街道ウォークの準備をしていて、どんなガイドブックを見ても、それ以上詳しい説明に行き当たらず、もやもやすることってありませんか? 現地で説明板を前にしたとき、あんなにもわからなかったことが、詳しく書いてあって、ちょっと拍子抜けすることも。自分の足で歩いて手にした情報は、街道ウォークのお宝です!
チェックポイントにしている旧跡などに建っている碑や説明板を、できる限りパチリするようにして、紹介していきたいと思っています。たくさんあるので、一度にできず少しずつになるかもしれませんが。
とりあえず、日本橋→品川ルートについて、順を追って掲載します。
1.日本橋
日本橋がはじめて架けられたのは徳川家康が幕府を開いた慶長8年(1603)と伝えられています。幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕府の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。
現在の日本橋は東京市により、石造二連アーチの道路橋として明治44年に完成しました。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある日本国道路元標は、昭和42年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同47年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
平成10年に照明灯装飾品の修復が行われ、同11年5月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保管しています。
平成12年3月
2.江戸秤座跡
江戸秤座跡
江戸幕府は、秤量の基準統一を図るための秤役所「秤座」を設置しました。そして、秤の製作・販売・修理・検査などの独占権は、江戸秤座の「守髄家」(しゅずいけ 東国三十三か国)と京都秤座の神家(じんけ 西国三十三か国)に分掌させ、全国の権衡制が統一されました。
甲斐武田の家臣として秤の製造を生業としていた守髄家は、徳川家康の関東入国とともに江戸へ出て、家康の許可を得て幕府公認の秤商となりました。その後幕府は承応2年(1653)に江戸・京都の両秤座を定め、江戸幕府は御用商人であった守髄家が任にあたりました。
江戸秤座の場所は、京橋の具足町(現在の京橋3丁目)に設置された時期もありましたが、江戸後期から明治8年(1875)の度量衡取締条例による秤座廃止まで、箔屋町(はくやちょう 現在地である日本橋3丁目)の地に置かれていました。
当地は江戸時代の度量衡に関する重要な史跡として、中央区民文化財に登録されています。
平成27年3月
3.ヤンヨーステン像 碑文
ヤン・ヨーステン 1557頃~1623
1600年(慶長5年)オランダ船リーフデ号でウィリアム・アダムスらと豊後に漂着した。そのまま日本に留まり、徳川家康の信任を得て、外交や貿易について進言する役目についた。彼の家屋敷は現在の和田倉門₋日比谷間の内堀の沿岸に与えられ、この地が彼の名にちなんで八重洲河岸(やよすがし)と呼ばれて、明治まで続いた。現在は中央区の八重洲としてヤン・ヨーステンに因む地名が残っている。
ヤン・ヨーステン像 オランダ人 L.P.プラート作
4.史跡江戸歌舞伎発祥の地 碑文
寛永元年2月15日元祖猿若中村勘三郎中橋南地と言える此地に猿若猿若中村座の芝居櫓を上ぐ これ江戸歌舞伎の濫□也 慈に史跡を按し□石を鎮め國劇歌舞伎発祥の地として永く記念す
昭和32年7月
江戸歌舞伎旧史保存會
5.銀座
◆煉瓦銀座の碑 碑文
煉瓦座銀座の碑
明治5年2月26日(皇紀2532年 西暦1872年)銀座は全焼し延焼墓地方面に及び焼失戸数四千戸と称する
東京府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企測建築し政府は国費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す
煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街の濫□となりたり
昭和31年4月2日
◆煉瓦とガス灯 説明文
煉瓦とガス燈(1987年記)
明治初期我が国文明開化のシンボルとして銀座には煉瓦建築がなされ、街路照明は、ガス燈が用いられた。
床の煉瓦は、最近発掘されたものを、当時のままの「フランス積み」で再現。ガス燈の燈柱は明治7年の実物を使用、燈具は忠実に復元。
◆銀座発祥の地(銀座役所跡) 碑文
慶長17年(紀元2272年 西暦1612年)徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す 当時町名を新両替町と称せしも通称を銀座町と呼称せられ明治2年遂に銀座を町名とする事に公示さる
昭和30年4月1日建之
銀座通聯合会
6.芝口御門跡 説明板
芝口御門跡
所在地 中央区銀座8-8・9・10付近
ここの南方、高速道路の下には、もと汐留川が流れ、中央通り(旧東海道)には、昭和39年まで新橋が架かっていました。
宝永7年(1710)、朝鮮の聘使の来朝に備えて、新井白石の建築にもとづきわが国の威光を顕示するため、この新橋の北詰に、現に外桜田門に見られるような城門が建築されて、芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と改称されました。
城門は橋の北詰を石垣で囲って桝形とし、橋のたもとの冠木門から桝形に入って右に曲がると、渡櫓があって堅固な門扉が設けられていました。しかしこの芝口御門は建築後15年目の享保9年(1724)正月に焼失して以来、再建されず、石垣も撤去され、芝口橋は新橋の旧称に復しました。
昭和52年10月
7.銀座柳の碑
8.芝大神宮の力石
東京都港区指定文化財
有形民俗文化財 芝大神宮の力石
力石は重い石を持ち上げて「力競べ」や「曲持ち」を行った際に使用した石である。特に、江戸時代後期の文化・文政期には、職業的な力持ち力士による興行が行われるようになった。芝大神宮の力石は「五十貫余」の切付とともに、「川口町 金杉藤吉」の名前がある。これは明治時代に活躍した有名な力持ち力士のひとり、芝金杉川口町の山口藤吉(慶応3年生)、通称「金杉の藤吉」のことである。芝大神宮で力持ちの興行が行われた時、金杉の藤吉がこの石を片手で差し上げたと伝えられている。
港区内には全部で14点の力石が確認されているが、こうした力持ち力士の伝承がともなっているのはこの芝大神宮の力石のみであり、都市の力石の民俗を知る資料として貴重なものである。
平成7年9月26日
東京都港区教育委員会
8.浜松町の由来
浜松町 町名の由来
武蔵野の東南端、広く海に面したこの辺りは、その天然資源も豊かなる為、古くより人間生活が営まれ、古墳時代の遺跡として今も芝公園台上に残る、大古墳跡に見られる如く集落を形成。漁業を中心とする活動が盛んであったと思われ、その関係か古く由緒ある社寺(芝大神宮等)が近隣に現存する。その後乱世を迎え太田道灌、平川城(江戸城の前身)を築く頃には、町らしき形態に成ったものと考えられ、天正18年(1590)徳川家康の江戸城入城を見、城下町計画に着手。慶応3年(1598)その菩提寺増上寺を麹町より現在地に移転、更に武家を中心に町年寄、特権商人、地元住民による東側海岸地帯の埋立工事完成。慶長6年(1603)東海道を現国道10号線上に定め、此の東西両側には日常生活用品から産業用資材まで各種商人が軒を連ね商業地域の中心となり、その両後背に大名屋敷が並ぶ江戸の町が出現した。当時此の町は増上寺代官と兼任であった。名主奥住久衛門の支配下で「久衛門町」と呼ばれ、元禄年間には遠江(静岡県)浜松出身の権兵衛と言ふ名主と交替した事により、これ以後「浜松町」と改名され、明治、大正、昭和、平成と受け継がれ現在に続いている。江戸では歴史ある数少ない「古町」のひとつである。
尚、当町内には多くの史跡、旧跡(慶応義塾跡、新銭座跡、東京市□□庫第1号跡)等が点在している。
(文責)加藤辰太郎
9.勝・西郷会見の地
田町薩摩邸(勝・西郷の会見地)附近沿革案内
この敷地は、明治維新前タ慶長4年3月14日幕府の陸軍総裁勝海舟が江戸100万市民を悲惨な火から守るため、西郷隆盛と会見し江戸無血開城を取り決めた「勝・西郷会談」の行われた薩摩藩屋敷跡の由緒ある場所です。
この屋敷の裏側はすぐ海に面した砂浜で当時、薩摩藩国元より船で送られてくる米などは、ここで陸揚げされました。
現在は、鉄道も敷かれ(明治5年)更に埋め立てられて海までは遠くなりましたが、この付近は最後まで残った江戸時代の海岸線です。また人情噺で有名な「芝浜の革財布」は、この土地が舞台です。
10.札ノ辻 説明板
札の辻
江戸時代のはじめ、ここに高札場が設けられて、有告法令などが掲示されたところから、札の辻と呼ぶようになりました。元和2年(1616)には、芝口門をここに建てて、江戸正面入口としての形式を整えました。この門は「日暮御門(ひぐらしのごもん)」といわれましたが、これはこの東がすぐに江戸湾に接し、海を隔てて房総の山々を望む、一日眺めてもあきない景色であったためといわれています。
その後高札場は、天和3年(1683)に南方の高輪(後の大木戸の場所)に移されました。また、宝永7年(1710)に芝口門は新橋北側に建替えられ、ここは「元札の辻」と呼ぶようになりましたが、明治維新後はまた「元」を略して「札の辻」と呼んでいます。
昭和52年1月(平成17年12月建替)
港区教育委員会
11.元和キリシタン遺跡
都旧跡 元和キリシタン遺跡
所在指定 港区三田3丁目7番 昭和34年2月21日
徳川3代将軍家光が元和9年(1623)10月3日、江戸でキリシタンを処刑したことは徳川実紀によって知られている。処刑された者はエロニモ、デアンゼルス神父、シモン、遠甫、ガルウエス神父、原主水ら50人で、京都に通ずる東海道の入り口にある丘が選ばれたと、パジェスの「日本キリシタン史」にあるが、その他はおそらく元の智福寺のあった西の丘の中腹の辺であろうと考えられる。その傍証としては智福寺開山一空上人略伝記にこの地が以前処刑地で長い間空き地となっていたが、そこに寺を建てることは罪人が浮かばれると考えたとあることなどがあげられる。
なお、寛永15年(1638)12月3日にも同じ場所でキリシタンらが処刑されている。
昭和43年3月1日 建設 東京都教育委員会
12.高輪大木戸跡
史跡 高輪大木戸跡
所在地港区高輪2丁目10番 指定 昭和3年2月7日
高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永7年(1710)に芝口門に建てられたのが起源である。享保9年(1724)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永7年説・寛永4年(1792)など諸説がある。
江戸の商の入り口として道幅約6間(約10メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。
天和2年(1682)には、札の辻(現在の港区芝5-29-16)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰、常盤橋外、浅草橋内、筋違橋内、半蔵門外とともに江戸の6大高札場の1つであった。
京登り、東下り、伊勢参りの旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。
江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅5.4メートル、長さ7.3メートル、高さ3.6メートルの石垣のみが残されている。
四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。
平成5年3月31日建設
東京都教育委員会
13.高輪海岸の石垣石 説明文
高輪海岸の石垣石
ここに展示されている石は、江戸時代に高輪海岸に沿って造られた石垣に用いられたものです。
平成7年(1995)、高輪二丁目20番の区有施設建設用地内の遺跡の発掘調査で出土しました。
石垣には、主に相模湾から伊豆半島周辺で採石された安山岩が用いられました。
発掘調査では3段の石積みを確認しましたが、最上段は江戸時代の終わり頃に積み直されたものと考えられます。正面の小ぶりの石が積み直されたものです。3段目から下の石垣は現地でそのまま保存されています。
平成13年(2001年)5月
港区教育委員会