晴れた日は街道ウォーク、雨が降ったら読書三昧。晴歩雨読の休日を目指して、ブログを綴っています。
間もなく梅雨入り。お天気の休日が期待できる今のうちに、東海道ウウォーキングの一つ駒を進めておきたいところです。
というわけで、次回ウォーク、どうしましょう? 前回は風祭まで歩きましたが、次はどこまで? やはり、箱根湯本から関所跡までと、関所跡から三嶋までは、ひとつのくくりとして固定でしょう。とすると次回はちょっと軽めなコースなりますが、風祭を出て湯本が終着点ですね。その先はハードそうだから、ここはゆるゆる行きますか・・・ いやいや、ここもそれなりにハードかな?
例によって、バイブル『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(八木牧夫 山と渓谷社)によるチェックポイントをピックアップします。
- 一里塚跡
- 宝泉院
- 山神神社
- 紹太寺
- 駒ノ爪橋跡
- 有料道路の碑
- 達磨大師像
- 山崎古戦場碑
- 湯本村道祖神
- 箱根温泉道
この中での見どころは 山崎古戦場の碑ですかね。
慶応四年(一八六八)五月二十六日に起こった、幕府遊撃隊と小田原藩を先鋒隊とする官軍との交戦の場に建てられた碑です。「戊辰戦争山崎の戦い」と呼ばれているものです。この一戦で、遊撃隊長の伊庭八郎は小田原藩士高橋藤太郎との一騎打ちに及んで左手を失い、高橋は討ち死にしました。
ちなみに入生田の駅を過ぎると、小田原市から箱根町になります。
ということで、箱根町や箱根町観光協会のホームページをチェックしてみたのですが、このあたりについてはほとんど触れられていなかったです。やっぱり湯本から先の石畳の道や、関所跡が観光スポットなんですね。
箱根湯本の駅の近くに箱根町郷土資料館というのがあるので入ってみようかな。
ホームページの説明によれば
当館では、箱根温泉が「七湯」であった江戸時代から、現在の「十七湯」となるまでの歴史をたどります。
湯治場から物見遊山、そして温泉観光地へという温泉の利用形態の多様化や、道路や交通機関の整備をはじめとする、さまざまな近代化の動きをご覧いただきます。
だそうです。「箱根七湯」とは、箱根の湯治場のことのようです。箱根湯本の駅の近く、箱根温泉道(箱根七湯への道)というのがあるそうなので、併せてチェック。
箱根町のホームページに「町のあゆみ」が掲載されていますので、要点を紹介します。
箱根町は、交通の要衝地として発展しました。
箱根町に人が住み始めたのは、約1万2,3千年前の先土器時代後期といわれています。
箱根山に公道が開かれるのは、鎌倉時代、湯本から三島に抜ける湯坂道が最初で、江戸時代の初期には、湯本から畑宿を経て箱根に通ずる東海道が出来ます。後世に「天下の険」といわれる箱根山の往来は困難を極めたもので、徳川幕府は箱根を自然の要塞とみて芦ノ湖畔に関所を設けます。以後、箱根は交通の要衝として、関所を中心に宿場町へと発展することになります。
一夜湯治から国際観光地へ
箱根八里と箱根関所は、旅人を随分悩ませたようですが、箱根七湯といわれた豊かな温泉は魅力でした。江戸時代後期になって、温泉場での宿泊が「一夜湯治」の形で旅人にも定着するようになると、箱根は伊勢講・富士講など、庶民の旅で大変な賑わいを見せるようになりました。
明治時代になって関所が廃止され、現在の国道1号線の原形となる幹線道路が開通します。交通が便利になるに伴って、箱根は湯治場としてだけではなく、避暑地としても有名になりました。大正時代に入ると、箱根登山鉄道が湯本から強羅まで開通します。
箱根町の誕生と発展
1889年(明治22年)に町村制が施行された際、箱根は、湯本村、温泉村、宮城野村、仙石原村、箱根駅、元箱根村、芦之湯村の1駅6村でした。その後、町制の施行や町村合併によって5か町村となり、この5か町村が1956年(昭和31年)9月に合併して現在の箱根町が誕生しました。
一方、1950年(昭和25年)に小田急線が小田原~箱根湯本間に乗り入れ、箱根は東京都心と直接結ばれることになりました。そして、昭和30年代の後半から40年代の日本経済の高度成長を追い風に、観光開発が急速に進められていきました。現在では、2,000万人もの観光客が国内外から訪れる、日本の代表的な国際観光地として発展しています。
箱根町は交通の要所であり、かつ温泉場ということで観光地としての条件も整い、発展を続けてきたのですね。
ここまで読んでくださりありがとうございました。また訪ねて来てくださると幸いです。