てくてくわくわく 街道ウォーク

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クローズアップ! 藤沢宿

 険しい権太坂を前に、早めの宿に入る保土谷宿、江戸から歩きに歩いて最初の宿泊地になった戸塚宿。ライバルであった両宿の先にある藤沢宿とは?

 

 藤沢宿を、あえて一言でいうならば、「古くから旅人でにぎわってきた観光地」といったところでしょうか。江の島・鎌倉・大山道との分岐点として、観光地に向かう旅人の足場になる宿駅でありました。同時に、踊り念仏を広めた一遍上人が開いた時宗の総本山・遊行寺の門前として江戸よりはるか昔から栄えていて、まさにここが観光地でもありました。

 どういうことか、詳しく説明していきましょう。

 

 

藤沢宿成立以前

 藤沢宿東海道の江戸日本橋から数えて6番目の宿場ですが、宿駅としての歴史はさらにさかのぼることができます。

 古代藤沢が初めて記録に登場するのは天平七年(735)、鵠沼辺りと推定される「土甘郷」が見えます。また片瀬郷から朝廷に布が献上され、延喜式には大庭神社と宇都母知神社が見えます。鎌倉権五郎景正は境川から相模川に至る高座郡の南部一帯を開発し、荘園として伊勢神宮に寄進しています(大庭御厨)。
 頼朝挙兵に際して、大庭景親は平家方として参戦、片瀬河原で斬首されました。時宗の開祖一遍は、鎌倉入りを阻まれ片瀬で踊り念仏を行うなどして布教を行い、正中二年(1325)、遊行四世呑海は藤沢道場(清浄光寺・通称遊行寺)を開山しました。以後遊行寺は戦乱のためたびたび炎上しています。
 永正九年(1512)、小田原の北条早雲玉縄城を築城、三浦氏に備えるなどし、関東侵略の重要拠点としました。江の島は古来霊地として縁起などにも描かれていますが、小田原北条氏は信仰の島としてだけでなく軍事的な重要拠点として関銭などを徴収して保護しています。弘治元年(1555年)には藤沢大鋸町に伝馬(てんま)を置かれ、交通上の要地になり、天正十八年(1590)、小田原北条氏が滅び家康が関東に入ると、御殿と陣屋が置かれ地域支配の拠点となりました。

 

藤沢宿成立以降

 慶長元年(1596年)に徳川将軍家の宿泊施設である藤沢御殿が築かれ(17世紀半ばに廃止)、慶長6年(1601年)に駅制が定められるにあたって藤沢宿として整備され成立しました。伝馬の常置が義務づけられ、交通の要衝として、大山や江の島参詣の足場として栄えました。

 近世後期になると地域の商品流通や文化の拠点となり、幕末には打ち壊しやええじゃないか騒動があり、人々の世直し意識が高揚しました。

 

範囲・規模

 宿場は境川東岸の大鋸町(鎌倉郡)と同西岸の大久保町(高座郡)・坂戸町(同)の3町で構成されており、範囲は遊行寺東側の江戸方見附(みつけ)から台町の東手前(小田急江ノ島線を越えたあたり)の京方(上方)見附まででした。
 天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」に、宿内人口4,089人(男2,046人、女2,043人)で、総家数919軒、旅籠(はたご)45軒、大名や公用の旅客の宿泊施設である本陣が1軒、脇本陣が1軒と記されています(享和3年(1803年)の記録では脇本陣は2軒)。「東海道宿村大概帳」に記載されている神奈川県内の他の各宿場の人口・家数・旅籠数と比較すると、当時の藤沢宿は、人口では城下町であった小田原宿、大きな湊でもあった神奈川宿に次いで多かったものの旅籠数は比較的少なかったそうです。


特色

 「東海道宿村大概帳」は、藤沢宿の名物を「大山詣で(もうで)、江ノ島弁財天詣で」と記していますが、江戸時代の藤沢宿の特色の一つは多くの道が集まる場所であったことです。メインの東海道を西へ、四ツ谷から北東に分かれる大山道(大山阿夫利神社大山不動尊へ)、南へ下る江の島道(江島神社へ)、遊行寺前で東へ向かう鎌倉道、北へ向かう八王子道(滝山街道)、北西に向かう厚木道などがあり、流通の中心地となりました。当時の代表的な名所・旧跡としては、(1)江戸方口にある清浄光寺(しょうじょうこうじ。通称は遊行寺)、(2)宿場から一里ほど南へ歩いたところにある江の島(江島神社)を象徴する一ノ鳥居、(3)京方口近くにある「義経首塚及び首洗い井戸」とゆかりの白旗神社義経を祭神とする)の三つが挙げられ、いずれも浮世絵に描かれたり、道中記(旅行案内書)に記されたりしています。遊行寺については寺院への参詣とともに、同寺ゆかりの「小栗判官照手姫」の旧跡が観光のメインでした。また、宿場の西の立場(たてば。宿と宿の間の休憩地、人馬の継ぎ立て場)であった四ツ谷(大山道の分岐点(追分)でもある)や南湖(茅ヶ崎市)の松並木、左富士も藤沢宿の名所として浮世絵などに紹介されています。

 こうした観光地への足場であった華やかさの裏では、影の部分もあり、藤沢宿ではそれが顕著でもありました。すなわち、飯盛女の存在です。飯盛女は旅籠で働く表向きは女中ですが、夜の相手もする女性です。飯盛女を置く旅籠は繁盛しました。宿駅の乱れを是正するため、幕府は旅籠の抱える飯盛女を2名までに制限しましたが、必ずしも守られていませんでした。多くの旅人でにぎわった藤沢宿では、たくさんの飯盛女が働いていました。貧しい家の出で、売られ身の女性たちは、最後まで藤沢で生きるしか術はありません。飯盛旅籠の主人・小松屋源蔵は栄勝寺に飯盛女の墓39基を造り、48人の法名を刻んで弔い続けたことが記されています。


近代の旧藤沢宿地区

 地域における流通の中心地であった旧藤沢宿地区は、明治時代になって宿駅制度が廃止されたのちも賑わいを保ち、周辺の農村地帯からの麦・米等の農産物を買い取る一方、農産に必要な肥料等の販売を行う「米穀肥料商」が繁盛し、資本を形成しました。
藤沢における最大の文明開化は、明治20年(1887)の鉄道開通です。宿場の南に鉄道の駅(藤沢停車場)ができたことで、徒歩による街道の通行者は減少しましたが、旧藤沢宿地区は問屋街に転身して、地の利を生かした広範な商品流通の場となり、地元資本による銀行の設立など、地域経済の核としての役割を担うようになりました。明治22年(1889)の市町村制により市域を含む9カ町村が誕生。明治41年(1908)に藤沢大坂町、鵠沼村、明治村を廃止し、その区域に藤沢町が誕生しました。
 その後、大正12年(1923年)の関東大震災による被災に加え、昭和初期の経済恐慌のあおりを受けた銀行の倒産など、繁栄にもかげりが見え出し、明治41年(1908年)に誕生した高座郡藤沢町(旧宿場地区と鵠沼村、明治村が合併)の賑わいの中心は、町南部の観光地化、別荘地化とも相まって、次第に南の藤沢駅周辺に移行していきました。

 昭和15年(1940)には市制が施行され、その後次第に周辺町村を合併編入し、昭和30年(1955)、現在の規模となりました。

 

参考

『「東海道五十七次」の魅力と見所』(志田威 交通新聞社

『広重と歩こう東海道五十三次』(安村敏信 岩崎均史 小学館

藤沢宿交流館ホームページ

www.fujisawa-kanko.jp

国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所ホームページ

東海道への誘い

 

 

 ここまで読んでくださりありがとうございました。

 

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