てくてくわくわく 街道ウォーク

晴歩雨読。週末の東海道てくてく歩き&ときどき読書のブログです!

あとからふむふむ 平塚→大磯

 1月7日(日)、「第8回街道ウォーク 平塚→大磯「」を実施しました。この間4.0㌔。これまでのウォークで10㌔を超える行程もこなしていたので、今回は余裕。2時前には大磯駅近くに到着しました。「大磯→国府津」は見所も多く距離も結構あることを思うと、今回はもう少し先まで歩みを進めておくと次回が楽だろうと判断。事前チェックをしていなかった大磯駅周辺の次回予定地を回りました。

 というわけで、後からになりますが、予備知識(終わってしまったから予備知識ではなく復習ですかね・・・)をアップします。

 当初予定以外に見学したのは、以下の通りです。

 延台寺

 日本三大仇討ち物語の一つ『曽我物語』のヒーロー、曽我兄弟の兄・十郎祐成と結ばれた、一代の舞の名手、虎女(虎御前)が開いたお寺です。境内には虎女供養塔、虎池弁財天の碑、虎御前祈願の龍神、子授け祈願の石仏、大磯宿遊女の墓等あり、古い歴史を感じさせます。又、春には境内の桜の大樹が花を競い、参詣客の目を楽しませてくれます。

 山下長者はなかなか後継ぎの子どもに恵まれませんでした。あるとき妻が、虎池弁財天に祈願を思いたち日夜お願いしたところ、夢枕に弁財天が現れました。翌朝、美しい石が置かれており、その石を日夜礼拝していたところ、めでたく女児を授かりました。1175年のことです。虎池弁財天より「虎」の字をいただいて「虎」と名づけました。
虎女が大きくなるにつれて石もまた大きくなっていく。人々は生石といって不思議がり、山下長者はありがたい霊験にお堂を建てて、弁財天とともに虎女の守り本尊としました。この石が「虎御石」です。

 曽我十郎の仇討ちの相手、工藤祐経は仇討ちの気配に気付き、十郎が山下長者の屋敷にちょくちょく来ることを知り、刺客を差し向けました。十郎めがけて矢を射かけたが、矢は見事にはね返され、続いて太刀で切りつけたが歯がたちませんでした。よくみればそれは大きな石(虎御石)であり、刺客は驚いて逃げ帰りました。石には矢の当ったあたりに矢きずのくぼみができ、長い刀きずもついていました。それ以降、「虎御石」を「十郎の身代わり石」とも呼ぶようになりました。

 虎御石は、周囲86センチメートル、重さ130キログラム。十郎を守った虎女の愛の証、矢きずが確認できます。
 毎年5月第四日曜日(曽我十郎が仇討ちを果たしたのが旧暦の5月28日であることに因み、毎年開催日が決定されます。)には虎御石まつりが開催され、虎御石がご開帳されます。この石に触れると安産・厄除け、大願成就にご利益があるとされています。当日は甘酒サービス、ちびっこ剣道大会、詩吟等の行事が奉納され、参拝客でいっぱいになります。

穐葉神社

 

北組問屋場跡

 

小島本陣跡

 建坪246坪でした。小島本陣の大福帳は大磯町郷土資料館に展示されています。

尾上本陣跡

 建坪235坪でした。

地福寺

 文豪島崎藤村夫妻の墓碑が、樹齢100年~200年の梅の古木約20本に囲まれて建てられています。毎年2月上旬頃より生前に藤村も愛でた梅の花が境内一面咲き誇ります。
また毎年、藤村の命日の8月22日には、(社)大磯町観光協会主催による「旧島崎藤村忌」が開催され、藤村ゆかりや藤村ファンの方など多数の方が墓参・献花に訪れます。

 藤村の読経・埋葬式は昭和 18年8月26日に地福寺にて催され、安田靱彦氏や有島生馬氏等多数の参列者に見送られました。有島氏が『夜明け前』の一編を朗読、静子夫人が安田画伯の庭に咲いた只一輪の白の芙蓉の花を捧げました。棺には愛用していた筆や紙、タバコやパイプを、埋葬時には執筆中の『東方の門』を掲載した刷り上りの雑誌が投げ入れられました。

 有島生馬氏の筆による。夫妻の墓標の裏面には次のように記載されています。
「島崎藤村墓」
明治五年二月十七日木曽馬籠ニ生レ 昭和十八年八月二十二日大磯ニ歿ス
「島崎静子墓」
明治二十九年十一月八日生レ 昭和四十八年四月二十九日没

石井本陣跡

 現大内館。建坪235坪。

南組問屋場跡

新島襄終焉の地

 新島襄は同志社大学の前身、同志社英学校を開設し、その後同志社大学設立を企画していましたが、病のため早くに世を去ってしまいました。
早稲田大学の大隈重信、慶應義塾大学 ( 前身 ) の福沢諭吉とともに明治の三大教育家として知られています。

 潮湯治、医療の目的で大磯海水浴場が1885年に松本順により開設されたことからも想像できるように、大磯海岸の潮風は病弱の人の療養には活路を開くあこがれの地であったようです。
 新島襄は以前から大磯に来たいと思っていたようですが、明治22(1889)年11月、病に倒れたのを機に知人の勧めもあり、同年12月28日、大磯で静養し再起を計ることになりました。海岸に程近い百足屋 ( むかでや ) 旅館の、松林に囲まれた別館の愛松園にて静かに療養され、近づく春の訪れを待っていられました。愛松園は現在はありませんが、愛宕神社の丘陵つづきの高台にあり、大きい松が高くそびえ相模湾の眺望のよい処で園内には梅の古木がたくさんありました。
 「庭上の一寒梅笑って風雪を侵し開く、争はずまた力まめず、おのづから百花の魁を占む」
また、明治23(1890)年、病床にて筆をとりて  
「送歳悲しむことやめん
病弱の身鶏鳴はやすでに佳辰を報ず
劣才たとい済民の策に乏しくとも
なお壮図を抱いて此の春を迎う」
 愛松園にて再起の希望を持ち療養していましたが、明治23年1月20日危篤に。妻の新島八重も東海道線に乗って大磯にやってきました。
「グッドバイ、また会わん」
 襄が八重に送った最後の言葉です。襄は1月23日午後2時21分、46歳11ケ月の生涯を閉じられ、大磯が終焉の地となりました。新島襄が危篤におちいったという電信を受けた愛弟子の徳富蘇峰は、新橋駅から急いで汽車に乗り駆けつけましたが、すでに生死の境をさまよい取るすべもなかったとなげかれていたそうです。

 昭和15(1940)年、新島襄の門下生が集い、 旧百足屋の敷地内に碑を建てられました。
碑の文字は徳富蘇峰の筆によります。

 

高札場跡

 

湘南発祥之地碑

 

鴫立庵

 心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ

 これは、平安末期の歌人・西行法師が大磯あたりの海岸を吟遊して詠んだといわれている歌です。江戸時代初期の 1664 年に小田原の崇雪(そうせつ)という人物が、西行のこの歌にちなみ、昔の沢らしい面影を残す景色の良いこの場所に鴫立沢の標石を建てました。そして石仏の五智如来像(釈迦・阿弥陀・大日・阿しゅく・宝生の五仏)をこの地に運び草庵を結んだのが始まりです。
 その後、紀行家と知られ、俳諧師としても有名であった大淀三千風(おおよどみちかぜ)が鴫立庵主第一世として入庵して以来、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び日本三大俳諧道場として、現在第二十二世 鍵和田庵主へと続いています。

 

 ここまで読んでくださりありがとうございました。次回は、実際の旅の記録をアップします。また訪ねて来てくださると嬉しいです。

 

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照ヶ崎海岸の夕日

【参考】

www.town.oiso.kanagawa.jp

『ちゃんと歩ける東海道五十三次』八木牧夫 山と渓谷社

 

 


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