てくてくわくわく 街道ウォーク

晴歩雨読。週末の東海道てくてく歩き&ときどき読書のブログです!

クローズアップ! 二宮

 「クローズアップ〇〇宿!」では、これから行く宿場町について、なりたち、江戸時代の宿場の様子、その後(明治以降~いま)について、あれこれ調べてざっくり定義していきます!

 さて、これまで、通ってきた宿場町、ウォークを重ねていたら、それなりに数が増えてきました。

  • モーニングサービスの品川宿
  • 後進ながら六郷の渡しで発展した川崎宿
  • 開港の舞台となって国際都市にかじを切った神奈川宿
  • 権太坂の手前で「ここらでほどほどに」と旅人を引き留めた保土ケ谷宿
  • 江戸から歩き通しに歩いてきた人が最初に宿をとる戸塚宿
  • 遊行寺や江の島詣でにぎわった古くからの観光地・藤沢宿
  • ちょっと休憩するのに便利だった平塚宿
  • 風光明媚な海岸で明治以降も文人・財界人に愛された大磯宿

 宿場町ではありませんが、藤沢宿と平塚宿の間に、「間の宿」としての役割を果たしていた茅ヶ崎もありました。

 今回も宿場町ではないのですが、二宮をクローズアップしてみます。

 

 

二宮ってどんなとこ?

 二宮は大磯丘陵の中南部に位置し、南に相模灘、北には丹沢山塊に続く丘陵地と、海山の恵みを得た自然豊かな土地です。冬でも降雪量が少なく、比較的温暖な気候といえます。住みやすい土地というのは、縄文時代から人が住んでいた形跡があることが多いものですが、二宮も例外ではありません。

二宮には石器時代から人が住んでいた

 二宮に人が住み始めたのは、遺跡で発掘された石器から、少なくとも約1万数千年前と考えられています。
 今から5,000~6,000年前には、氷河期にできた氷が一気に融け出し、今より内陸側に海岸線があったようで、現在の二宮町中里・元町・下町・中町・上町・梅沢・越地・茶屋周辺の平らな低地は、かつてはなんと海底でした。
 海が退き、現在とほとんど同じ地形が出来上がると、人々はここに移り住むようになりました。 古代、二宮を含む地域は師長国(しながのくに)と呼ばれており、大化の改新(645年)にあたって相模国に合併しました。相模湾沿いに通じた東海道の原形も、奈良時代や平安時代初期には成立していたそうです。

 

源頼朝の支配下から北条氏の勢力下へ

 

 鎌倉・小田原の多くがそうであったように、二宮も鎌倉幕府による支配の後、長い間、北条氏の勢力下に置かれることになりましたので、源頼朝や北条氏に関連する史跡や伝説が多く残されています。

 たとえば、建久3年(1192年)には、二宮川勾大明神(今の川勾神社)で北条政子の安産祈願が行われたと言われています。

 また、『曽我物語』の曽我兄弟の姉である花月(かげつ)は二宮の地頭である二宮太郎朝忠(あさただ)に嫁いでいます。花月は自宅の隣に庵室をたてて兄弟を弔いましたが、この庵室を再建したのが知足寺といわれています。

 二宮にはこの他にも兄弟に関する伝説が多いです。五郎が十郎のもとに駆けつける際に、吾妻山近くの家で馬を借りた上、生えていた大根を鞭にあてたという話が残されていますおり、川勾神社前には兄弟が力比べをしたという力石もあります。

 

間の宿として
 

 家康の天下統一後、五街道が整備されると、二宮は大磯と小田原の間の「間の宿(あいのしゅく、一時のお休み処)」としての発展を遂げました。

 どのような様子だったかというと、例えば、現在の山西と川匂は梅沢と呼ばれており、「立場」として賑わったそうです。「立場」とは休憩施設で、眺望の利く場所や、橋のない大河川に隣接する村に設置されることが多く二宮も同様でした。

 立場の一つ「梅沢御本陣」は、大名・公家・幕府役人などの公式休憩所でしたが、江戸時代後期の寺社参り流行にともない、庶民も泊まるようになりました。二宮は53宿ではないので、宿泊は本来禁止ですが、大磯と小田原の間は16キロメートル程度あり、間にある酒匂川がたびたび増水し通行不能になったりしたため、届出があれば宿泊可能になったようです。
 別の立場「松屋本陣」では、この地域の名物として、旅人にあんこう・粟餅が出されていいたという記録が残っています。二宮の海ではあんこうが獲れ、近くの山では粟が栽培されていたのですね。
 また、二宮は海に面した村のため、古くから海水による塩の精製が盛んでもありました。

近代化と漁と・・・


 明治4年(1871)の廃藩置県により二宮は淘綾郡に属し、明治9年(1876年)の4月に現在の神奈川県に編入されました。

 明治22年(1889年)には江戸時代5つに分かれていた村(一色村・中里村・二宮村・山西村・川匂村)をまとめ、吾妻村が誕生しました。
 大正12年(1923年)9月の関東大震災では、例にもれず甚大な被害を受けています。

 海辺沿いの村々では、漁業活動が盛んで、捕れた魚は大磯宿や小田原宿へ売り出されていました。漁は昭和30年代頃まで行われていました。

 

大都市圏に近い住宅地として


 国道1号線が整備され、工場や商店ができると町はいっそう賑やかになりました。そして昭和10年(1935年)、吾妻村が二宮町と改められました。
 第二次世界大戦により、人々は苦境に立たされましたが、戦後、小田原厚木道路・東海道新幹線・西湘バイパスなどの交通網も整い、東京・横浜などの大都市圏に近く、豊かな自然環境に恵まれ、二宮町は気候温暖で良質な住宅地として発展しました。都心に向かう通勤者のベッドタウンとしての開発も進み、現在に至ります。

 平成29年12月1日現在の人口は、27999人です.

 

東海道での位置取りからも、温暖な気候においても、間の宿になるべくしてなった二宮

という解釈でいかがでしょう?

ちょっと長いかな・・・?

 

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。また訪ねてきてくださると嬉しいです。

 

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 この記事を書くにあたり、二宮町の観光協会のホームページを参考にさせていただきました。

二宮観光協会 official Web