てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

街道ウォークのお宝 品川→川崎 ①

 街道ウォークのお宝は、てくてく歩いてパチリした説明板や碑文の数々。現地でしか得られない情報が載っているかもしれないし、何より自分の足でてくてく歩いて集めた情報だから。

 そういうわけで今回も、「第2回東海道五十三次ウォーク 品川→川崎」のお宝を、毎日(たぶん)、少しずつアップしますので、どうぞお付き合いください。

八ツ山橋

八ツ山橋の上にあった「旧東海道品川宿」についての説明碑

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旧東海道品川宿

江戸と上方を結ぶ重要な交通路である東海道に宿場が初めて設置されたのは慶長6年(1601)のことです。全国的な交通網を整備しようとする徳川家康の計画によるものでした。すでに江戸時代から北品川と南品川の両宿があったのを江戸幕府が新しく設定しました。のちに、北品川宿の北、高輪寄りに茶屋や旅籠屋が延びていき、享保7年(1722)には歩行新宿の成立を見るにいたり、この三宿品川宿といいました。日本橋から京に至る東海道五十三次の第一番目の宿場として大変賑わったといいます。

土蔵相模跡

土蔵相模跡説明板

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土蔵相模跡

旅籠屋を営む相模屋は、外壁が土蔵のような海鼠壁だったので「土蔵相模」と呼ばれていました。1862年文久2)品川御殿山への英国公使館建設に際して、攘夷論者の高杉晋作久坂玄瑞らは、この土蔵相模で密議をこらし、同年12月12日夜半に焼き討ちを実行しました。幕末の歴史の舞台となったところです。

 

品川宿について説明板

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 品川宿の今昔

 この辺りは江戸の昔、「東海道五十三次 一の宿」として、上り下りの旅人で大変にぎわいました。また、海が近く漁業もさかんなところでした。今でも神社仏閣が多く、当時の面影がしのばれます。

 [品川橋]は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ江戸時代には[境橋(さかいばし)]と呼ばれていました。また別に[行合橋(ゆきあいばし)][中の橋(なかのはし)]とも呼ばれていたようです。最初は木の橋でしたが、その後石橋になり、そしてコンクリート橋から現在の鋼橋へと、時代の移り変わりとともに、その姿を川面に映してきました。[品川橋]がこれからも、品川神社荏原神社のお祭りである、「天王祭」のにぎわいとともに、北品川・南品川の交流と発展を深める「かけ橋」として、皆様に親しまれることを願っています。

平成3年4月1日 品川区

荏原神社

荏原神社境内石碑

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明治天皇荏原神社

内侍所御奉安所史跡

明治元年7月27日明治天皇江戸を東京と改め帝都を東京に移すと詔す。この年9月29日天皇内侍所(今日の宮中賢所)を相具し奉りて京都御発輩諸宮3300人を従えて陸路東海道を東京へ向かわれた。下って10月12日朝神奈川駅御発輩川崎梅屋敷にて御小憩の後午後3時頃当荏原神社に御着輩本社弊殿に内侍所を拝殿に御羽車を御奉安遊ばされた。翌明治2年3月27日明治天皇後再興の節も内侍所を当社に御奉安せらる。この両度の内侍所御奉安に使用せられた建札はじめ菊花御紋章の高張提灯その他調度品を当者の御下賜せられ今日ここに至るまで用いられている次第である。明治5年京都に在せし英照皇太后東京へ行啓の際明治天皇は御出迎えのため御通輩の途次当社をもって御休憩に充てられし事は重なる光栄とするところである。

荏原神社社史より

 

脇本陣

脇本陣跡説明板

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東海道 品川宿

之より南 品川宿

 日本橋から東海道を上り、目黒川を渡ると南品川宿に入ります。

 この流れの場所は脇本陣跡(現城南信用金庫)で、百足屋(広領)治兵衛が営んでいました。

 品川宿を南北に分けていた目黒川は、大正時代末頃まで大きく蛇行し、荏原神社の北側を流れていました。

 東海道から神社への道を天王横町といい、今の鳥居の向きから往時を推定できます。

 東海道を南に進み、先に見える信号の左角が継立業務等を行う宿場の役所問屋場(といやば)跡(現、製菓実験社)で、その後、同じ建物内に人馬の荷の重さを検査する貫目改所(かんめあらためどころ)も設けられました。

品川宿場通り南会

城南信用金庫品川支店