てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

クローズアップ! 平塚宿

 次回ウォークは、茅ケ崎高校前から平塚駅までです。めざせ、平塚宿!

 というわけで、平塚宿についての予習です。

 

平塚の位置・風土


 東京からJR東海道線の普通電車で約1時間、相模川を渡ると、そこが平塚です。
 平塚は、東京から南西方向に約60Km、神奈川県のほぼ中央、相模平野の南部に位置し、約4.8Kmの海岸線から西北に広がる扇形で、相模川と金目川の下流域に発達した平野と、それを取り囲む台地と丘陵から形成されています。背後には丹沢・大山山麓が控え、西方には富士・箱根連山を遠望できる四季温和な気候に恵まれたまちです。

 

平塚宿の成り立ち

 

 近世の平塚宿は慶長6年(1601)、徳川家康による東海道整備とともに成立した宿で、元和9年(1623)に川崎宿が成立すると、日本橋から七番目の宿となりました。

 平塚宿を考えるうえで、まず浮かぶ疑問は、次の宿場、大磯宿との間の距離の短さです。約3km、東海道の宿間では3番目に短いです。東海道の宿間の平均距離は9.3kmなので、この距離の短さは異例といえます。なぜ、こんなに短いのでしょうか?
 平塚宿成立以前に徳川政権が東海道沿いの宿に伝馬の継ぎ立てを命じた資料をひもとくと、平塚宿が記載されているものと記載されていないものとがあり、東海道成立以前の平塚は藤沢・大磯・小田原にくらべて伝馬の宿として固定化されていなかったようで

す。平塚は中世からの交通集落ではありましたが、直近に大磯宿があり、固定した宿とはされず必要に応じて伝馬を命じられたり、命じられなかったりしていたのではないでしょうか。
 それでは、なぜ、東海道成立時に宿駅として確定、成立したのか。その理由として隣村の中原に慶長元年に設置された中原御殿の存在が考えられます。中原御殿は徳川家康が鷹狩りの際の旅宿とした御殿ですが、家康はここを頻繁に訪れ、民情視察や論功行賞を行ったりしています。後には中原代官陣屋も設置され、相模国中郡の支配の拠点にもなりました。平塚が御殿に近く、中原御殿との中継基地として必要とされたのかもしれません。

 平塚から江戸までは古代からの主要道として現在の中原街道があり、家康も江戸入府にはこの街道を選びましたが、伝馬制度導入にあたっては街道沿いの東海道に人馬継立を命じました。家康は将軍になってからも度々中原街道を往来しており、自分の動きやすい道として中原街道を確保しておきたかったのかもしれません。

 平塚は東海道と中原街道という二大街道の追分的宿駅でもありました。

*この部分の記述は、平塚市博物館のホームページの「Web読み物 ひらつか歴史紀行」を参考にさせていただきました。

www.hirahaku.jp

 

平塚宿の規模

 近世の平塚宿の様子を知る史料「地誌取調書上帳」によると、平塚宿・平塚新宿合せて石高952石3斗2升7合、家数414軒、総人数2038人でした。また、慶安4年(1651)、八幡村の一部が八幡新宿村として平塚宿の加宿となり、明暦元年(1655)に平塚新宿と改称した経緯も記されています。加宿とは宿の負担を軽減するため周辺の村を宿駅に加えたもので、平塚宿における人馬継立・交通量の増加がうかがえます。

 東西距離(新宿含む)は19町5間(約2.1km)、南北距離(新宿含む)は24町(約2.4km)でした。

 神奈川県内には東海道の宿は9つ(川崎・神奈川・保土ヶ谷・戸塚・藤沢・平塚・大磯・小田原・箱根)ありましたが、そのうち、平塚宿は家数で8番目の規模の小さな宿場でした。また、大磯宿−平塚宿の間の距離が27町(約3km)しかなく、東海道の宿場間で御油宿−赤坂宿の間(16町)、石薬師宿-庄野宿(25町)に次ぐ3番目の短さであることも特徴といえます。また、旅行者が江戸や京都から東海道を通る場合、小田原や戸塚・保土ヶ谷などに宿泊し、平塚宿は休憩地として利用されることが多かったようです。

 

 平塚宿は、幕府にとっても庶民にとっても、ちょっと休憩するのに便利な宿場だった、というざっくり理解でいかがでしょう?

 

明治以降

 

 1871年(明治4年)、廃藩置県により、小田原県になり、のち足柄県になりましたが、1876年(明治9年)足柄県が廃止され、神奈川県の管轄に入りました。

 1887年(明治20年)に鉄道(現在のJR東海道線)が開通すると、平塚駅を中心に発展しますが、1923年(大正12年)の関東大震災では、各地で大被害となりました。

 1929年(昭和4年)平塚町と須馬町が合併して、平塚町になり、1932年(昭和7年)には、横浜、川崎、横須賀に次いで、県下で四番目に市となって、商工都市としての第一歩を踏み出しました。

 第二次世界大戦では海軍火薬廠があったことから、昭和20年7月の大空襲で壊滅的打撃を受け、当時の中心市街地の約70%が焼け野原と化してしまいましたが、戦後、焦土のなかから再び復興へと力強く歩み始めました。

 1954年(昭和29年)に旭村と合併、1956年(昭和31年)に大野町、神田村、城島村、金田村、土沢村、岡崎村(一部)と合併、1957年(昭和32年)に金目村と合併と、1954年から1957年にかけて、1町7村を合併し、現在の市域となりました。

 その後、都市施設や市街地の整備が進み、商工業の成長とともに住宅地としても発展し、現在に至っています。 

 平成29年12月1日現在の推計の人口は258391人、世帯数は110,071世帯 です。

  なお、平塚市といえば七夕を思い浮かべる方も多いかと思います。七夕は江戸時代からの各地で行われていた風習ですが、平塚市の七夕は戦後の復興の機運の中で盛り上がりました。「戦災復興五ヶ年計画」も一段落した昭和25年7月平塚復興祭が開催され、ちょうどこの時期が近隣農家の野上りの時期とも重なり非常に多くの人出を見ました。そこで、平塚商工会議所、平塚市商店街連合会が中心となって昭和26年7月に仙台の七夕まつりを範とし、昔日の平塚を思い起こしながら、平塚商人のたくましい心意気を吹き込んだ第1回七夕まつりを行い、昭和32年からは、平塚市の主催となっています。諸産業発展を願い、また平塚を広く全国に紹介する場として重要な役割を果たしており、今日では、日本を代表する七夕まつりに成長しています。

 

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。また訪ねて来てくださると嬉しいです。

 

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【参考】 

平塚市ホームページ

市の紹介 | 平塚市

平塚市博物館のホームページ

www.hirahaku.jp


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