てくてくわくわく 街道ウォーク

晴歩雨読。週末の東海道てくてく歩き&ときどき読書のブログです!

小田原宿ってどんなとこ?①

 昨年9月から始めた週末東海道ウォーク、国府津まで来て、「さあ次は小田原宿だ!」と張り切っていたのですが・・・

 先週の木曜日の夜、職場からの帰り道、残雪に自転車を乗り上げて転倒してしまいました。横倒しになった上に、膝の内側に自転車のペダルが食い込んだようで、痛くてすぐには起き上がれず。何とか家にはたどり着いたのですが、自転車はこげても歩くことができなくて。翌金曜日、足をひきずりながら仕事には行ったのですが、週末の街道ウォークはさすがに断念しました。

 というわけでネタもないし、何だかショックでブログの更新を少しさぼってしまいました。その間、訪問してくださった方、すみません。

 幸い骨に異常はなくて、足の調子はかなり回復しました。近々、ウォークを再開できると思います。それにしても、雪道、侮ることなかれ。あの日は、まだ道に薄く雪が張り付いているところがあって、夕方から水っぽい雪が降ってきて、路面全体が黒くなっていてよく見えなかったです。私が言うのもなんですが、皆さん、気をつけてくださいね。

 

 前置きが長くなりました。

 ウォークは進みませんが、ネタ切れなどと言わずに、ブログでは少し先を行こうと思います! まずは、小田原宿について、数回に分けてあれこれリサーチいたします。

 今日のテーマは、小田原宿をひとことでいうと?

 

  江戸を発ち東海道を西へ二十里余、品川宿より数えて九番目の宿が小田原宿ですが、徳川以前から、関八州を統一した後北条氏の城下町として繁栄していました。豊臣秀吉が家康に、駿府と引き換えに関八州を治めるように言い渡した時には、関東で家康が居城とするのは小田原に違いないと誰もが思ったくらいです。このことからもわかるように、後北条氏の時代から、小田原は関東への出入り口としての重要な拠点だったのです。

 「関東への出入り口」という役割は、江戸時代になっても変わりませんでした。あの徒歩でしか渡れない酒匂川の川越(かわごし)を無事に終えて一安心とはいうものの、このあとには険しい箱根の山越えが控えています。(川越しの後は山越え! 江戸の旅、ハードですね。) ここは一息入れたいところでしょう。また、小田原はただの宿場町ではなく、城下町です。しかも日本橋を発って最初の城下町です。今まで通ってきた宿場町とは規模が違います。旅籠の数も多く、観光や娯楽の場所もあって、旅人が鋭気を養うのに十分な規模の宿場町だったことでしょう。多くの旅人は、ここ小田原宿で二日目の宿をとっており、「東海道中膝栗毛」の弥次さん・喜多さんの宿泊地も小田原です。もっとも二人は、鋭気を養うつもりが散々だったのですが。詳しくは後日記事にしますので、お待ちください。

 江戸時代、「小田原までは江戸文化」と言われていたそうです。箱根の山の上には、厳しい関所がありました。人の行き来も、物資の流入も、文化の伝播も、小田原宿を超すのは、容易でなかったことでしょう。今でも神奈川県から静岡県に入ると、いわゆる「西」の文化圏になるような気がします。私が関東の人間だからかもしれませんが。

 

 というわけで、一言でいうならば、小田原宿は関東の出入り口として大いに栄えた城下町だった! いうことでいかがでしょうか?

 

 ここまで読んでくださりありがとうございました。

 次回も小田原宿について書く予定です。また、訪ねて来てくださると嬉しいです。

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