秋が深まり、気持ちのいい季節になりましたね。うかうかしていると晩秋です。日暮れがどんどん早くなって、街道ウォークも「走れメロス」状態に。そんな季節に、なりましたねー。
メロスにならないように、事前チェックはぬかりなく。ということで、次回は、原→吉原です。
まず、チェックポイント(『ちゃんと歩ける東海道五十三次』八木牧夫 /山と渓谷社 で名所・旧跡としているところ)は以下の通りです。
- 西木戸(見附)跡
- 原一本松の一里塚
- 要石神社・要石
- 浅間神社
- 大通寺
- モチの木
- 浅間安鷹神社
- 桜地蔵尊
- 植田三十郎墓
- 八幡宮
- 六王子神社
- 間宿柏原本陣跡
- 立圓寺
- 男女双体道祖神
- 秋葉常夜燈
- 増田平四郎碑
- 沼田新田の一里塚
- 手指し道標
- 淡島神社
- 愛鷹神社
- 庚申堂
- 天文堀顕彰碑
- 稲荷神社
- 毘沙門天妙法寺
- 安鷹神社
25個。まあまあですね。頑張りましょう。
今回の見どころと思われるところをピックアップしてみます。
高嶋酒造
文化元年(1804)の創業です。勅使として松蔭寺を訪れた山岡鉄舟が命名した「白隠正宗」の蔵元です。現在、酒蔵の見学や店頭販売はしていないようですが、外観だけでもチェックしたいです。原駅前です。
浮島ヶ原
見どころというか、ぜひチェックしたいことと言うべきか。
広重さんのスポットをパチリしたいです。
で、それ、どこなんでしょう?
浮島沼は現在では排水路によって灌漑され、当時の面影はありません。
原一本松の一里塚の北に「浮島」という地名が残り、浮島ヶ原自然公園という湿地があります。
浮島ヶ原の湿原には、環境省レッドデータリストや静岡県版レッドデータブックに記載されている貴重な動植物が生息しています。 そこで、この湿原の貴重な植物群落と自然風景を保全し、身近な自然を観察できる自然公園として浮島ヶ原自然公園が整備されました。 サワトラノオやヒキノカサ、ノウルシなどの貴重な植物、カワセミやアオサギなどの野鳥たち、 ハラビロトンボやアオモンイトトンボなどの昆虫など、様々な動植物との出会いを楽しめる自然公園です。(浮島ヶ原自然公園のHPより)
それより西へ進んだところにある「浅間愛鷹神社」を過ぎると松林の先に東田子の浦が見えてきて、ここから北へ見上げる富士山は、四季を通じて美しいそうです。
東田子の浦には、かつて「柏原の立場」があり、浮島で獲れる「浮島鰻」が名物だったとか。
いろいろ考え合わせると、原一本松の一里塚から東田子の浦に至る道の北側がかつて浮島ヶ原といわれた場所で、この広い範囲のどこかということかなあ・・・・
「ここかな? いやいや、こっちかな?」と探しながら歩いて、もしも、「ここが広重さんのスポットですよ~」という説明板でも見つかったらいいなあ。
当日は晴れて、富士山と愛鷹山が並ぶ景色、見ることができますように。
要石神社
なんと建物はなく、鳥居と敷石を残すのみです。境内敷地内に露出している大きな石が「要石」。
大きな安山岩が露出していて、この石よりは高潮が来ないとか、安政の大地震の時は被害が少なかったといわれている。寛永の初め頃(江戸時代17世紀)一本松新田の開拓者大橋五郎左衛門が祀った。
言い伝えによると「要石は地上に顕れたる部分はわずかであるが、地中に隠れたる部分は実に大である。祠より北三町をへだてる、大橋源太郎氏宅地井戸端辺の間に広がった一面の巌石で、太古地中に大鯰が居て数々動きて地震を起こし人畜を害した、依って此の大岩石を彼の鯰の頭上に載せ以て自由に動くことが出来ないようにした。因ってこれを要石という」そうである。要とはもともと扇子の骨をまとめるための金具で、転じて、鯰の動きを押さえるのもまた要であるという意味からこの名がついた。
また、要石神社は、耳の悪い者はここに祈願して穴あきの石をあげると必ず治るともいわれている。(沼津市HPより)
浅間愛鷹神社
「せんげんあしたかじんじゃ」と読みます。結構大きい神社みたいです!
神社の前に改称記念碑があります。
浮島ヶ原を最も早く開墾したのは、遠州の浪人だった鈴木助兵衛である。同名の父、鈴木助兵衛良正が小笠郡堀田城にいた武士で、安倍郡の下足洗新田を開発した後、2代目助兵衛が天正2年(1574)頃浮島ヶ原へ来てこの地を開き、助兵衛新田と称したという。
明治41年(1908)に県知事に改称を申し出、当時この辺りでは桃をよく作っていたので桃里と改めた。この碑は、桃里改名の経緯を記し、助兵衛の功績をたたえている。愛鷹浅間神社の前に建てられている。(沼津市HPより)
せっかく開墾した助兵衛さんに、ちょっと申し訳ない気もしますが・・・
六王子神社
私は、怖い話は、すごくすごくすごーく苦手なのですが・・・
怖い話の神社として、まず上がってくるのがここ。
三股伝説の神社です。
昔、沼川・和田川・潤井川が合流し、深い淵になっているところを三股といい、龍が棲んでいて、毎年、少女がいけにえとして捧げられていました。ある年、京に向かう七人の巫女がクジを引き一番若い「おあじ」が犠牲となってしまいました。残された六人は京から戻ると悲しみのあまり浮島沼に身を投げてしまいました。この六人を祀ったのが六王子神社で、おあじは鈴川(吉原)の阿字神社に祀られています。
立圓寺
JR東田子の浦駅を出て東海道を少し西へ進むと、「正法山立圓寺」というお寺があります。
この一帯は東海道の宿場である原宿と吉原宿の中間に位置しており、間宿柏原が設置されていたと考えられる場所です。
とりわけこの場所は眺めがよく、参勤交代の行列が、休憩がてら富士山の眺望を楽しんでいたと伝えられています。
境内には一基、美しく、そして険しい富士の姿をかたどるかのような、自然石の碑が建立されています。
「望嶽碑」と刻まれたこの碑は、文化5年(1808)5月、尾張藩の典医であった柴田景浩(1745~1812)という人物が建立したものです。
医学のみならず、墨竹画にも優れていた景浩は、この地から望む富士山の美しさに感銘を受け、この碑を建立しました。
(以上、下記のサイトより引用しました。)
毘沙門天妙法寺
今を去る千年余、山伏たちが寺裏の田子の浦海岸で水ごりを取り、海抜ゼロメートルから富士山に登った禊ぎの道場でした。
三万八千坪の寺領は戦国時代に武田氏の東海道進出の砦となり、これを受けて徳川頼宣公(徳川家康側室お万様の長子・徳川御三家紀州公)が長く駐留したこともあいまって 「出世本懐の地」と呼ばれています。
主神毘沙門天像は聖徳太子の作と伝わり「太子両肩上湧現の尊像」と言って聖徳太子の肩の上に立った珍しい様式の像です。
正月のだるま市は高崎、深大寺と並んで、日本三大だるま市の一つです。境内の洞窟には、七福神が祀られています。
次回の終着地点、吉原としていますが、正確には「元吉原」で、本陣のある場所までは行きません。
吉原宿は津波被害などで、二度移転しています。最初にあったのが「元吉原」です。
元吉原はJR吉原駅周辺で、駅の南は山部赤人の歌で有名な田子の浦港となっています。
吉原宿の本陣があるのは岳南鉄道の吉原本町駅です。
街道ウォークをしていると、最後は時間が迫り、くろやぎ(同行人&夫)のスタミナも切れます。ここは無理せず、元吉原を最終地点にするのが賢明かと思います。
また、せっかく吉原宿まで歩いたとしても、吉原本町から吉原駅に出るための岳南鉄道は、本数が少ないかもしれず、帰りが遅くなってしまいます。先を急がず、JR吉原駅から、スパッと電車に乗って帰る方がいいかなと思いました。
次の次の回に、朝から爽やかに(!)、吉原駅を降りて吉原宿までの道を堪能したいと思います。
ここまで、お付き合いくださりありがとうございました。
また、訪ねてくださると嬉しいです。