てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

街道ウォークのお宝 品川→川崎 ②

 街道ウォークのお宝の続きです。たくさんあるので、一日少しずつ、そうですね・・・5個くらいずつを目標にアップします。では、城南信用金庫品川支店をあとにして、南品川の商店街に入ります。

商店街の説明板

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三岳

現在、南品川2丁目の通称「三岳」と呼ばれているところは江戸時代には二日五日市村の集落のあった処で、三岳神社の近くであったことからそのように呼ばれるようになったとされています。

諸橋勇次郎 書

妙国寺

品川区指定有形文化財 説明板

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品川区指定有形文化財

所在南品川2丁目8番23号 天妙国寺

 

日什筆曼荼羅

指定 昭和58年3月12日(書籍第1号)

 縦38、横15.4センチメートル、紙本墨書、軸仕立である。中央に南無妙法蓮華経の7文字を大書し、その左右および下に、多宝・釈迦・四菩薩・日蓮など多数の諸尊名が梵字の種子で書かれている。中央下には日什(花押)の署名と年記及び受者名が記してある。

 この曼荼羅は至徳2年(1384)顕本法華宗の開祖日什が玄惠坊に授けたもので、軸裏に慶長14年(1609)日経が日什の真筆であると証明している。

 

日蓮消息文(上野女房御返事)

指定 昭和58年3月12日(書籍第2号)

 縦30.3、横39.2センチメートル、紙本墨書、軸仕立である。

 この文書は日蓮が上野(山梨県中巨摩郡櫛形町)に住んでいた南上時光の婦人(~1323)に宛てた書簡で、その内容は仏の道を説いたものである。年記はないが、署名花押は晩年の建治・弘安(1277~80)の頃の他の真筆に類似してる。曼色はかなり薄れているが、真筆を疑う余地はないようである。

 

日什諷誦文(ふじゅもん)及び置文写(おきぶみうつし)

指定 昭和58年3月12日(書籍第3号)

 天地35.9、長さ260センチメートル、紙本墨書、巻子(かんす)仕立である。

 諷誦文は死者追善の法会に、その意趣を記して読み上げる文、置文は自己の意思を後の人に伝えるために書いた文である。

 この諷誦文は、嘉慶2年(1388)8月、顕本法華宗の祖日什が弟子の日妙の一周忌法要に読み上げたもので、著作の残っていない日什の教節を知り得る唯一の資料として貴重である。また置文は、日什が弟子たちに示した心得二カ条から成る。

 奥書によれば、寛永14年(1637)日業が京都の寂光寺所蔵の日什の自筆本を写したものとなっている。

 天妙国寺顕本法華宗に属する大寺で、弘安8年(1285)日蓮の弟子天目上人が開いた寺である。

平成13年3月30日 品川区教育委員会

妙国寺五重塔礎石 説明板

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品川区指定有形文化財
妙国寺五重塔礎石

所在 品川区南品川1丁目8番地23号 平成21年11月25日指定(歴史資料第5号)

 天妙国寺五重塔は15世紀中頃に建立されました。その後、慶長19年(1614)秋に、大風のために倒壊。寛永年間に修復されたのですが、元禄15年(1702)の四谷塩町より出火した大火によって焼失したと伝えられています。五重塔は「妙国寺絵図」にも描かれています。

 五重塔には一本の心柱(しんばしら 塔の中心の柱)と16本の柱ががあり、それぞれの柱には礎石と呼ばれる大きな石の上に建てられます。特に心柱を受ける石を心礎といいます。中央にくぼみのある石が当時の五重塔の柱の礎石です。3個のうち中央の花崗岩製の礎石が心礎と考えられます。

 なお、この礎石は後世に移されていて、五重塔のあった場所は不明です。

平成22年3月15日 品川区教育委員会

釜屋跡

釜屋跡説明板

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江戸幕府御用宿 釜屋跡

 南品川には旅人が休息する「立場茶屋」が数多くありました。江戸に最も近い品川宿は、江戸を立つ旅人達を見送る為の宴会の場であったり、また参勤で江戸に入る大名が、旅装束から江戸屋敷に入る支度を整える場所でもあり、大変賑わいました。

 中でも品川寺門前の「釜屋」は、海をのぞむ風光明媚な茶屋であり諸大名にも愛され、料理を供するようにもなりました。慶応3年(1867)には「幕府御用宿」として、多くの幕臣達が東海道を上下するために利用しております。

 同年10月21日、新選副長・土方歳三と副長助勤・井上源三郎が、新入隊士や故郷の支援者達、計31名で休息した記録が残されております。

 また、慶応4年正月12日~23日、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸に戻った新選組の「品川屯所」となっておりました。

 この品川の地で、幕末の風を感じてくだされば幸いです。

平成29年(2017)9月吉日

青物横丁商店街振興組合 新選組研究家 汐海珠里 撰文

海雲寺 千体荒神

千躰荒神堂奉納篇額 説明板

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品川区指定有形民俗文化財 千躰荒神堂奉納篇額

所在 南品川3丁目5番21号 海雲寺

指定 昭和60年3月14日(有形民俗第16号)

 千躰荒神王は、火と水の神として、また台所の神としても有名である。

 堂内に懸けられている篇額は信徒の奉納によるものであり、全部で27面ある。文字額及び雌雄二鶏図が多く、格天井の中心に龍の図が描かれている。

 文久9年(1861)作の雌雄二鶏図は、ガラスの上に彩色された貴重な資料であり、また、昭和10年に奉納された浪曲家廣澤虎造夫妻による文字額もある。

平成14年3月28日 品川区教育委員会

海雲寺境内 お台所の守護神について説明板

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お台所の守護神

品川千躰三宝荒神の由来

古くからお台所に荒神様をお祀りする習わしがございます。荒神様はお台所で一番大切な火と水をお守りくださる神様であります。それでお台所に荒神様をお祀りすれば一切の災難を除き衣食住に不自由しないとされています。品川の千躰荒神は江戸時代から竈の神様 台所の守護神として多くの人から信仰されてまいりました。今を去る300余年前の島原の乱に鍋島甲斐守直澄公がお年18歳で出陣なさいましたが肥後天草の荒神が原にありました荒神様にお詣でになり必勝祈願をなさって出陣なさいました所 甲斐守様の先頭には必ず千余の神兵が現れその行動は荒神王の荒れさせ給うはかくやと思われるすさまじさで流石の暴徒も敵しえず鎮定しました。以後鍋島家ではこの尊像を守護なさいまして東京都高輪二本榎の別荘に遷座し篤い信心のもとにお祀りしてありましたものを因縁あって昭和7年寅3月に当山に勧請し奉ったものであります。それからはあらゆる階層の人々の参詣も多くなり ついに江戸年中行事の一つにもなりこの尊像を信仰する人々の受けました霊験利生は数えきれないものがあります。

尚、千躰荒神王縁起を別に印刷用意してありますからご入用の方はお申し出下さい。

 

今日はここまで、いったん終了しいます。お付き合い、ありがとうございました。