街道ウォークをしながら、「東海道中膝栗毛」の弥次さん・喜多さんを追いかけてきました。弥次さん・喜多さん、小田原ではちょっとばかりやらかしてくれます。さてさて、どんな騒動でしょう?
事の起こりは五右衛門風呂
五右衛門風呂は、豊臣秀吉が石川五右衛門をかまゆでの刑にしたという俗説から生まれました。
まず、粘土でカマドを築き、釜をのせ、その上に桶を取り付けるという構造になっています。直に釜に火を焚きつけるので、すぐにお湯が沸いて効率がよく、薪の節約になりました。
直火なので鉄製のお釜の底は当然熱いです。桶には木のふたがしてありますが、お風呂に入るときはこの木蓋の上に乗って沈め、底板にしました。
ところでこの五右衛門風呂、関西ではよくあるタイプだったらしいのですが小田原では珍しく、江戸っ子の弥次さん・喜多さんはなおのこと、入り方の作法を知りませんでした。宿屋についた二人はお風呂をすすめられ、まず弥次さんが入ったのですが、熱いお風呂の底にびっくり。さてどうしたものかと辺りを見回すと、雪隠(トイレ)用の下駄が置いてありましたので、これを履いて入浴をすませました。
次は喜多さんの番。お風呂に飛び込んだものの、「アチチチチ」。弥次さんにどうやって入ったんだと尋ねても、「最初は熱くても我慢していればそのうち慣れてくる」と言うばかり。弥次さん、なかなか意地悪ですネ。
それでも喜多さんは、下駄を使ったことを見破って弥次さん同様、下駄ばきで釜に入るのですが、だんだんお尻が熱くなってきたものですから、バタバタ動き回っているうちに、なんとお釜の底が抜けてしまったのです。
ザーーーッとお湯があふれ出て、さあ大変。お釜は壊れてしまうし、宿屋の主人はカンカンです。弁償代を払うことになってしまったのです。
水風呂の 釜をぬきたる 科(とが)ゆえに やど屋の亭主 尻をよこした
喜多さんの仕返し
弁償代を払うことで話を付けたのは弥次さん。さすが年長者! と言いたいところですが・・・。
すっかりしょげてしまった喜多さんに、弥次さんは、「まあまあ気にすんな。おまえがそんな様子だと、気の毒でたまらない。」となぐさめます。喜多さんが「何が気の毒だって?」とよくよく聞いて見れば、宿屋の女中に料金前払いで今夜の相手をしもらう約束を取り付けたことを、うれしそうに言うではありませんか。「いやぁ~、おまえには悪いけど」みたいにね。
「そりゃないでしょ」ってわけで、しょげ返っていた喜多さんでしたが何としても邪魔してやると決心するのです。どうやって?
喜多さんは、くだんの女中の所へ行き、「あいつはとんでもない皮膚病で移ると大変だから」とか、「臭いから一緒にいられない」とか、嘘を並べます。当然その夜は音沙汰無し。待ちぼうけを食らった気の毒な(いや、気の毒でもないですが)弥次さんは、喜多さんの仕業だとはつゆ知らず。喜多さんが詠んだ歌は
ごま塩の そのからき目を 見よとてや おこわにかけし 女うらめし
「人をだました女がうらめしい」といった意味ですが、喜多さん、しらばっくれていますね!
湯本までの道 箱根の山は始まっているらしい
さて、それぞれ複雑な心持で夜を過ごした二人は、夜明けとともに宿を出発しました。以下、引用します。
けふは名にあふ箱根八里、はやそろそろと、つま上がりの石高道をたどり行ほどに、風まつりちかくなりて弥次郎兵へ
人のあしに ふめどたゝけど 箱根やま 本堅地(ほんかたぢ)なる 石高のみち
「つま上がり」は爪先上がり。この辺りから、だんだん道が上りになっていて、そろりそろりとたどっていったと書いてあります。
「石高道」とは、石がごろごろして凹凸の多い坂道を言います。
「本堅地 」とは、漆器の木地面に布を張り、その上に漆を塗った最も堅くて、しかも良質な漆器の素地のことです。「箱根山」の「箱」から、本当の堅地に塗った漆器を引き出して、箱根の山道が、踏めど叩けどびくともしない堅い石高道だと言っているのです。
なんとなくですが、箱根の山って、湯本から先辺りからかなあと思っていたんですけれど(現代人の感覚で、ケーブルカーに乗り換えるところから、みたいな)、もうこのあたりから、石がごろごろしていて(石高道)、結構な山道だったんですね。
いよいよ、長く険しい山越えの始まりです。
参考
『東海道中膝栗毛』十返舎一九 麻生磯次校注 岩波書店
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