てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

自己紹介は苦手?

今週のお題「自己紹介」

 

 自己紹介は、苦手。うまくしゃべれないから。

 

 あがり症とか、恥ずかしいとかじゃなくて、人としゃべるのはむしろ好きな方なのだけど、改まった場で人前で話すとなると、口が上手く回らなくなってしまいます。だから、はじめまして的なシチュエーションでの自己紹介は苦手です。

 口が上手く回らないと書いたけれど、苦手なことははっきりしています。サ行とタ行のイ段の発音ができないんです。つまり、「シ」と「チ」。「シ」は「ヒ」に、「チ」は「キ」に聞き間違えらます。いつもは忘れているけれど、時々「え? なに?」と聞き返されて、「ああ、私、シとチ、苦手だったんだなあ」と思い出して落ち込みます。落ち込むと言ってもほんのちょっとなんですけれど。性格は、明るい方だと思う。くよくよしないっていうか。

 でも、シとチが苦手だから、7のことを、「シチ」ではなく「なな」と言っています。子どもの小学校とかで絵本の読み聞かせボランティアをしていた時は、発音しにくそうな単語は、違う言葉で言い換えたりしていました・・・ 人と普通に会話しているときは気にならないのに、そういう場面になると急に、すくんでしまうんです。

 趣味の域ですが、声楽を習っていたことがあります。人前で歌うのは、不思議と大丈夫です。でも、日本語の歌詞でない方がいいです。ラテン語、ドイツ語、イタリア語なら、シもチも関係ないから。

 

 好きな作家さんの一人が、重松清さんです。重松さんはご自身が吃音であることをはっきりおっしゃっていて、作品にも投影されています。そのひとつ『きよしこ』が、特に好きです。吃音になやむ主人公の「きよし」くんは、矯正のために家族の応援もあったりするのだけれど、結局は治ることはないのです。でも、「きよし」くんの気持ちが痛いほど伝わってきて、心が洗われるような本です。自分も似たような思いをしているから、よけい感じ入ってしまうのかもしれません。

 同じく重松さんの作品に『青い鳥』というのもあります。やはり主人公は吃音ですが、こちらは学校の先生。「きよし」くんは、吃音であることに悩み傷ついていたのけれど、こちらの「先生」は、吃音であることに臆せず、生徒に話しかけ、時には大きな声で叱ったりもします。でも、それが本当にひどいどもりなので、生徒たちはクスクス笑うのですが、「先生」は気にしません。自分の弱点をさらけ出して、真摯に生徒に向き合う誠実な先生の姿に、周囲の人は己を恥じ、変わっていくのです。

 『青い鳥』の先生は、なかなかインパクトのある魅力的な人物ですが、やっぱり私は弱さを抱えたままの「きよし」くんが主人公の『きよしこ』が好きかな。

 

 重松清さんは、吃音であることがコンプレックスだった時もあったかもしれないけれど、それをどこかで受け入れて「書く」ことに道を見出されました。有名な作家さんと同じに語ることは身の程知らずですが、私も「書く」ことは好きです。「話す」より「書く」方が得意。

 最近の教育現場では、調べて書いて発表するという一連の作業が出来て、やっと評価されることが多いですが、「調べる」のは好きだけど調べたら満足してまとめるのは嫌いな人、「書く」のは得意だけれどそれを人前で発表しなさいと言われたら困る人、「話す」ことなら誰にも負けない人、それぞれだと思います。なんでもできるスーパーマンみたいな子って、どれだけいるんでしょうか? この頃の子は大変だなあと思ってしまう。昭和の子でよかったな。

 

 えーと、話がそれましたね。そうそう、自己紹介でした。というわけで(どういうわけなんだか・・・)、私は「シとチ問題」を抱えていますが、そこそこ明るい、「書く」ことが好きな、もしかしたらちょっと変わり者。こんなまとめでいかがでしょうか。(まとまっていないかも、ですが。)

f:id:kaz-mt-wisteria:20180405230810j:plain

 

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。また訪ねて来てくださると嬉しいです。

 

 

塩田武士『罪の声』

 「晴耕雨読」ならぬ「晴歩雨読」。晴れた日はてくてく歩き、雨の日はのんびり読書。

 週末の街道ウォーク(東海道)をレポートする当ブログですが、事情により「今週のお題」&時々読書のブログになっています(汗)

 今回は「読書」です。

 

塩田武士『罪の声』 講談社

 

 第7回山田風太郎生受賞&「週刊文春」ミステリーベスト10 2016国内部門第1位という触れ込みにつられて読んでみました。

f:id:kaz-mt-wisteria:20180331005131j:plain

 

 うーん・・・どうなんだろう? 面白いと言えば面白いけど。

 

 最近の若者は(なんて言い出したらダメですが)、「グリコ森永事件」を知らないらしい。

 それは1984年、グリコの社長が誘拐されことに始まりました。2億円の身代金が要求されたものの、社長自ら脱出。ほっと胸を撫で下ろしたのもつかの間、今度はスーパーの棚に並ぶ同社の商品に青酸カリを混入したという犯行声明が届きます。ターゲットは森永製菓、ハウス食品、不二家と、次々に代わり、国民の不安はあおりにあおられ、一時期、スーパーの棚からお菓子が消えました。

 「毒を混入されたくなかったら金を払え」ということでしたが、結局のところ犯人が「身代金」を手にしたことは一度もなかったという何とも不可解な、昭和最大の未解決事件です。事件は30年を経過した2014年に時効を迎えました。

 

 最近でこそ、「グリコ森永事件? なにそれ?」という反応が返ってきたりもしますが、あの時代、物心ついていた人ならば、おそらく誰しも強烈な印象と共に記憶に刻まれているのではでしょうか。

 なぜならば、それは後に「劇場型犯罪」と呼ばれるようになった新しいタイプでアプローチする犯罪だったからです。

 「怪人21面相」を名乗る犯人グループによるふざけた口調の声明文が新聞に発表されるたびに、国民は不安に駆られ、でもどこかでこの先どうなるんだろうと興味を覚えたりもし、踊らされていることは犯人たちの思う壺であったことでしょう。「けいさつの、アホども え」などというひらがな&関西弁で始まるとぼけた感じをまとった手紙ですが、実のところ青酸混入という無差別殺人の宣言なのであり、今思えば、犯人の狡さやしたたかさが見え透いているのに、私たちは動揺し冷静さを欠いていました。

 あれはいったい何だったのでしょうか。犯人の目的は何だったのでしょうか。

 

 そこに切り込んだのが、この本です。作者の塩田武士氏は、1979年生まれ。事件当時は5歳ということで、おそらくリアルな記憶はないでしょうが、事件に強い興味を持ち、10年以上構想を温めて、事件について膨大な資料を読み込んで作品に仕上げたとのことです。

 

 「面白いと言えば面白いけど、どうなんだろう?」と書いてしまったのは、私自身がよく知っている事件で、特に目新しい印象を持てなかったからだと思います。「面白くて、読み始めたら止まらなかった」というレビューも多数あります。「グリ森事件」を知らない人が読んだら、確かに斬新で本当に引き込まれ、読む手が止まらないかもしれませんね。私の場合、おおまかな流れは知っているので、「ああ、あれは、そういうことだったのか」と深く納得しながら読みました。そういう意味では面白かったです。

 

 実際にあった事件に取材した作品ですが、オリジナリティは、事件にかかわってしまった子どもに焦点を当てている点です。一連の「グリ森事件」では、脅迫電話に「子どもの声が使われていました。この小説では主人公の男性が、実家の引き出しから、幼いころの自分の声が録音されたカセットテープを発見する場面から始まります。たわいない親子の会話を録音したものかと思ったら、それは忌まわしい事件の恐喝に使われたセリフと同じでした。改めてネットで公開されている当時の音声を聞くと、手元のテープと全く同じ、どちらのまぎれもない幼いころの自分の声。こんなとき、あななたならどうしますか?

 自分は、事件にかかわっていたのだろうか? それが事実なら、世間に知られたらどうなるのか? 大切な自分の家族を守ることはできるのか? そもそもなぜ自分が事件にかかわっていたのかもしれないのか? 両親が犯人と関係があるのか?

 さまざまな思いに押しつぶされながら真相の解明に乗り出す主人公に、好感が持てました。

 

 ページをめくる手が止まらないほど面白いわけではなかったけれど、きわめて斬新というわけでもなかったけれど、改めてあの事件を知ることができ、やはり面白い本だったと思います。

 本の中では真相が解明したことになっていますが、実際のところは謎のままです。巻末に掲載されていた参考資料、私も読んでみたくなりました。

 

 それにしても、いかにも昭和的な事件だと思いました。SNSが発達した現代では、こんな面倒な犯行声明を出すことはないでしょうし、防犯カメラがこれだけあれば、毒物混入犯の足取りを追跡することもできるでしょう。その分、犯罪はもっともっと高度になっていますが。イタチごっこです。

 

 ここまで読んでくださってありがとうございました。ぼちぼちの更新ですが、また訪ねてくださると嬉しいです。

 

 

お花見のカタチ

今週のお題「お花見」

 

 今回のお題にあたり、楽しかったお花見について、思い出のアルバムをめくってみました。

 

子どもの頃、両親と

 最初の思い出は、小学校2年生の時に両親と行ったお花見です。実家ではお花見に行くという習慣がなかったのに、なぜかその年に限って、多摩湖(村山貯水池)堤防下でお花見をしようと話がまとまったのです。しかも、当日の朝、急にです。「え? なんで?」と不思議に思ったことを覚えています。

 「両親と行った」と書きましたが、正確にはもうひとり、福岡から上京してきて家に下宿していた若いお姉さんが一緒でした。長いつけまつげにくるくるパーマの、きれいなお姉さんでした。両親がやりなれないお花見を敢行したのは、今思えば、お姉さんにちょっとサービスしたかったからかもしれませんん。

 その日は、母がサンドイッチを山ほど作りました。母はサンドイッチが好きでした。特別な時は、おにぎりよりもサンドイッチ。ゆでたまご、ポテトサラダ、ツナ、マーマレード、トマト&きゅうり・・・いろんな種類があって、私も母のサンドイッチが大好きでした。

 桜の木の下で両親とお姉さんとでサンドイッチを食べました。一人っ子の私にとって、両親以外の誰かが混ざって家族行事をするのは新鮮だったし、後にも先にも両親とお花見はこの時だけ。ここだけ切り取られたかのように、懐かしくも鮮やかな思い出として、記憶のアルバムに残っています。

 

新入社員歓迎会

 あの日は本当に寒かった。まさに花冷え。新入社員として呼ばれたお花見は、夜の洗足池でした。

 お花見と言ったって、誰も花なんか見ていません。青いビニールシートに支店の人間50人が膝を詰めて座る大宴会です。しかも微妙に小雨っぽくて、寒いのなんの。新入社員として全員の前で挨拶をしなければならないし、「よろしくお願いします」と言って、ビールをついで回らなければならないし、ついこの間まで学生だった世間知らずな私は、ガチガチでした。

 それでも、なんだか楽しかった思い出として、カウントされているのはなぜだろう? 社会人になって初めての宴会。おじさんたちとお酒を飲んだのも、初。初めての体験がお花見に重なって混とんとした挙句の果てに、緊張も薄まったような感じでした。ちなみに夜桜見物自体も、人生初でした。

 あの時、朝から幹事として奔走してくださっていた入社5年目の男性社員の〇△◇さん、お元気ですか? 定年前の偉い方になっているのかしらん。バブルは遠くなりましたね。

 

子どもと公園で

 子どもたちが小さい頃は、よく子育て仲間と公園でお花見をしました。当日はお弁当持参で現地集合です。お互いの家を行き来する延長で、場所が公園になったようなもの。お弁当を食べてしまうと、親たちはおしゃべり、子どもたちは公園で遊びます。小学生のお兄さんお姉さんたちが小さい子と遊んでくれたり、遊びの輪に入る親もいたり、のどかな時間が流れます。

 私自身は、子どもの頃、お花見に行ったことは一度しかないと書きましたが、子育て時代は毎年のようにお花見をしていました。それなのに、なぜでしょう? さっき次女に「覚えてる?」と聞いたら「全然」と言うではありませんか。 幼児の頃の記憶って、曖昧なのでしょうか。

 外でお弁当を食べていたら桜の花びらがはらはらと落ちてきて、おにぎりの上にはりつきました。かわいいねと、笑いあったシーンが、映画のワンシーンのようによみがえります。私の中では色褪せずに残っている思い出。だから、子どもたちが覚えていなくても、よしとしましょう。

 

これからやりたいお花見のカタチ

 幸せな子ども時代も、懐かしいOL時代も、愛おしい子育て時代も過ぎた今、次にやりたいお花見は・・・

 そうですね、ちょっと実現するのが大変かもしれませんけれど、日本縦断長期お花見旅行をやってみたいです。3月に九州から出発して、各地の桜の名所を追いかけながら北上し、ゴールデンウィークに北海道に到達します。お宿は安いところでいいです。高い交通機関はなるべく使わずに節約。なんせ距離も期間も長いですからね。

 題して「てくてくわくわく桜前線」というブログはどうでしょう? でもお休みを取らなければならないから、今は無理ですね。当分先になると思うけれど、あまり老いぼれないうちに実現したいものです。同行人はやっぱりくろやぎ(夫・街道ウォークの同行人)ですかね。

 

 ここまで読んでくださってありがとうございました。ぼちぼちの更新ですが、また、訪ねて来てくださると嬉しいです。

 

 

 

 

一人暮らしができないわけ

 50年以上生きてきて、一人暮らしをしたことはありません。化石か? いやいや、私たちの年代が若い頃は「女の子の一人暮らしなんて・・・」と言われる風潮がまだまだあったように思います。就活では、女子の「四年制大学卒」「浪人」「一人暮らし」は、いちいち不利でしたし、私の母親も、「結婚するまでは家にいなさい」と言いました。もちろん、一人暮らしを謳歌していた人もいたでしょうが・・・

 そう、今、一人暮らしを「謳歌」と言ってしまったように、「一人暮らし」をしている人は眩しい存在でしたし、「一人暮らし」していない自分は、半人前という微かなコンプレックスもありました。

 

 親の元を出たのは、結婚のためでした。「二人暮らし」で、親に頼っていた半人前は一応卒業です。しかし、辛かった。私は一人っ子だったので、親の元とはいえ、プライベートな空間も保障され、一人静かに暮らしていたのです。

 それに引き換え憧れの新居は、十坪のアパート。昭和30年代築で「神田川」のような世界です。♪赤い手ぬぐい、マフラーにして♪ ってあれですね。さすがにお風呂はあったので、♪横丁の風呂屋♪ に行くことはなかったですけれども、玄関ドアを開けたら、すぐ右手が台所の流し、左手が風呂場。洗面所も脱衣所もなく、着替えは台所でします。(ちなみに洗濯機は外) プライベートなし、隠れ場所もなし。相手が寝たら、電気をつけているわけにもいかず(ワンフロアーだから)、自分も寝るしかありません。しかも、私は夜型なのに! 正直に言いましょう。新婚生活は、かなり辛かった。

 この局面を打破してくれたのは、第一子の誕生でした。0歳児はすぐには寝ません。「三人暮らし」(いや、「3人家族」と言った方がいいかな)は、あっけなく夜型になりました。バンザイ。

 

 我が家は現在、夫婦2人子ども3人の5人家族です。子どもと言っても、24歳、21歳、17歳と、もう大きいので生活時間はバラバラ。晩ご飯に全員が揃うことはなかなかないし、午前様の大学生の帰りを待たずして寝てしまうことも。「うちは、ただでご飯が出てくる宿屋か? なめるな!」と思うこともあるけれど、この形態はそう長くはないことを思うと、これはこれで愛おしいかも。

 自由奔放な夢見る次女は、海の見える高台で「一人暮らし」をしたいのだとか。ああそう、自由にやってくれ。長女も「ああ、一人暮らしをしたい!」と常日頃言っているけれど、フリーターなので資金がない。お金がたまったら、出ていくのかなぁ・・・ 末っ子の高校生は、どうなんだろう? どっちみち、いつかは出ていくんだろうなあ。とすると、残るは・・・

 

 若い頃は眩しく見えた「一人暮らし」ですが、今となっては「おひとり様」の願望はありません。誰かと暮らした方が楽しいし、ボケない気がするから。若い時と違って、歳を取ると人恋しいのかも。

 それにそれに正直に言うと・・・。笑わないでくださいね。お化けが怖い。「えー、オバケ?」なんて思うでしょ? 「見たことあるの?」って聞かれますけど、見たことないから怖いんです。

 それと金縛り。あれは、お化けの仕業じゃなくて、頭は起きているのに体が寝ている状態だと理解しているんですけど(そう思わないと、怖すぎ!)、誰かに揺り動かしてもらわないと、金縛りから抜けられないんですよ。困ったもんです。

 最近、ちょっと疲れていて、昨夜も金縛りにあいました。しかも、ただ縛られただけじゃなくて、手をぎゅっと握られたようなすごくリアルな感じ。続いて枕元でピチャピチャピチャ・・・という水のような音が。なんか、怖かったんですけど。うーとか、あーとか叫んで、オットに起こしてもらいました。

 また、再び金縛りになるのが嫌で、布団を30センチ、夫側に移動しました。いつもは部屋の隅に離しているんですけどね。もはや、一人暮らしどころか、部屋で一人で眠るのも無理かもしれない。あぁ・・・

 

 一人暮らしをしている方々。私には絶対できない一人暮らし。やっぱり眩しいです。どうぞ、あれやこれやと楽しんで、素敵な日々を送ってくださいませ。

ホワイトデーって・・・

今週のお題「ホワイトデー」

 

 「ホワイトデー」というお題ですが、特に思い出もなく、書きにくいですねぇ。バレンタインデー事体、私の年代だと、小学生の頃はまだ一般的ではなかったような。ようやくバレンタインデーが定着したころに、「ホワイトデーというのがあるんだって。告白にYesの場合、マシュマロを贈るんだって!」と誰からともなく聞いて、「へぇー」と思ったのを覚えています。

 

 そもそも、バレンタインデーにドキドキしながら本命チョコを渡した記憶がない。バブルな会社員時代、女子社員から男性陣に贈ったくらいかな。くじ引きで相手を決めて決めて、一応個人から個人に贈る体裁を作って、「義理じゃないでーす!」とか言いながら渡す、あれです。チョコは、女子で同じものを一括購入しました。ホワイトデーでは、男性陣が、やはりお揃いで用意してくれたキャンディをそれぞれの女子に。今思えば、たわいない大人のごっこ遊びですね。

 

 我が家の娘たちを見る限りでは、バレンタインデーが、いわゆる「本命チョコ」を渡すドキドキイベントだったのは、中学時代まででした。狭いキッチンはチョコレート工房と化し、晩ご飯を作るスペースもなく、仕方がないのでちょっと手伝ったりもしたものです。

 もはやバレンタインデーを卒業した大学生の次女が言うことには、高校生にとってのバレンタインデーは、みんなのイベントなのだとか。確かに、彼女が高校生の時は、量産出来て、なおかつ見栄えのいいチョコレートの手作りお菓子を、大きなタッパーにいっぱい詰めて、出かけて行きましたっけ。お菓子作りにも慣れた彼女は、さほど大騒ぎになることもなく、ちゃっちゃと作っていました。それを教室で前の席から回して、男子に適当に取ってもらうのだとか。バレンタインデーの日は、クラスの女子たちが持ってきた大きなタッパーが、教室の座席の間を行ったり来たりします。

 その年のホワイトデーには、クラスの男子が、女子全員にシュークリームをプレゼントしてくれたそうです。40人のクラスで男子は7人。7人で33個のシュークリーム。男の子たちのお小遣い、大丈夫だったかな? 結構な出費だったはず。「うちらの男子、イケメン!」とか言っていたけれど、ごめんなさい。恐るべし、女子。

 

 そういえば、私も一度だけ、ホワイトデーのお返しを、買ったことがあります。

 息子が小学生の時、3つ下の学年の女の子からいただいたチョコのお返しでした。女の子は、うちのお向かいさんのお孫さんです。

 「自分で渡さないのよ。ごめんなさいね。」と、お向かいさんが、うちのベルをピンポンされましたが、息子は出てきません。いただいたチョコはかわいい手作りです。いろいろな状況から判断するに、割と本命に近いと思われました。これは、ちゃんとお返ししなくてはと、息子と買い物に行こうとしたのに、「なんでだよー」と言うばかりなので、こちらで用意しました。当日、せめてお向かいさんには一緒に持って行こうと言ったのに、やっぱり「なんでだよー」と言うばかり。仕方なく私が一人で持って行きますと、お向かいさんにもお孫さんの姿はなく、「私たち、何やってんでしょうね?」と二人で苦笑いをしてしまいました。

 

 ホワイトデーは日本発祥のイベントです。最初はマシュマロを贈るとされていましたが、80年代には、何を贈るかで、告白への返事が異なるとも言われました。キャンデーはYesだけど、クッキーは「あなたは友だち」だとか・・・ 

 時代の変化とともに、バレンタインデーが「女子から気持ちを伝えることができる日」という意味合いが薄れてくると、ホワイトデーも告白への返事ではなく、ただのお返しの日に。若い子の、お中元・お歳暮的なイベントになりつつあります。

 日本人のお付き合いにお返しはつきもの。時代が変わろうと、年代が若かろうと、日本人のDNAはそうそう変わるものでもないのですね。

 

 「てくてくわくわく」の名のごとく、当ブログ、本来は街道歩きのレポートブログなのですが、さまざまな事情が重なり、街道歩きへ出かけることが現在難しくなっています。

 事情の一つを言えば、私の母が入院しました。明日、退院となったのですが、病後のこともあり心配です。しばらく仕事帰りも休日も、実家に立ち寄ったり、心を寄せたりする日々にしたいです。当分の間、「今週のお題」と「読書」のブログになりますが、お立ち寄りくださると大変うれしいです。

 

お雛様 ぎゅうぎゅう

今週のお題「ひな祭り」

 

 こんにちは。

 ひなまつり。これを語ると子どもの頃の様々な思い出がフラッシュバックします。母も、母の母も(私の祖母ですね)、ひな祭りを大変大切にしていて、私の実家では一大年中行事でした。しかし、今日は子どもの頃の思い出を語る気分にはなれません。さらりと、我が子のことを書こうと思います。お付き合いください。

 

 我が家には3歳違いの姉妹がいます。女の子が二人。こんなとき、皆さんはひな人形をどのように用意しますか?

 母の話を少しだけしますが、母の家は戦前、東京の割と裕福な家庭だったようです。雛人形は女の子の守り神様。だから一人の女の子に、一つの雛人形。母が子どもの頃、家のお座敷には母を含む3人姉妹の雛人形のほかに、お母さん(私の祖母ですね)とおばあさん(母の父の母 つまり私の曾祖母にあたる人)のと、全部で5つの雛段飾りが並んでいました。赤い毛氈がそれはそれは華やかで、子どもながらに印象深かったといいます。すべて空襲で、一夜にして焼けてしまったのですが。

 焼けてしまったお雛様を思うと心が痛むと常々祖母は言っていました。実家でお雛様を飾ると、祖母は毎年必ず見に来てくれました。「お雛様、今年もお会いすることができました。」と話しかけながら、深々と頭を下げていた姿を、昨日のことのように思い出します。ちなみに私は一人っ子ですので、実家のお雛様はひとつ。

 

 「子どもの頃の思い出を語る気分にはなれません。」と言いながら、結構しゃべってしまいましたね。話を戻しましょう。

 「一人の女の子に一つの雛人形」。母の子どもの頃の原風景とともに、さきほどのような話をきかされていたものですから、私も女の子にはそれぞれのお雛様をあげたいと思っていました。

 ただ、「お座敷いっぱいの雛飾り」と違って、現代の住宅事情はキビシイです。長女が生まれた時の家は、6畳4畳10坪の狭いアパートでした。テレビと小さな茶箪笥くらいしか家具を置いていないにもかかわらず、布団を敷くと歩く場所もありません。茶箪笥の上にギリギリ置ける大きさの二人雛にしました。小さいけれども台座もぼんぼりも橘と桜もあります。金屏風の前にすわる木目込みのお雛様はやさしい顔立ちで、質素なアパートに、そこだけポッと春が来たようでした。1歳になったばかりの娘は、お雛様を指さして何度も「きー」と言いました。「きれいね」と言いたかったようです。

 

 次女が生まれたときは、「一人にひとつ」ということでお雛様を用意することに迷いはなかったのですが(少し広めのアパートに引っ越していたので、雛人形を2つ飾るスペースはありました。)、問題はどんなお雛様か。実は私の中では早くからイメージができていて、ケースに入った立ち雛にしました。長女と同じタイプのものでは芸がないかなと思ったのです。こちらも木目込みで、同じ職人さんによるお人形にしました。同じ顔立ちで、タイプの違うお雛様が2つ並んで、かわいさ倍増です。姉妹みたいでいいなと思いました。われながら、うまくやったなーと思ったのですが・・・

 

 次女が幼稚園の年長組の頃だったでしょうか。

 「なんでミーちゃん(仮名ですが、本人の名前と思ってください。次女は自分のことをこう呼びました。)のお雛様には、いろんなものがないの? ゆうこちゃん(姉の名前 仮名ですが)のお雛様みたいなのがほしい。」

 確かに、長女のお雛様には、いろいろなお道具がついています。小さいながら、いっぱしの雛飾り。一方次女の立ち雛は、一対のお人形だけで、お道具はなし。しゅっとした立ち姿でかっこいいと私は思っていたのですが、いかんせんシンプル。ケース入りというのも、「ほこりにならなくていいじゃない」というのは大人の目線で、いわゆる雛飾りのイメージからはちょっと離れています。

 で、私は何と答えたか。

 「そうだよね。みーちゃん、お姉ちゃんとおんなじのがいいんだね。でもほら、みーちゃんのおひなさま、かわいいお顔でみーちゃんのこと見てるよ。みーちゃんの守り神様なんだよー」

 と言ったか。いえいえとんでもない。自分の思いをこめたお雛様を「気に入らない」と言われて傷ついたダメ母は、「これがあなたのお雛様です。わがままを言うものではありません。」と言いました。ごめんなさい。

 でも、さすがにきつく言い過ぎたかと思って、ミニチュアの桜と橘を買い足しました。それを聞いて、母が、木目込み人形用の小さなぼんぼりをプレゼントしてくれました。台座は平たい箱に和紙を貼って手作りしました。ミニチュアの江戸前寿司まで入れました! 本人は、子どもがいた方がいいと言って、女の子の小さな紙人形を入れました。「これ、みーちゃんだよ。」

 ケースの中は、ぎゅうぎゅう満員のカオスです。そうなってみると、この方がよほどいいような気がしてくるから不思議です。「シンプルで、しゅっとしていていいじゃん」なんて、どうして思ったんだろう?

 

 先日、21歳になった次女と雛人形を出しました。我が家は12年前に3度目の引っ越しをし、雛人形を2つ飾るくらいのスペースは楽勝です。もしかしたら、段飾りもギリギリ行けたかも。コンパクトな2つの雛飾りは、床の間にちょうど収まります。これはこれで、完結か。

 お雛様を飾りながら、次女に言いました。

「ごめんね。小さいとき、こんなお雛様じゃヤダって言われて、私、怒っちゃったでしょう? あなたの気持ちわかるよって、言えばよかったのにね。」

「あの時のこと、すごーく覚えてる! ママにすごく怒られた。」

「怒ったというより、がっかりしたんだけどね。ごめん。」

「でもね、私、自分のお雛様、すごく好きだよ。いやほんとに。いろいろ入っていていいじゃない?」

 ・・・本当だね。これはあなただけのバージョンだよ。小さなあなたが主張して手にしたバージョン。あなたはいい味出してたよね、子どもの頃から。これからもたくましく生きて行ってほしいな。

 お雛様の思い出を語ると、何となく切ない気持ちになるのに、それをパーっと吹き飛ばしてくれる次女のお雛様なのです。たくましい次女に感謝。

 

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

 また訪ねて来てくださると幸いです。

 

 実家の母が入院してしまったので、街道ウォークはしばらくお休みします。「今週のお題」と「読書について」は続けますので、のぞいてくださると嬉しいです。よろしくお願いいたしますm(__)m

 

f:id:kaz-mt-wisteria:20180301235122j:plain

 

弥次さん・喜多さん 小田原騒動!?

f:id:kaz-mt-wisteria:20180226002157j:plain

 街道ウォークをしながら、「東海道中膝栗毛」の弥次さん・喜多さんを追いかけてきました。弥次さん・喜多さん、小田原ではちょっとばかりやらかしてくれます。さてさて、どんな騒動でしょう?

 

事の起こりは五右衛門風呂

 五右衛門風呂は、豊臣秀吉が石川五右衛門をかまゆでの刑にしたという俗説から生まれました。

 まず、粘土でカマドを築き、釜をのせ、その上に桶を取り付けるという構造になっています。直に釜に火を焚きつけるので、すぐにお湯が沸いて効率がよく、薪の節約になりました。

 直火なので鉄製のお釜の底は当然熱いです。桶には木のふたがしてありますが、お風呂に入るときはこの木蓋の上に乗って沈め、底板にしました。

 ところでこの五右衛門風呂、関西ではよくあるタイプだったらしいのですが小田原では珍しく、江戸っ子の弥次さん・喜多さんはなおのこと、入り方の作法を知りませんでした。宿屋についた二人はお風呂をすすめられ、まず弥次さんが入ったのですが、熱いお風呂の底にびっくり。さてどうしたものかと辺りを見回すと、雪隠(トイレ)用の下駄が置いてありましたので、これを履いて入浴をすませました。

 次は喜多さんの番。お風呂に飛び込んだものの、「アチチチチ」。弥次さんにどうやって入ったんだと尋ねても、「最初は熱くても我慢していればそのうち慣れてくる」と言うばかり。弥次さん、なかなか意地悪ですネ。

 それでも喜多さんは、下駄を使ったことを見破って弥次さん同様、下駄ばきで釜に入るのですが、だんだんお尻が熱くなってきたものですから、バタバタ動き回っているうちに、なんとお釜の底が抜けてしまったのです。

 ザーーーッとお湯があふれ出て、さあ大変。お釜は壊れてしまうし、宿屋の主人はカンカンです。弁償代を払うことになってしまったのです。

水風呂の 釜をぬきたる 科(とが)ゆえに やど屋の亭主 尻をよこした 

 

喜多さんの仕返し

 弁償代を払うことで話を付けたのは弥次さん。さすが年長者! と言いたいところですが・・・。

 すっかりしょげてしまった喜多さんに、弥次さんは、「まあまあ気にすんな。おまえがそんな様子だと、気の毒でたまらない。」となぐさめます。喜多さんが「何が気の毒だって?」とよくよく聞いて見れば、宿屋の女中に料金前払いで今夜の相手をしもらう約束を取り付けたことを、うれしそうに言うではありませんか。「いやぁ~、おまえには悪いけど」みたいにね。

 「そりゃないでしょ」ってわけで、しょげ返っていた喜多さんでしたが何としても邪魔してやると決心するのです。どうやって?

 喜多さんは、くだんの女中の所へ行き、「あいつはとんでもない皮膚病で移ると大変だから」とか、「臭いから一緒にいられない」とか、嘘を並べます。当然その夜は音沙汰無し。待ちぼうけを食らった気の毒な(いや、気の毒でもないですが)弥次さんは、喜多さんの仕業だとはつゆ知らず。喜多さんが詠んだ歌は

ごま塩の そのからき目を 見よとてや おこわにかけし 女うらめし

「人をだました女がうらめしい」といった意味ですが、喜多さん、しらばっくれていますね!

 

湯本までの道 箱根の山は始まっているらしい

 さて、それぞれ複雑な心持で夜を過ごした二人は、夜明けとともに宿を出発しました。以下、引用します。

けふは名にあふ箱根八里、はやそろそろと、つま上がりの石高道をたどり行ほどに、風まつりちかくなりて弥次郎兵へ

人のあしに ふめどたゝけど 箱根やま 本堅地(ほんかたぢ)なる 石高のみち

 「つま上がり」は爪先上がり。この辺りから、だんだん道が上りになっていて、そろりそろりとたどっていったと書いてあります。

 「石高道」とは、石がごろごろして凹凸の多い坂道を言います。

 「本堅地 」とは、漆器の木地面に布を張り、その上に漆を塗った最も堅くて、しかも良質な漆器の素地のことです。「箱根山」の「箱」から、本当の堅地に塗った漆器を引き出して、箱根の山道が、踏めど叩けどびくともしない堅い石高道だと言っているのです。

 なんとなくですが、箱根の山って、湯本から先辺りからかなあと思っていたんですけれど(現代人の感覚で、ケーブルカーに乗り換えるところから、みたいな)、もうこのあたりから、石がごろごろしていて(石高道)、結構な山道だったんですね。

 いよいよ、長く険しい山越えの始まりです。

 

参考

『東海道中膝栗毛』十返舎一九 麻生磯次校注 岩波書店

 

 ここまでお読みくださりありがとうございました。

 また訪ねてくださると嬉しいです。

 

 

 


にほんブログ村