てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

先取りふむふむ 平塚→大磯

 あけましておめでとうございます。本年も当ブログを、どうぞよろしくお願いいたします。

 今年1年で、どこまで歩みを進めることができるでしょうか。早く行きつきたい気持ちもありますが、ひとつひとつ丹念に観たいという思いもあります。一回のウォークで、その日の終着点に行きつくために先を急ぐか、時間を割くか、ペース配分を上手にするために事前チェックは欠かせません。

 というわけで、早速、今年初のウォーク、平塚→大磯の「先取りふむふむ」を始めます。

 

 

お菊塚

 お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の一人娘で、怪談「番町皿屋敷」のヒロインとして伝えられています。
 江戸時代から当地に伝わるお話は【お菊は、平塚宿の役人・真壁源右衛門の娘で、小町と呼ばれるほど器量の良い娘さんだったそう。行儀見習いのため江戸の旗本・青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことあって菊を斬殺したといいます。また一説によると、主膳の家来がお菊を見染めたが、菊がいうことをきかないので憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊が紛失したと告げたので、菊は手打ちにされたとも伝えられています。お菊、24歳。すみれが咲きだす旧暦2月のことだったと言います。死骸は、罪人の例にならって、長持に詰められて江戸から平塚宿まで送り返されてきました。 馬入の渡しで娘の遺体と対面した源右衛門は、「もの言はぬ 晴れ着姿や菫草」と句を詠んで悲しんだそうです。そして、先祖の墓側に埋め、処刑人の例にならって墓標をたてずに栴檀の木を植えました。】
 ここまでが言い伝えられてきたお話です。その後、昭和27年の秋、戦災地復興の区画整理のためにこの墓所が移転されることになり、空襲で焼けた栴檀のやけぼっくいの下を発掘したところ・・・やや小ぶりで歯並びの揃った頭蓋骨が出てきました。小柄で器量よしだったというお菊さんを彷彿させる頭蓋骨だったそうです。

 「お菊塚」がある紅谷町公園は、お菊さんのお墓があったお寺の旧墓域だった場所です。

 なお、この事件を伝える当時の資料は残されていません。類似した話は全国に分布して存在し、平塚のお菊の事件があったされる元文5年以前にも「皿屋敷伝説」は存在していたそうです。これらから考えると、平塚のお菊事件の実在は定かではないとも言えます。

 

 

江戸方見附跡

 現在、平塚市民センターのところに江戸方見付跡の碑が立っています。

 各宿場の両端には、城門に似た「見附」が設けられており、一般的に江戸側の出入口にあるものを「江戸見附」、京都側にあるものを「京方見附」とか「上方見附」「京口見附」と呼んでいました。
 現在、その名も見附町に復元されている「江戸見附」は、明治初期に駐日イタリア公使のバルバラーニ伯爵が母国に持ち帰った写真をもとに復元されたものです。

 長さ3.6㍍、幅1.5㍍、高さ1.6㍍の石垣が再現されています。石垣の上には竹矢来が組まれており、ここまで忠実に再現された見附は東海道には存在しません。

 なお、見附は宿の端に置かれましたが、必ずしも宿駅の境界ではなく、宿駅境界は木柱の傍示杭を建植して示しました。

 

 

八王子神社

  事前情報なし。当日のお楽しみ。

 

脇本陣跡

 脇本陣は本陣の補助的な役目をし、大名や公家の家来など、身分の高い人が利用しましたが、特権階級の宿泊のない時は農民や町民など庶民も泊まれたのが特徴です。

 

高札場跡

  高札場は幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した札を掲示した場所を言います。

 

東組問屋場跡

  問屋場は二十四軒町と西仲町にそれぞれ1カ所ありました。宿役人は問屋3名、年寄6名、帳付11名、馬指6名、人足指6名で構成され、二十四軒町と西仲町の問屋場に毎月10日毎に問屋1名、年寄1名、帳付3名、馬指2名が交替で勤めました。

 

本陣跡

 参勤交代の大名のほか勅使、宮門跡、公卿、公用幕府役人などが休泊する大旅館を本陣といいます。

 平塚宿本陣は、代々加藤七郎兵衛を名乗っていました。記録によれば、建坪163坪、座敷数が20あり、門・玄関・上段の間が取り付けられていました。他宿の本陣より小規模であったことから、主として宿泊より小休のために利用されたと考えられます。

 現在は、神奈川銀行平塚支店の一角にその史跡碑があります。

 

宝善寺

 事前情報なし。当日のお楽しみ。 

 

西組問屋場

 問屋場(といやば)とは、幕府の公用旅行者の荷物の運搬や馬の手配を取り扱う場所で、駅・役所・警察の役目も負っていました。西組は1601年に西仲町に置かれました。

 その後、参勤交代によって東海道の交通量が激増したため、平塚宿は隣接の八幡新宿への加宿を幕府に願い出て、その際、東組問屋場が、1651年に増設されています。
 西組問屋場跡地の江戸風の建物は、宿場を模して建てた消防団のものです。

平塚跡

 平塚は、なぜ平塚と呼ばれるようになったのか・・。その由来とされるのが「平塚の塚」です。
 言い伝えによると、ときは平安時代の中期、天安元年(西暦857年)のこと。桓武天皇の孫に当たる 平 真砂子(政子)というお姫さまが、京都から東国に下る途中に、この地でお亡くなりになりました。その柩を埋めて塚を作ったところ、塚の上が平らであったことから「平塚」の地名が起こった・・・というものです。
 その遺構とされる塚が、「平塚の塚」として今もあります。

 *近くにある「原田家の石造りの土蔵」要チェック

 

上方見附跡

 各宿場の両端には、城門に似た「見附」が設けられており、一般的に京都側にあるものを「京方見附」とか「上方見附」「京口見附」と呼んでいました。平塚宿では京方見附と呼ばれています。

 

花水橋

  平成の一里塚があるということですが・・・?

 

善福寺

 親鸞聖人は、度々相模国・国府津を訪れ、近隣の人々に念仏を勧められていたといわれています。その聖人が国府津に留杖の折り、教化を受けた平塚入道によって開基されたお寺です。

 平塚入道とは… 父は曽我十郎、母は虎御前 で、俗姓を曽我十郎祐成の子祐若 ( すけわか ) と言いました。父の曽我十郎が仇討ちという本懐を遂げたとき ( 『曽我物語』 ) 、すでに母である虎御前 ( 虎女 ) は懐妊中でした。そして事件のあとに生れた男の子が、祐若でした。成長して源実朝より平塚の荘を賜り、河津三郎信之と名のりました。ところがつらつら思うに、父祖いずれも天寿を全うせず悲運の最期を遂げし因縁を考えてこの世の無常を感じ出家。平塚入道法求禅門 ( ひらつかにゅうどうほうぐぜんもん ) と名のりました。この時期、親鸞聖人もたびたび国府津を訪れており、1229年、平塚入道は聖人のもとを訪ね、直ちに弟子となり「了源」という法名を賜り、母・虎御前の生地の近くであるこの地に草庵を結んだのが、善福寺です。

 善福寺では、寺伝にしたがい木造伝了源坐像を親鸞聖人坐像としてお給仕されています。開基了源の坐像。鎌倉時代後期の作です。神奈川県には寺院も多く禅宗の頂相彫刻はかなりの数が見られるが、浄土宗系の肖像彫刻はきわめて作例が少なく、本像はそうしたもののうちでも、もっとも古いものと思われ、地方作的なくずれ、肖像彫刻に多い類型化も見られない、本格的な作として貴重な例です。

 境内に岩山がありますが、そこにある横穴式古墳は縄文時代の遺跡で、現在8個残っています。 楊谷寺横穴墓と同じ7世紀後半から8世紀始め頃に造られたものだと推定されています。

 

 

茅葺の旧家

  果たして、残っているかどうか・・・?

 

慶覚院

  高麗寺の末寺で、本尊千手観音菩薩は海中より出現した秘仏と伝えられています。

 高来神社境内に、かつて大磯宿にあった慶覚院が移転していて、この慶覚院に、県重要文化財に指定された建治四年(1278)三月造立の木像地蔵菩薩坐像があります。

高来神社

 高麗神社ともいわれ、神功皇后の三韓征伐のころ、武内宿彌(たけうちのすくね)が三韓の神を移したと伝えられていますが、実際には高句麗からの渡来人が創建したと考えられています。その変遷は・・・

  717年僧行基菩薩がこの地を訪れ、高来山に登って千手観音像を本地仏として高来寺を創建したとあります。鎌倉時代になり朝鮮半島で高麗王朝が繁栄し、朝鮮を高麗と呼んでいましたが、この頃より高麗寺と呼ばれるようになりました。明治元年の神仏分離によって、高麗寺は特定の檀家を持っていなかったのと東照権現を祀ってあったため廃寺となり、お寺の一切の仏像関係は現在の慶覚院に移され、明治30年高来神社へと改称しました。

  神社入口大鳥居の右側にある 高来神社の石碑は、徳川頼倫侯の麗筆です。
 徳川頼倫侯とは・・・紀州徳川家城主、徳川茂承が高麗に土地を購入し別荘を建てたので、高麗山のふもとの人は紀州徳川家の別荘を紀州さんと呼んでいました。 頼倫侯は紀州徳川家の14代目です。

  境内には力石があります。江戸末期には大磯海岸で若者たちが集まって力競べが行なわれていました。大きい石を両腕で持ち上げる競技があり、高麗の若者が優勝しました。丸い型の大石を 女石 といい、長い方を男石と名づけています。

 境内の古木にも注目。 樹幹の心材が枯死腐朽し空洞化しているスタジイの古樹の凹部に,ヤブニッケイが密着生息しているものです。樹齢はスタジイが推定400年、ヤブニッケイは100~150年です。このような例は各種各様のものがありますが、外観が完全に一本の樹に見え、しかも違和感なく一本化した樹は大変めずらしいものです。町の文化財に指定されています。

 

虚空蔵堂

  虚空蔵と熊野権現を祀っています。ここには下馬標があり参勤の大名は東照権現が併祀された高麗寺に最敬礼をしました。

 

高来神社上宮

 平塚宿から、西の大磯宿に向かう正面に、お椀を逆さにした形のこんもりした山、高麗山(こまやま)があります。
 この山にからんで、今に伝わる「留め女」のエピソードがあります。
 「留め女」は旅籠の女中さんで、客引きもするのですが、夕刻が近づきだすと客引きをする留め女たちが旅人を奪い合う光景が宿場内でよく見られました。江戸から京へと急ぐ旅人の袖をつかんでは、 「あの山を越えないと大磯宿には行けませんよ!」と、往く手に見える高麗山を指さします。その山を見た旅人は、これは確かに越えるのは難儀しそうだと宿泊を決めるわけです。実際は、山の周りの平坦な道を歩くだけなのですが。その様子を美人画風に描いた錦絵が 歌川国貞の「東海道五十三次之内・平塚図」です(夕ぐれに提灯を手にした留め女 背景に高麗山が描かれています)。
いまも東海道から、高麗山が昔と変わらぬ風情で見えており郷愁を誘います。

 

化粧井戸 

  『曽我物語』の主人公、兄の曽我十郎の恋人である虎女にまつわる旧跡です。
 虎女は17歳で大磯の菊鶴という長者にもらいうけられ遊女になりました。 当時の遊女とは江戸時代のような零落した女性が行き着く暗いイメージではなく、むしろ知識人であり歌舞などの技芸を厳しく躾られ、時には教養も身につけた女性たちであり、神聖な存在として巫女の代わりをするようなこともありました。虎女は十郎が仇討ちの本望を遂げ命を落とすまでの2年間及び63歳で生涯を閉じるまでの晩年を大磯の地で暮らしています。その虎女が化粧をする際に使用した井戸、それが化粧坂の東海道松並木にある化粧井戸です。

化粧坂の一里塚

  化粧坂(けわいざか)の中ほどに一里塚跡があります。海側には紫梅・檀木、左側は榎が植栽されていました。

 

松林

  慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に勝利をおさめた徳川家康は、慶長6年には東海道に宿駅の制度を設け、その整備を行っています。次いで慶長9年には、36町を一里(約3.9㎞)として一里塚をつくり、街道筋にはマツやエノキなどが植えられました。大磯町内の化粧坂や中丸にあった一里塚、山王町の旧道、大磯中学校前、中丸付近の松並木はこの時に整備されたものです。一里塚や松並木は旅人の休息の場となり、旅程の目安になる大切なものでした。

 化粧坂の松並木は、いずれも見事な松で、中には海風により大きく傾斜しているものもあって、海岸の旅の厳しさを感じさせます。

 

江戸方見附跡

 各宿場の両端には、城門に似た「見附」が設けられており、一般的に江戸側の出入口にあるものを「江戸見附」、京都側にあるものを「京方見附」とか「上方見附」「京口見附」と呼んでいました。

 

日枝神社

  境内に多数の庚申塔があります。

 

三沢橋

  事前情報なし。当日のお楽しみ。

 

神明神社

  神明町の地名由来となり、神明町の氏神として信仰を集めました。

 

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。明日は、「クローズアップ! 大磯宿」をアップします。また、訪ねて来てくださると嬉しいです。

 

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【参考】

『ちゃんと歩ける東海道五十三次』八木牧夫 山と渓谷社

平塚市観光協会の観光情報サイト 湘南平塚ナビ

http://www.hiratsuka-kankou.com/guidemap.html?id=5398

平塚市ホームページ

平塚の文化財 | 平塚市

平塚市博物館ホームページ

www.hirahaku.jp

国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所ホームページ

平塚宿を歩く

大磯町観光情報サイト イソタビドットコム

http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/index.html

 


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