休日スタイルは晴歩雨読。晴れたらウォーク、雨なら読書。晴れても読書、でもいいかも。毎週金曜日は、週末の読書用に本の話題を、と思って二週目です。
次回のウォークの事前チェックをしていて、二宮駅のロータリーに高木敏子さんの『ガラスのうさぎ』の少女の像があると知りましたが、内容を覚えていないので、読んでみたのですが、どうやら今回が初めてのようでした。
この本が出版されたのは1977年だそうですが、確かにその頃、大そう話題になったことは覚えています。母親たちも、とても共感していたような。でも、肝心の当時の小学生だった私は、なんとなく敬遠してしまったのでした。
なんで読まなかったのかなあ、この本。読めばきっと、子どもなりに感じることもたくさんあっただろうなと思います。でも、大人になって戦争についていろいろ知識を得たり、親になったりしたからこそ、身につまされるくだりもたくさんありました。児童書ですが、大人が読んでもいい。40年前に出版された本ですが、今読んでもいい。そんな感想を持ちました。
この本は、高木敏子さんが子供の頃の戦争体験を綴ったものです。以下、少しだけ、内容を紹介します。
東京の本所(墨田区)に生まれ育った「わたし」(高木敏子さん)は、空襲を避けて二宮の知り合いを頼って疎開していましたが、1945年3月10日の東京大空襲で、お母さんと二人の妹の消息がわからなくなってしまいます。お父さんだけは助かったのですが、離れ離れの生活が続きました。
いよいよ、一緒に暮らせる目途が立ったのは、8月になってから。お父さんが迎えに来てくれて、お世話になった家の人に別れを告げて二人で駅に向かいます。8月5日の朝でした。
東海道のコンクリート道路の照り返しは、今日もとても暑い。父とわたしは汗をふきふき歩いた。約一年間生活したこの町とも、今日でお別れ。そう思うと、道の両側の見なれた風景が、せつなく感じられる。空を見ると空はどこまでも真っ青で、太陽がギラギラ照りつけている。
希望に向かって歩いているかと思っていましたが・・・
二宮駅の待合室は、東京や横浜方面から食糧を買いだしに来ていた人たちでごった返していました。そこへ突然の機銃掃射。「わたし」はとっさにいすの下に潜り込み、助かったのですが、お父さんは銃弾を3発浴びて亡くなってしまいます。
せつないお話です。身寄りのない13歳の「わたし」が、たったひとりでお父さんを火葬するために奔走する場面は、本当に胸が痛みます。読んでいて、はっとしたのは、「わたし」がお父さんの遺体と一緒に牛車に乗って、火葬場のある小田原に向かう場面です。
もうわたしは涙も出なかった。ただ車のギイギイ動く音をききながら、東海道の松並木を国府津、鴨宮とすぎて、大きな橋をわたっていった。
まさにこれから私たちが歩こうとしている道。「海沿いでいいところだね~」「立派な松林だね~」という感想だけではすまされないなあと思いました。
第二次世界大戦でアメリカ軍によって行われた機銃掃射は、一般人を狙った無差別攻撃です。これと同様のことが現代でも行われていることは、忘れてはいけません。
『ガラスのうさぎ』を読んで思い出した本があります。『ナビラとマララ』(宮田律 講談社)です。
パキスタンの少女ナビラさんは、2012年10月、アメリカ軍のドローンが撃ったミサイルによって祖母を失い、自分も大けがをしました。彼女は運動家でもテロリストでもなく、ただお兄さんといっしょに牛に水をやり、おばあさんは畑のオクラを摘んでいただけでしたが、ドローンに積まれたカメラを見ていたCIAは、テロリストだろ勘違いしてしまったのだそうです。
一瞬、すべてが真っ暗になりました。悲鳴が聞こえて、それがおばあちゃんのものであると思いました。でも、私にできることは走って逃げることだけだったんです。
本の中のこのナビラさんの言葉が、『ガラスのうさぎ』の二宮駅で「わたし」が見た光景に重なります。
街道ウォークは、江戸時代の旅人に思いをはせながらの「てくてくわくわく」歩きですが、関東大震災や空襲で、甚大な被害・犠牲があったことも、行く先々で語られています。追悼の心も持ちながら、歩きたいと思います。
長文をここまで読んでくださり、ありがとうございました。