てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

第28回ウォーク 丸子→岡部②

 街道ウォーク丸子→岡部の後半です。前半については、こちらをご覧下さい。↓

 

www.lupinus-shiroyagi.com

 

 さて、宇津の谷峠の入り口、なんともいやーな感じだったのですが、意を決して足を踏み入れました。街道から外れるわけにはいきませんから・・・

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 以下、チェックポイントにそって記述いたします。

馬頭観音

  峠入り口すぐにあったはずの馬頭観音、見逃しました。暗くて草ぼうぼうの山道を引き返す気になれず、あっさりチェックを断念しました。何を隠そう、私は「草木恐怖症」(そういうものがあるのかわかりませんが)です。葉っぱとか藪とか苦手で、頭がキーンキーーンとするんです。今回に限らず、藪の奥に足を踏み入れるチェックポイントの写真撮影は、くろやぎ(同行人&オット)に頼んでおります。

お弘法さん

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 祠の中に弘法さまが安置されているとか。この先40メートルとありますが、恐怖症なのでやめておきます。

 この脇道の先にあるらしい・・・ とても無理。

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雁山の基

 山口素堂に俳諧を学んだ俳人・雁山(がんざん)という人のお墓?だそうです。これが? 小さいけど。

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 説明の碑文です。享保の俳人なのですね。どうやら、本当にお墓らしい。失礼しました。


地蔵堂跡

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 地蔵堂跡の石垣の説明文ですが、石垣の写真はありません。石垣、あったのか。恐怖症のため、道をあるくのが精いっぱいでありました。

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 地蔵堂跡の説明文です。

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 江戸時代末期の河竹黙阿弥による歌舞伎の演目「蔦紅葉宇都谷峠」の舞台となったところです。

 姉が自ら身売りして用立ててくれた百両の大金を持って京へ向かう按摩の文弥。借金の返済に奔走する伊丹屋十兵衛。ともに丸子宿に泊まります。文弥が大金を持っていることを知った十兵衛は昼なお暗い宇都谷峠に誘い出し、この地蔵堂の前で殺害しました。何とも気持ちの悪い場所ですね・・・

宇津ノ谷峠

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 峠の看板です。この辺りが一番高いのでしょうか。それまでのうっそうとしたところから、やや開けた感じになり、ちょっとほっとしました。

 ちなみに、この道は、天正17年(1589)、秀吉が小田原攻めの時に大軍を通すために峠を開削したのが、後に東海道になったのだそうです。こんな狭い山道が街道だなんて。過酷な旅ですね。

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 さすがに、明治になると、この下にトンネルが掘られたのですね。

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髭題目碑

 ようやくここまで来ました。苦手な草ぼうぼうの山道、もうすぐおしまい。

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 題目碑についての説明碑、アップします。

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 髭のようにツンツンはねた字体で「南無妙法蓮華経」と刻まれ、旅の安全と、世の平和・豊作を願っているのだとか。ありがたや。

 

 この辺りの東海道について、説明板です。別名を大名街道と言ったそうです。

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 険しい峠道が、参勤交代の行列で賑わったのですね。

坂下延命地蔵堂・鼻取地蔵

 山道から舗装道路に合流しました。左側が歩いてきた峠道、右側が「蔦の細道」に続く道です。「蔦の細道」は、東海道以前の峠越えの道です。

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 坂下地蔵堂についての説明碑をアップします。元禄13年(1700年)に再建」されたものだそうです。地蔵尊は峠越えをする旅人の安全を守り、地蔵堂の前の木陰は旅人の疲れを癒したとのこと。確かに、現代ですら暗く寂しかった峠道。地蔵堂があったのは心強かったことでしょう。

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 ここに伝わる伝説「鼻取地蔵」は、バイブルのガイドブック(『ちゃんと歩ける東海道五十三次』八木牧夫 山と渓谷社)によれば、全く動かない牛を、地蔵が子どもに化身し、牛の鼻を引いて動かしたという・・・

 

 ところでこの場所は、安藤広重の「東海道五十三次」岡部宿のスポットなのでないかと思われます。はっきりと断定できるような説明板等は見つかりませんでしたが。

  

 こちらが広重さんの浮世絵。険しい山間の道が二手に分かれ、右側に川が流れています。

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 こちらがスポット思われる場所。左が東海道。右が蔦の細道。写真ではわかりませんが、右側には川が流れていました。後方の山の形も、広重さんの画と似ていませんか? いかがでしょう?

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 峠道を後にして、国道1号線の歩道を歩きます。

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 歩道橋で、国道1号線を横断します。

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 国道を後にして、再び静かな旧道に。

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 大旅籠柏屋の案内表示に、ゴールが見えてきた気分。ガンバレガンバレ。

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十石坂観音堂

 削られた崖の上にあります。ボーっとしていると通り過ぎそう。(実際通り過ぎてしまって、戻りました。)

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 お堂の中に、家康から四代将軍家綱までの位牌が安置されているそうですが。岡部町指定文化財です。

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 観音堂についての説明板をアップします。

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 入母屋造りの瓦ぶきの観音堂で、江戸時代のもの。手の込んだ細工が施された格子。なかなかのものらしい。ひっそりと崖の上に立っているお堂なのに、実はすごいらしい。中にある二基の厨子もすごいらしい。びっくり。

 

 お堂の脇に並ぶ石も、存在感があったので説明板とともにアップします。

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桝形跡

 この辺り、枡形跡らしいですが、いまひとつピンときません。

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 枡形は、敵が宿場に侵入しにくいように、わざと道を直角に折れ曲がらせているところを言います。

 説明板によれば、木戸と番小屋があって、木戸番が朝晩、木戸を開け閉めしていたそうです。

 コロナ禍の今なら、体温チェックと手指の消毒か・・・?

小祠

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 小祠の脇に、常夜燈もあります。

西行笠かけ松

 旧道は右手の細道へ。西行の笠かけ松について説明板がありましたが、読みづらいですね。一応アップします。この右手の山(というか丘)のどこかに、松がありましたが枯れてしまい、今では松があったとされる根元に、西住基という石基があるのみ。

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 しばらく行きますと、このような説明板がありましたこちらの方がわかりやすいかも。

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 西行笠かけ松とは・・・

 ともに旅をしていた西行と弟子の西住でしたが、あるとき西行に暴力が振るわれたことに腹を立てた西住が、相手を杖で殴ってしまいます。西行は仏に仕える身として耐えることの大切さを説き、西住を破門します。

 西住は師の後を追いますが岡部で力尽き、辞世の句を書いた笠を、最後に体を休めた松にかけ息を引き取ります。

 旅の帰路、岡部を訪れた西行は、西住の笠を見つけて深く悲しみ歌を詠みました。

笠はあり その身はいかになりならん あわれはかなき 天の下かな

三星寺

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 ガイドブックにチェックポイントとして載っている「三星寺」ですが、断定できるお寺は見つかりませんでした。位置的におそらく(十中九)、この建物だとは思います。建物にお寺の名前は、どこにも出ていませんでした。

専称寺

 あ、こちらはしっかり「専称寺」と掲げられていますね。ありがたや。

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 西行の座像(江戸時代後期のもの)と、鎌倉時代の不動尊像があります。説明板をアップします。大変わかりやすかったです。

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 もっとも中にはおいそれとは入れる雰囲気ではなかったので、門からの撮影で引き返しました。

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 このお寺は、旅人にすえるお灸で有名で、今でもやっているとのこと。駐車場の看板を見て、なるほどと合点。

大旅籠柏屋

  いよいよ岡部宿の本陣のある通りまでやってきました。今回のウォークのゴール(最終ポイント)です。

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 大旅籠柏屋は、資料館になっています。

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壁面の表示。たくさん宿場が掲げられているけれど、よくまあここまできたもんだと、感慨ひとしお。早速中に入ってみましょう。

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 中では、弥二さん喜多さんがお食事中です?

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 資料館内のパネルをアップさせてください。柏屋のもともとあった建物は天保5年に火事で焼けてしまい、天保7年(1836)に再建され今に至ります。(随分古いですね。びっくり。)明治になると、質屋や郵便局などに使われたとのことです。

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 展示パネルに宿で出された食事の再現があっておもしろかったので、パチリしてしまいました。質素だけどバランスよく、胃もたれしなくて、いいかも

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 東海道での各宿の食事についてのパネルも面白かったです。大阪の豪商の升屋平右衛門山片重芳という人の日記によるらしいです。昔から、まめに記録する人って、いたんですねー。さて、どこのお宿の食事がいいですかね? 由比なんかよさそうですね! タンパク質多め。

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 柏屋は国の登録有形文化財に指定されています。住宅として使われていたものを、1998年に大規模改修したとのこと。改修工事の際、解体して道路から少し下げています。そのため、もともとは庭にあった井戸が、土間に位置しています。

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本陣跡

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 柏屋に隣接する本陣跡です。立派な門に、往時がしのばれます。中は広大な芝生広場になっていました。お休み処もあり、現代でも旅の疲れをいやすことができるようになっています。

 ・・・なのですが、現在はコロナ禍のため、県外の人は利用できないようになっていました。昼食を食べる機会を逃し、ここで一息入れたいところでしたが、そのままバスで帰りました。(泣) 仕方ないですね。

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 静岡駅に尽きました。次回もここから岡部宿までバスに乗り、藤枝宿を目指します。

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 ここまでお付き合いくださりありがとうございました。

 

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第28回ウォーク 丸子→岡部①

 お久しぶりです。

 そしてこれまた大変久しぶりに(なんと、7か月ぶり!)に街道ウォークをしてきました。日々の雑事に取り紛れ、歩いた日から3週間近く経過してしまいましたが、記憶をたどりながら、書いていきます。お付き合いください。

 

 9月21日(月)敬老の日、午前9時に静岡駅に到着しました。9月の四連休、前半は晴れが期待できませんでしたが、この日はお天気が快復し、ウォーク日和でありました。

 

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 丸子宿へ行くバス乗り場です。9時18分の藤枝駅行きに乗りました。バスの車中では、車窓を眺め、前回のウォークを懐かしく思い出しました。「あ、ここ、通ったなあ・・・」「トラヤのおばちゃんや、ネーブルのおばちゃんは元気かなあ・・・」などなど。

 

 「丸子橋」に下車。とろろ汁の「丁子屋」です。

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 こちら2月の写真。冬なのに、こっちの方が明るいですね・・・ 日差しの温かい日でした。

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 あの時は、河津桜が咲いていましたが

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 このようになっておりました。

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 まだあの頃は、コロナでここまで影響を受けるとは想像していなかったし、マスクが売りきれてるとか、なんだかんだありましたけれど、どこかのん気でありました。今回は、GO Toキャンペーンも東京除外の時期でして、本当は時期尚早だったのかもしれません。ごめんなさい。

 

 前置はこのくらいにして、出発です。このウォークでは、バイブルにしていますガイドブック『ちゃんと歩ける東海道五十三次』(八木牧夫 山と渓谷社)で名所・旧跡としているところをチェックポイントとしてたどることにしています。なので、ブログ記事も、チェックポイントについて報告をします。

 ところで、『ちゃんと歩ける東海道五十三次』については、2019年3月に新版が出ていることに今回気が付きましたが、旅の計画段階では旧版を使っていましたので、記事も今回までは旧版を元に書きます。

 

1丸子宿高札緑地

  とろろ汁「丁子屋」の斜め向かいにあります。小さな緑地内に高札が復元されています。

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 高札についての説明板です。徳川五代将軍綱吉が建てたと推定されているそうです。259センチと大型で、全国的にも珍しいのだとか。

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 復元の高札の下に、現代語訳の説明板があります。これは親切でいいですネ。こちらは忠孝奨励御法度。

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 夫婦親類仲睦まじく、召使に情愛をかけ、贅沢はせず、盗みやけんか、人殺しはするな・・・ などと書いてあります。夫婦仲良くから人殺しまで、なんかギャップあり過ぎ? 当たり前と言えば当たり前?

 

 こちらは宿駅諸御法度。宿場についての決まり事です。不当にもうけるな、というようなことも書いてあります。これ大事。

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 こちらでは、毒薬や、偽造のお金はダメだと言ってます。そりゃそうでしょう! 当たり前だ。ということは、けんかや人殺しがちょくちょくあって、偽の薬やお金がありと普通に出回っていたってこと? おお、こわ・・。令和の人間でよかった。

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2地蔵祠

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 バイブルでチェックポイントとされている「地蔵祠」。しかし、中に地蔵は見えませんが???

 そしてなぜか「大日如来」の説明が。ウォーク開始早々、謎に包まれます。

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 ちなみに新版によれば、大峯山霊場碑と小社だそうです。謎がとけた。新版が出て、よかったですねー。

 

3大日如来道標

 ほどなく歩きますと、大日如来の道標があります。バイブルの位置情報とも合っていますので、間違いなさそう。道標はとても小さいので、見落としそうです。

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 これまた新版によれば、元宿山の中腹に真言仏教の中心仏である大日如来が祀られていて、これはそこへの道の入り口を示す道標なんだそうです。ああもう、新版を見ながらブログを書いた方が早いな!

 

4観音堂

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 チェックポイントになっている二軒家公民館&観音堂 こちらのようですね。

5誓願寺

 立派な山門のお寺です。そもそもは、源頼朝が父母の供養のために建てたお寺ですが、徳川家康と豊臣家との「鐘銘事件」で知られています。

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 方広寺鐘銘事件とは・・・

 秀吉没後、豊臣家が京都の方広寺に寄贈した鐘に「国家安泰」の文字が刻まれていたことが家康の怒りを買い(家康の名前を分断しているということで)、その弁明に豊臣側の家臣、片桐且元が出向いてきたときに、ここに滞在しました。

 結果、弁明は失敗に終わり(家康はわざといちゃもんをつけて大坂夏の陣のきっかけにしたのでしょうね。さすがタヌキ家康)、且元は淀君の怒りを買い失脚。且元は夏の陣では徳川側についたのでした。そんな且元夫婦のお墓が、このお寺にあります。

 

 とまあこのように有名な誓願寺ですが、山門脇にこのような祠もありました。

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 山門を入りますと、静かで落ち着いた参道の向こうに本堂が。

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 なぜか目立つ達磨像。説明を見ますと、古い由来のものではなかったのですが、なんだかいい話だったので、そのままアップいたします。

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 足元にほっこり。渋いながら、どこか和む境内です。

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 本堂はこちら。

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 片桐且元夫婦のお墓も、ちゃんと見つかりました。案内を出してくださっていると、ありがたいですよね。

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 誓願寺近くの自治会の案内板。そうそう、誓願寺境内の池は、モリアオガエルの繁殖でも有名で、そのことにも触れられています。

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 誓願寺から再び街道に戻ります。

 実は、ここで道を間違えました。旧道への入り方が、少々わかりにくいのです。下の写真のように国道1号線のすぐ横に並行している道を行けば正解です。

 

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 90度間違えて南下しているときに、前方から街道を歩いているという男性が戻って来られて、「この道は違うと思う」と教えてくださいました。この男性が手に持っているガイドブックがバイブルと同じだと私は単純に喜んだのですが、同行人のクロヤギ(夫でもある)が、記述量が我々のと比べて格段に多いと感じたんだそうです。帰宅してからネットで調べて新版が出ていることに気が付いた・・・というわけです。私は、ちっとも気が付きませんでしたよ。

 


6丸子紅茶

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7長源寺

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 明治初期、中国や印度に渡り紅茶を研究し、茶の木を持ち帰り植栽した多田元吉のお墓があります。

 ・・・ということですが、お墓の場所はわかりませんでした。

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 国道1号線と合流します。立派な松の木は、新版に「なごり松」と記載されていました。

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 国道を渡り、「丸玄工房」が見えたら左の道を進みます。

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 これより先、特にチェックポイントはありません。ひたすら国道をてくてく歩くのみ。

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 トンネルの手前を右折します。

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 ちなみにこの手前に道の駅があり、昼食にどうかと期待していたのですが道路を渡って少し戻らなければなりません。先を急ぐため断念しました。こちら側に飲食店や売店はありません。パーキングとトイレのみ。

8慶竜寺

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 十団子で知られる慶竜寺。8月の縁日に十団子を地蔵堂に備えれば道中安全と言われていたそう。詳しくは説明板をアップします。

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 昔むかし、宇津の谷に鬼が出るのに困っていたところ、旅の僧(実は地蔵菩薩)が鬼と対決して、「小さくなってわしの手のひらに乗ってみよ。」と言って、その通り小さい玉になった鬼を杖で突いて10粒にしてのみ込んでしまったそうな。

 ん、どこかで聞いたような話だな。あ、「三枚のお札」のラストみたい。

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 本堂、なかなか立派ですね。

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9お羽織屋

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 お羽織屋とは・・・

 秀吉が小田原攻めの時、宇津の谷に休憩しました。ここの当主が、轡を献上し、さらに戦に勝つように縁起の良い話をしたのを秀吉は大変喜び、帰りに立ち寄って羽織を与えました。家康もこの話を聞いて、ここの当主に茶碗を与えました。

 秀吉の羽織と家康の羽織。すごいお宝を所蔵している家なのです。

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 コロナの影響でしょうか。拝観は中止とのことでした。人の気配もなし。

 

 隣に明治天皇小休所の碑があります。

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 このあたり、なかなか雰囲気のある、静かな小道です。お羽織屋の先の階段を上り、左へ。(右方向に十割そばのお店があって、そちらへ行く車が多いのですが、つられないように。)

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 道なりに回り込みますと、宇津の谷の峠越えの表示が・・・。

 えーーーっ、ここを入るのー? とちょっと引いてしまいそうですが、旧道入り口とあるので行くしかありませんね。いやだなあ。薄暗くて、気持ち悪そう・・・ 半泣きで足を踏み入れました。

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 というわけで、これよりやや過酷な峠越えとなりましたので、ここでブログは一息いれます。続きは近々アップしますね。

 ここまでお読みくださりありがとうございました。またよろしくお願いいたします。

 

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梅干し、おかか、わさび丼

今週のお題「ごはんのお供」

 

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 ご飯のお供と言えば、まずは何より自家製梅干し。大きな南高梅で作るふっくら柔らかな梅干しは、お料理の隠し味にしたり、ご飯に炊きこんだり、一粒一粒大事に食べるのですが、ご飯のお供はこれとは別の小梅干し。ご飯の中央に乗せて、味をうつしながらチビチビ食べて、最後は種をしっかり味わいます。少し前までは子どものお弁当用に使っていたのですが、お弁当作りから解放されたこの頃は、私の朝ごはん専用。ジャムの空き瓶に詰められて、冷蔵庫の上から二段目に鎮座しております。

 

 次にエントリーさせたいのが、おかかご飯。ご飯のお供というより、これは立派なメインディッシュですね。かつおぶし(できればフンパツして2パック)にお醤油をすこーしたら~りしてざっくりまぜて(混ぜすぎるとべちゃっとするから注意)、温かいご飯にふんわりかけてもわもわもわ~といただきます。あー、最高。子どもの頃から好きだった。母親は「ねこまんま」と呼んでいました。最後に食べるご飯は何がいい?と聞かれたら、「ねこまんま」を所望するかも。

 

 最近ハマっているのが、わさび丼。なんのことはない代物ですが。あたたかいご飯に塩(卓上の天然塩)をパッパッ。その上に焼きのりをちぎって乗せ、最後にチューブ入り練りわさびをトッピング。わさびをいっぺんに口に入れすぎないように注意して、はふはふしながらいただきます。どんなに注意しても結局ツーーンと脳天に来るのですが、それも悪くない。「来たー!」って感じで七転八倒。なんなんでしょうね、よくわからない魅力に満ちたご飯です。ご飯のお供というより、ご飯の方が完全に負けている。うちでは誰もまねしません。

 

 梅干しも、ねこまんまも、わさび丼も、決してオットとはかぶりません。私たち、食べ物の嗜好はたぶん真逆。おかげで誰に遠慮することなく、心置きなくいただきます。よかったよかった。ご飯のお供って、私の場合、そんなふうに個人的でナイショにしたくて、ちょっとB級なものなんじゃないかって気がします。

もしもの備え 適当でゴメン

今週のお題「もしもの備え」

 「備えあれば憂いなし」と言いますが、いくら備えても憂いはなくならない気がします。家でしっかり備蓄しても、街を歩いていて大地震に遭遇して、何かの下敷きになったら? どう防げるというのでしょう? 叱られそうですが、私はあまり備えていません。

 地震に限って言うならば、その時、頭を守ることがまず肝心かと。そのあとは逃げる。この時は危険察知能力みたいなのがものを言う。食料や日用品などの備蓄は、これらをクリアしたあとですよね?

 ところが、この段階になると、「命だけでも助かってよかった」という気持ちが何か別の感情に転じてしまい、人と人の間で心無いやり取りがあったり、デマが飛び交って混乱したりなどということもあるのでしょう。天災や病気は怖いけれど、それと同等、あるいはそれ以上に怖いのは人の感情かも。だから、私はどんなときでも感情が保てる人でありたいし、そのための努力をしたいと思います。それが究極の備えかな。

 

 これでお題が終ってしまうのもどうかと思うので、物的な備えについて少し書きます。

 水だけは、備えております。台所の床下収納庫に入るだけですが。5人家族なので、とても十分な量とは言えませんけど、これ以上は置く場所はないので妥協。

 食べ物は、乾パンやクラッカー(リッツ)の大缶を1つずつ、これも床下収納庫へ。アルファ米や非常用のレトルト食品はあまり美味しくないので、買いません。賞味期限が来ても嬉しくない。

 あえて非常用というより、日常の延長で、ツナ缶などは買い置きをしています。それと羊羹1本。カロリー高い&日持ちがする&チョコレートのように溶ける心配がないのが、その理由です。

 普段使いのカバンの中に必ず入れているもの。もちろんスマホ。そしてモバイルバッテリー。(イマドキのライフスタイルには欠かせませんね!) 一方でアナログのツールとしてスケジュール帳。(この中に、各種パスワード他、様々な覚書。マイナンバーの控えも。「個人情報だだもれじゃん」と子どもに馬鹿にされていますが。)手のひらサイズの傘1本。これは本当に重宝です。常に入っているのですが、突然雨が降ってもとりあえず慌てません。まさに「備えあれば憂いなし」) 荷物が重くなるのはいやだから、こんな感じですかね。あ、マスク1袋も。コロナ禍時代の必需品になってしまいました。

 

 もしもの備えが「もしも」で済みますように、願ってやみません。

体感のひと

今週のお題「怖い話」

 

 怖い話と言えば、口裂け女ですかね。マスクした女の人が「私きれい?」って聞くあれですね。中学生の頃、「とうとう新所沢にも出た」(地元でした)とか噂になって、怖かったなあ・・・ あ、トシがバレますね。

 今は女の人に限らず、マスクの人ばかり。マスクの下の顔はどうなんだろう? すれ違う人、どの人の顔も、マスクの下はわからないというのは、ある意味怖い。

 

 前置きが長くなりました。やっぱり都市伝説は怖いかな。リアルっぽくて。そうなると一番怖いのは、本当にあった心霊体験的な話。特に、知り合いが「本当に体験したんだけど・・・」というのはそれこそ本当に怖いんですけど。特に親類縁者の証言。

 

 この夏休み、実家の母を訪ねたときに、母の両親(私の祖父母)が書き残した記録を託されました。よくまあこんなにというくらい膨大な覚書の数々。昭和20年5月から21年10月にかけて、東京に残った祖父が疎開先の祖母に送った138通のはがきの束は、なかなか読みごたえがあります。戦時下から敗戦を経て、日本人の普通の一人の大人が何を考えていたかわかって興味深いです。字が読みづらくてまださっとしか目を通していないのですが、これからゆっくりひも解くつもりです。

 祖母が書き残したエッセイ集のようなものの中に、ちょっと怖い(?)話がありました。

 実は、生前祖母と話していて、もしかして霊感があるのかもと、私は思ったことがありました。

 一つには、第二次世界大戦中に、出征している義兄(姉の夫)がしきりに頭を下げているという夢を見てまもなく、義兄がグアム島で戦死したという知らせが入ったと言っていたこと。もう一つは、高校生の私がひそかに思っていたことを、「あなたがこんなことを言っている夢を見たのだけど」と言われ、びっくりしたことがありました。誰にもしゃべったこともなく、絶対にわかるはずもなかったことだったので。霊感というか、なにかこう、スピリチュアルな世界に祖母はつながっているのかな、なんて気がしたんです。

 その祖母が書き残した不思議なエッセイを、ここに載せます。お読みください。

 

体感の文 ほほえみ

 霊魂(たましい)も楽しいいたずらをなさる。

 死別(病死)して数か月・・・・・・生前に度々お茶を飲んだ店に入り、いつもの席に独人で座る。前の席には故人が座っているつもりで、一寸っと茶目っ気のある楽しい笑顔とくつろいだ笑い声を思い出しながら。一人分だけ注文したコーヒーにお砂糖を入れながらなぜか自分も楽しくなる。空席の向い側にも一人分あると考え、あの手付き・・・・・・共にリラックスした気分を思い出し味わいながら。もう独人っきりなのに淋しくもかなしくもなく、むしろ喜びの時をゆっくり過ごして此の気持ちを大切に心にしまい、支払いの時に一寸驚きが有りました。

 私も随分金額が多いなと思ったので「変ね」と言ってレジに渡したら『お一人ですね』とキョロキョロ見て居ましたが『コレお二人分でした、すみません』と云って運んでくれた人と話し合って書き直して居ました。私は思って居ただけなのに。その姿がアノ人には見えたんですねキット。だけど運んだのは一人分そして書いたのは二人分。

 考え様では不気味だけれど・・・・・・アノ事ばかりはわざわざ何度も思い出しては楽しんでいます。残念ながらその店はもうありません。

 

 こうして書き写してみると、怖い話ではなかったですね。よく知っている祖母が言っていることだからかしら。

 温かくて穏やかな人でした。そのまま年をとり、ある日、眠ったまま亡くなりました。87歳でした。

 私は今でも、祖母の霊魂に守られているのではないかと思います。そのくらい優しい人でした。

釘抜きからその先へ

今週のお題「2020年上半期」

 

 早いですね、もう上半期が終るなんて。

 今年はもうコロナに尽きる・・・という感じですが、私としては肘頭骨折の抜釘手術という一大ミッションが無事終了し、ほっとした上半期ではあります。看護師さんから返してもらったボルトを見て、「おお。これか、これか。ご苦労さん。」と感動してしまいましたよ。

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 その感動も、そのあとのコロナ感染拡大と1か月超にわたる在宅ワークで、もう随分遠い出来事のように思います。

振り返れば、抜釘手術の入院中に志村けんさんが亡くなったのでしたっけ。病院のベッドで追悼番組を見ました。悲しいはずなのにドリフのコントがおかしくて笑ってしまった・・・

 私、生まれ育ちは東村山でして、小学校は志村けんさんと同窓です。東村山音頭が大ブレイクして誇らしかったかというとそうでもありませんでした。中学校から都内の私立に通ったのですが、「家はどこ?」と聞かれて「東村山」と答えると必ず「ああ、これね」とチョチョンガチョンの振り付けされるのが、なんかいやでした。そのあと決まって聞かれます。「で、なんちょーめ?」

 東村山一丁目とかいうのはありませんから。東村山市○○町1丁目となります。考えてみれば当然ですが。「東村山と言えば志村けん」というのはなんか嫌だったなあ。

 でもね、ここ数十年は、あんまり気にならなくなりました。もはや東村山市民でもないしなあ・・・。亡くなった時はすごくショックでした。ああ、東村山の志村けんさんが・・・。もっと長生きしていただきたかったです。コロナめ。

 

 話がそれました。えーとなんだっけ、そうそう、抜釘手術。おかげさまで成功し、さして痛みもなく、退院後はすんなり日常生活に戻れました。そのあとのリモートワークを経て、なんとなんと不覚にもコロナ太り?! すごく久しぶりになんとなく体重計に乗ってみて、ガーーーーーーン。

 という事情で、現在のマイブームは自宅筋トレです。コープ宅配でヨガマットを買い、アマゾンで2キロのダンベルをポチり、先日はホームセンターでバランスボールを買いました。

 筋トレにハマる前からうすうす気が付いていたんですけど、重いものを持つとき、肘に力を入れるのではなく筋肉に力を入れるといいです。そうすれば古傷に響くことはあまりありません。私は本を扱う仕事をしていますが、本がたくさん入ったコンテナを持つときは、上腕三頭筋や大胸筋を意識するようにしています。そういう面からも、筋肉を鍛える意味はあると思います。

 ただ、大胸筋を鍛えるのに最適な筋トレである「腕立て伏せ」だけは、痛くてできません。普通の腕立て伏せはもちろん、膝つき腕立て伏せもつらい。それで壁に向かってする腕立て伏せをやっているのですが、やっぱりちょっと違和感。傷痕がヒリヒリする気がする。それと、たぶん気のせいだろうけど、肘に鈍痛。なので、腕立て伏せは封印しようかなと思っています。事故車(ポンコツともいう)みたいな肘なんで、もう一度壊れたら困る。

 腕立て伏せのかわりに、ダンベルフライという筋トレをしています。あおむけになって、両手を横にまっすぐのばして、2キロのダンベルを持ってまっすぐ上にあげます。ダンベルを持っているのに肘には負担がかからず、胸と腕にはしっかり効くのがいい。私には向いているみたいです。

 骨折の時に上腕三頭筋も切れてしまってワイヤーでつないだという経緯があり、上腕三頭筋はぜひ鍛えたいところ・・・。

 

 というわけで、釘抜きからその先へ、再生に向かって身体を作っているところです。

 それとやっぱり「新しい生活様式」。コロナの影響で、仕事のやり方が大きく変わりました。最初はしばらくの間だろうと思っていたのですが、どうやら「しばらく」といのは、当初のイメージよりずっとずっと長そう。この頃は、「もう元には戻らないな」と思うようなりました。職場の人たちとも、「もう前のようにはならないね。新しい方法で生きていかねば」なんて話をよくします。

 それにしても、私たちは何を楽しみに生きていったらいいんでしょう? 歌は歌えない、旅もできない、人と隣り合って座れない。我が家の大学生の息子、半年近く学校に行っていない(ずっとオンライン講義です)。それでいて学費はきっちり払うというのも、釈然としない。いや、学費のことでケチケチいうのはともかく、大学に行かなくて大学生をやっている彼らは、どうなんだろう? これはいつまで続くのか?

 

 先の見えない上半期でしたが、後半はきっとなにか光が見えることを願って、いや、光を求めて、前に進んでいかねばと思います。

 

 

納豆とのほどほどの付き合い

今週のお題「納豆」

 

 納豆ですか・・・ うーーん、きらい、かな?

 いや、どうなんだろう?

 

 子どもの頃は、確かに納豆はきらいでした。関西人ってわけではないですけれど、あのなんとも言えない匂いが苦手でした。母は日ごろから「好き嫌いしないで何でも食べるのよ」と有無を言わさない人でしたが、私は納豆だけは勘弁してほしいと頼みました。すると母は言うのです。「年の数だけ食べなさい。4歳だから4粒でいいわ。」

 納豆4粒、まずいですよ~。ねばねばが嫌なら、かき混ぜないでそのままどうぞと言われたのですが、そのままの納豆をごっくんと飲み込むのって、つらいです。薬みたい。あのころ、おなかが痛いというと取りあえず「飲みなさい」と言われた正露丸みたい。なんてまずいんだろうと思いました。

 5歳になって5粒、6歳になって6粒。そのうち小学生になったら一口になりましたが、なぜかそのころから、免除されるようになりました。10代以降は、そもそも家の食卓に納豆があった記憶がありません。母も、本当は納豆が特に好きではなかったんじゃないでしょうか。体にいいからとか、こどもに好き嫌いはよくないからとか、そんな理由で食べさせようとしていたのかも。今度真相を聞いてみよう。

 

 さて、そういうわけで、長らく納豆を食べずに年月を送っていました。ところが結婚相手は大の納豆好きで、新婚当初から、私が全く食卓に納豆を乗せなくても、いそいそと自分で買ってきて食べるのです。私が、ものすごーく嫌な顔をするので、(納豆嫌いには、目の前で食べられるのはたまったものではありません。)、そのうち私がいないときなんかに、2パックも3パックもドカ食いするようになりました。私が帰ってくるとちゃんとお茶碗もパックも洗ってあり、ワーワー言われないようになっていて、ちょっとかわいそうではありましたが、納豆嫌いとしては、そこは重要です。

 

 転機は、末っ子の出産でした。入院先の食事に、納豆が出たのです。個人でやっている小さな産院で、その時期の入院患者は私ひとり。食事はいつも大変美味しく(すぐ上の子の時にここの食事のおいしさに感動して、末っ子の時も同じ病院にしたとも言えます)、心のこもった家庭的な献立。3日目くらいには、「頑張って!」という感じでにぎり寿司が出たり、退院前日にはお赤飯と鯛のお頭だったり。味も良いけど、心遣いが嬉しい。

 そう、それで朝ごはんに出た納豆は、すでにたっぷりの刻み葱とたれと一緒によくよく混ぜてあって、「さあ、どうぞ」と言わんばかりにほかほかご飯に添えられていたんですねー。さすがに、これ、残したら申し訳ないなあと思いました。で、思い切って「えい」って口に入れたら、あら意外に大丈夫。てか、いけるかも。私、悟りました。納豆は単体で食べてはまずいのだ。温かいご飯と一緒に、もわもわもわ~っと食べれば美味しいのですね。10数年、損したかなと、ちょっと後悔しました。

 

 そうは言っても、それから急激に納豆が好きになったわけではなく、すごーく嫌いではないけど、あえて食べようとは思わないといった位置づけで、やっぱりほとんど自ら食べることはなかったです。

 

 第二の転機は、つい最近訪れました。昨年8月の肘頭骨折です。骨折について詳しくはこのブログをさかのぼって、お読みください。(つい最近まで、肘頭骨折ブログになっておりました。)

 骨折、痛いです。それに落ち込みます。もう以前のように動かせないのかしらとか、思いつめがち。頭の中は常にカルシウム。骨の癒合を助けるには、やっぱりカルシウム摂取でしょ、というわけです。

 「どうすれば、カルシウムをたくさんとれるか。」というテーマに向き合ってわかったことは、小魚、ビタミンÐ・ビタミンKと一緒に摂取するといいということ。ビタミンÐは干しシイタケに多く含まれ、あるいは日光を浴びるといいらしい、、、ふむふむ。ところてビタミンKってなに? これが多く含まれいる食品ってなかなかないんですよね。ところがひとつだけあった。納豆。

 「納豆、食べるか」。観念しました。骨折患者としては、骨によいと言われることは実行したい。

 それからは毎朝、納豆です。おかめ納豆の小さいパック。大きいのを食べるほど好きではないんです。でも嫌いじゃない。たれにからしも入れて、なんなら海苔もちぎって入れて、ご飯に乗せてもわもわもわ~っといただきます。忙しい朝には超便利。半年ほど、納豆の朝食を続けました。それが途絶えたのは、コロナが流行ってから。スーパーの棚からカップ納豆が消えてしまい、いつもの朝食(目玉焼きまたはオムレツ)に戻りました。

 

 この頃は、またカップ納豆が買えるようになり、1~2週間に1回の割合で食べています。たぶん、このくらいがちょうどいいです。つかず離れず、ほどほどに。それが私と納豆のつきあいのようです。