てくてくわくわく 街道ウォーク

晴歩雨読。週末の東海道てくてく歩き&ときどき読書のブログです!

クローズアップ! 神奈川宿

 前回のウォークの最終目的地であり、次の出発点の「神奈川宿」。

 ただ通り過ぎてしまうだけでは、もったいない。

 

 最初は街道沿いに名所・旧跡をチェックすることをウォークのテーマにしていたのですが、3回のウォークをやってみて、宿場町のことをもっと知りたくなりました。かつて宿場町として栄え、今も人々が生活している街に、昔と今を結ぶ物語を見つけながら、感じながら歩いたら、もっともっと発見も楽しみも増えると思ったのです。

 というわけで、次回の出発点の「神奈川宿」について、早速「クローズアップ!ふむふむ」します。

 

 神奈川宿は、JR横浜駅の手前、京浜急行神奈川新町駅から神奈川駅にかけての南側一帯をいいます。

 ざっくりと横浜市街の南側海沿いといったところでしょうか。そう、江戸時代は東海道は海沿いの道でありました。「横浜」と言えば、♪みなとの よーこ よこはま よこすか~♪と歌いたくなってしまいますが(トシがばれますね・・・)、神奈川宿も神奈川湊という船着き場を持つ宿場町でした。陸路(東海道)と海路の中継地点として大いに栄えていたのです。

 また、行楽地としても人気があって、江ノ島へ観光に行く人、海沿いの東海道有数の景勝地(遠く袖ヶ浦まで望めたそうです)として、たくさんのお客さんでにぎわいました。最盛期には保土ケ谷宿の2倍の人口を抱える活気あふれる宿場町でした。

 神奈川宿が、いわゆる「港町横浜」へ大きく舵を切った出来事は、安政元年(1854)にアメリカと結んだ神奈川条約です。神奈川はアメリカをはじめとする諸外国から開港を迫られ、安政5年(1858)に日米修好通商条約が結ばれて横浜村の港を開きました。これにより、神奈川宿内のお寺が諸外国の公館として充てられて、横浜は一気に国際都市へと変貌を遂げていったのです。寺院に居住した人として、明治学院大学の創設者のヘボンや、聖書や賛美歌の翻訳で知られるブラウンがよく知られていますが、中にはこうした流れを快く思わない寺院もありました。本堂の屋根をはがし修理を理由に提供を断った良泉寺がその代表例です。実際、大幅に改造を加えて居住した例もあり、無理もなかったかもしれません。複雑な市民感情が窺われます。

 こうして、港町・国際都市の地位を確立した横浜ですが、その後、二度の大きな試練に見舞われます。関東大震災と横浜大空襲です。これにより、横浜の古くからの町並みの大部分が焼失ました。地元の人でさえ、東海道がどこを通り、宿場町の様子がどのようであったかを知る人は少なくなってしまったといいます。
 台町の坂は、当時の面影を見つけることができる数少ない場所だそうで、要チェックです!

 

♪街の明かりがとてもきれいね ヨコハマ ブルーライトよこーはま~♪

(あ、またまた、古い歌が出てしまいました。)

神奈川宿&横浜は、歴史に翻弄されて、今の大都会になったのです。

そう思うと、街の明かりも、ベイブリッジのライトアップも、隔世の感があります。横浜を見る目が、少し変わったかも。

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