てくてくわくわく 街道ウォーク

晴歩雨読。週末の東海道てくてく歩き&ときどき読書のブログです!

先取りふむふむ 戸塚→藤沢②

 次回の事前チェック後半は、藤沢市内に入った所から見ていきましょう。

 


旧東海道松並木跡碑・遊行寺の一里塚

 安藤広重東海道五十三次を彷彿させるような松並木が茂り「緑が丘」と呼ばれていましたが、1969年代にマツクイムシの被害で大半が枯れてしまったそうです。ガイドブック(『ちゃんと歩ける東海道五十三次』)に「遊行寺一里塚」の表示があるのですが、一里塚跡はもう少し先です。モニュメントか何かがあるのでしょうか? 行って確かめてきます。

小栗判官墓(長生院)

 遊行寺の本堂に向かって右脇の坂を登っていくと、古くは閻魔堂といわれた長生院に至ります。別名小栗堂とも呼ばれ、歌舞伎などでよく知られる小栗判官・照手姫ゆかりの寺と伝えられています。常陸国茨城県)小栗の城主であった小栗満重は上杉禅秀の乱で禅秀方について戦い、禅秀廃死後に足利持氏に降りましたが多くの領地を没収されました。それを不満とした満重は、その後反乱を起こし小栗城にたてこもりますが、応永二十九年(1422)、持氏に攻められ落城します。満重の子助重は、わずかな家臣を連れて三河国の一族を頼って逃げのびる途中、この藤沢で毒殺されかけますが、妓女照手がその毒殺計画を助重に告げたため助重だけは一命をとりとめ、遊行寺に駆け込み遊行上人に保護されました。その後、助重は、勢力を盛り返し、照手を捜し出して妻に迎えました。助重の死後、照手は髪をおろして長生尼と名乗り助重と毒殺された家臣の菩提を弔って生涯を過ごしたといいます(『鎌倉大草紙』)。これが長生院の由来で、境内には小栗主従と長生尼の墓と伝えられる墓石があります。
長生院の所蔵する南北朝時代時宗板碑2基(延文元年銘・1356、永和三年銘・1377)は、江戸時代に遊行寺境内から発掘されたもので、市指定文化財となっています。(遊行寺宝物館に展示)


一里塚跡

 遊行寺の一里塚。日本橋から十二里目。塚木は榎でした。


江戸方見付跡

 事前情報なし。当日のお楽しみです。

諏訪神社

 遊行寺から旧東海道を渡った向かいの丘の上に、藤沢宿東方面の総鎮守である諏訪神社があります。祭神は建御名方命ほかで、遊行寺を創建した呑海が山中鎮護のために勧請したといわれています。明治維新後の神仏分離政策によって遊行寺から独立しましたが、いまでも祭礼の時には神輿が遊行寺に渡ります。祭礼で演奏される西富ばやしは大太鼓1、小太鼓2、すり鉦1、笛1で演奏する鎌倉ばやし系統のいわゆる五人ばやしで、市指定の民俗文化財です。

遊行寺・藤沢敵味方供養塔

 いろは坂を登り切って山門跡に立つと、遊行寺清浄光寺)の広々とした境内が見渡せます。正中二年(1325)遊行四代呑海上人が、実兄である地頭俣野五郎景平の援助によって、極楽寺という廃寺を再興して、遊行引退後の住まいとしました。これが藤沢山清浄光院(のちに清浄光寺)となった時宗の総本山です。宗祖一遍上人は念仏を勧める賦算(「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記したお礼を配ること)と信仰の喜びを踊りであらわす踊り念仏で、みなことごとく往生安楽の境地へ至ることができると説いて諸国を遍歴しました。それにならって歴代の上人も遊行を続けたので遊行上人と呼ばれ、当寺も遊行寺の名で通るようになりました。本堂に向かって左側の鐘楼には、延文元年(1356)の銘を持つ県指定文化財の梵鐘が吊られています。この梵鐘は、呑海によって創建されてから約三十年後の遊行八代渡船上人の代に、仏殿造営の総仕上げとして鋳造されたものです。その頃の遊行寺は開山以来の隆盛を誇り、南北朝の激しい戦乱の時代に、人々の幸福と平和への願いがこめられてこの鐘が造られたといってよいでしょう。他に国定忠治の子分、板割の浅太郎のお墓があります。
 応永二十三年(1416)、上杉禅秀(氏憲)が鎌倉公方足利持氏に対して乱を起こし、その戦火は関東一円に及びとりわけ藤沢をおびやかしました。戦乱後、遊行上人は時宗の人々と共に、敵味方の区別なく多数の将兵や軍馬の遺骸を収容し、手厚く葬りました。三周忌にあたる応永二十五年に建てられた供養塔が、境内東門近くに残る国指定史跡・敵味方供養塔です。
 境内中央にある市指定天然記念物の大イチョウは、数本の乳状突起をもつ古木です。古くは「屏風をたて並べたようだ」(『更級日記』)といわれた西富の丘で、長い年月に渡って藤沢の町の移り変わりを見つめ、そこに生きた人々の喜怒哀楽を美しい秋の黄葉に包み、なお悠然とかまえています。
 また、当寺には国の重要文化財にも指定されている後醍醐天皇画像、一向上人画像、時宗過去帳、六時居讃、安食問答などをはじめとした多くの寺宝が伝わり、宝物館に安置されています。

 現在の建物の大部分は関東大震災後に復興されたものですが、中雀門は唯一、江戸時代からのもので向唐門造り。菊の御門と三葉葵が 刻まれています。

 
遊行寺橋(高札場跡・江ノ島神社一の鳥居跡)

 藤沢橋交差点の近くに赤い遊行寺橋が見えます。江戸時代には東海道は、この橋を通っており、当時はここが江の島道との分岐点でもありました。江戸方面から東海道を上り橋を渡ると、少し南に江の島道入口としての一の鳥居があり、その袴石は、現在、遊行寺宝物館の入口に保存されています。そして、本道は西に続きます。橋の袂には、江戸幕府からの法令、通達の類を知らしめる高札場(コウサツバ)が立っていました。

紙問屋(桔梗屋

 桔梗屋は、旧東海道藤沢宿で茶・紙問屋を営んだ旧家です。本社は横浜に移転しましたが、現在も藤沢の店蔵は支店として営業を続けています。土蔵造の店蔵は、黒漆喰仕上げで1階に重厚な観音開きの塗籠戸を吊るなど、優秀な左官技術を伝えています。文庫蔵は当地で近世に遡る貴重な例で、店蔵とともに東海道の旧宿場的雰囲気を伝えています。

藤沢御殿跡

 妙善寺から東に五分程歩くと御殿橋があり、足をのばして川沿いに登ると陣屋小路の石仏郡があります。江戸時代の初め頃、藤沢にはまだ本陣がなかったので、将軍は自らの宿泊のために今の藤沢一丁目あたり(藤沢公民館付近)に藤沢御殿をつくりました。絵図面によると東西約193m、南北約113mの長方形の区画で、記録によると「慶長五年(1600)に家康が宿泊して以来、寛永十一年(1634)に家光が使用したのを最後に廃止の道をたどりました。御殿の周辺には御殿を管理する代官陣屋が配置され、陣屋小路をはじめ御殿辺などの地名や陣屋橋、御殿橋といった橋の名に今では往時のなごりをとどめているのみです。

本陣跡(蒔田源右衛門本陣跡)

 このあたり一帯が藤沢宿のあったところで、歩道には本陣跡を記す案内板がたっています。本陣というのは、宮家、公家、大名が休泊した施設で、13間あり、一般庶民は休泊できませんでした。江戸時代初期は大久保町の堀内家が藤沢宿の本陣でしたが、類焼のため坂戸町の蒔田家が明治三年まで約百二十年間その要職にありました。総坪数約400坪、門構え庭園等があり堂々たる家でしたが、現在は妙善寺にその墓域を残すのみとなってしまいました。藤沢宿には、享和三年(1703)当時で、本陣1軒、脇本陣2軒、旅篭46軒がありました。また、人馬の割付・管理を行う問屋場が旧大久保町(近藤眼科医院付近)と旧坂戸町(消防署本町出張所付近)に設けられていました。

松屋

 旅籠小松屋源蔵跡

 

妙善寺

 白旗神社から白旗川ぞいに東に向かい、市民病院前から道沿いにカーブして南へ進みます。100mほどいった十字路を左折すると、左手に妙善寺(日蓮宗)のいらか屋根の山門が見えます。創立は永正元年(1504)、墓地の一角には本陣職を務めた「蒔田家」の墓が往時の隆盛を偲ぶようにたっています。

常光寺

 旧東海道(現国道467号線)から消防署の脇を入ると、明治五年に警察署の前身である「邏卒屯所(らそつとんじょ)」が置かれた常光寺(浄土宗)があります。創立は元亀三年(1572)、本堂左脇に市指定文化財の「庚申供養塔」が2基あります。万治二年(1659)の銘をもつ庚申塔は、庚申講中が建立した浄土宗系のものとして貴重です。もう1基(寛文九年銘・1699)は、笠石が軽快な感じを与えます。墓所を包むようにひろがる約7900㎡の静かな寺林は、天然記念物として市の指定を受けています。ひときわ目を引くのは、高さ約25m、推定樹齢300~400年にもなるカヤの巨木で、県選定の「かながわの名木100選」にも挙げられています。境内には、英文学者で詩人の「野口米次郎(1875-1947)」の碑があります。米次郎は「ヨネ・ノグチ」の名で英・米詩壇で認められ、帰国後も浮世絵をはじめ日本の文化、文芸を世界に紹介しました。碑には、彼が詠んだあじわい深い詩が刻まれています。

永勝寺

 旧東海道(国道467号線)から農協藤沢支所の手前を入っていくと、やがて永勝寺浄土真宗)に着きます。創立は元禄四年(1691)、山門を入ってすぐ左の墓所に、旅籠屋を営んでいた小松屋源蔵の墓を囲むように39基の飯盛女(食売女・メシモリオンナ)の墓が、ひっそりと立ち並んでいます。天保六年(1835)当時、主に大鋸から遊行寺橋にかけて、27~28軒の飯盛女をかかえた飯盛旅籠屋がありました。飯盛女は、遊女に代わって出現した公認でないいわゆる私娼で、旅籠屋1軒につき2人までしか置けないことになっていました。なかにはそれを守らず数人の飯盛女を置いていたところもあったようで、実際には、全盛期で100人近い飯盛女が藤沢宿にいたとみられています。こうした女性たちの多くは、宿内や周辺の年貢課役に苦しむ農村、あるいは伊豆、遠江駿河等の出身で、借金の返済などのために働いていたのですが、その扱いはひどいもので、小松屋のように墓を建てて葬るというのは大変珍しいことでした。

義経首塚

 旧東海道(国道467号線)沿いのかながわ信用金庫とマンションの間の小道を入っていくと、公園の片隅に伝義経首洗い井戸があります。義経は兄頼朝に鎌倉を追われ奥州平泉に逃げていましたが、文治5年(1189)藤沢泰衡は亡父秀衡がかくまっていた義経を攻め、ついに衣川で義経を自刃させました。平泉から鎌倉に送られてきた義経の首は、首実検の後に片瀬の浜に捨てられたといわれています。潮にのって境川をさかのぼり白旗神社付近に漂着した義経の首を里人がすくいあげ、この井戸で洗い清めたということです。一説によれば、鎌倉に入る前に首実検に備えて化粧を施したとも、また、夜間に鎌倉方面から、首が目を見開いて亀の背に乗り飛んできたとも伝えられます。

白旗神社

 旧東海道(国道467号線)の白旗交差点を北に向かうと、藤沢宿西方面の総鎮守である白旗神社の大きな鳥居が見えてきます。古くは寒川比古命を祀っていたといわれます。

 また、奥州平泉で敗死した義経の首級は鎌倉で首実見された後うち捨てられ、これを里人が拾って井戸で洗い清め葬り葬られたと伝えられるところから、宝地三年(1249)義経も合祀するようになったといいます。例大祭には義経・弁慶2基の神輿が氏子町内をねり歩き、大変賑やかです。また、秋祭りに行われる市指定文化財となっている「湯立神楽」は、面をうけた山ノ神が道化を演じながら参拝者に餅をまくなど独特な神事として知られています。本殿に向かう石段の下には、さまざまな形態の庚申塔の一群が見られます。その中には、市指定文化財の庚申供養塔(寛文五年・1665)もあり、右側面に「此よりはちおうしかいとう」、左側面に「これよりほしのやかいとう」と刻まれ、かつて二つの道の岐路にたてられていたと推察されます。庚申供養塔群の片隅には、市指定文化財の江の島弁財天道標が1基あり、さらに境内藤棚近くに、芭蕉の『吉野行脚」の「草臥亭(くたびれて)宿かる此や藤の花」の句碑(文化二年銘・1805)がたてられています。境内に義経松、弁慶杉、弁慶力石があります。

草臥亭(くたびれて)宿かる此や藤の花 松尾芭蕉

 

 参考

『ちゃんと歩ける東海道五十三次』」(八木牧夫 山と渓谷

藤沢宿交流館ホームページ

www.fujisawa-kanko.jp

 

 ここまで読んでくださりありがとうございました。今回の記事は、藤沢宿交流館のホームページを参照させていただきました。「藤沢宿」交流館は、遊行寺の近くにあります。立ち寄るのをとても楽しみにしています。

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