人とは対照的に静かです。

 坂道の急勾配を表現するために同じ形の屋根が重ねるように描かれています。また、坂道に沿って下から見上げた視線が右上端から左方向に次々と現れる岬に注がれ、くの字に描かれた船の数々をたどって再び陸地に視線が戻るような仕掛けになっています。歌川広重さん、写実的な描写かと思いきや計算された場面づくりや構図に、さすがというか、びっくりです。

 ところで、上から3軒目の茶屋の看板、よーく見ると「さくらや」と書いてあります。幕末の頃、文久三年(1863年)に、田中家の初代がこの「さくらや」を買い取り、「田中家」がスタートしました。「田中家」は現在も営業中で、食事をすることも可能です。

 海と一体となった台町の風景を今はもう見ることはできませんが、この付近の地形は、神奈川宿内で今でも旧東海道の面影を残す数少ないスポットです。次回のウォークでは、絵の通りの急な坂道を登りながら、この絵の情景をイメージしたいと思います。ああ、早く行きたいなぁ! 

【参考】

『広重と歩こう東海道五十三次』 安村敏信岩崎均史 小学館

横浜市神奈川区ホームページ

横浜市 神奈川区 神奈川区役所ホームページ 神奈川宿歴史の道【パンフレット紹介】

横浜市文化観光局ホームページ

横浜市:文化観光局 横浜旧東海道の魅力に触れてみませんか

「田中屋」ホームページ

歴史 | 横浜 割烹 料亭 田中家

 

 なお「田中屋」については、過去にアップしました「先取りふむふむ 神奈川→保土ケ谷①」も、ぜひあわせてご覧ください。

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