9月24日(日)、1週間前のテンションが続いているうちに、早速2回目のウォークを実行しました。
当日は快晴、8時51分品川駅前に出発しました。
御殿山
諸大名の御殿があり、桜の名所でしたが、鉄道敷設に伴い削られたそうです。このマンション群の辺りをいうのでしょうか・・・ お花見でにぎわう江戸の人々の様子を思い浮かべながら通り過ぎます。
八ツ山橋
八ツ山橋を渡ります。東海道五十三次の宿場の名前を書いた石柱(現代のものです)が並び、街道ウォークの気分が盛り上がります。
問答河岸跡
徳川家光が東海寺を訪れ、河岸まで見送りに来た沢庵和尚に「海近く東(遠)海寺とは如何に」と問うと「「大軍を率いて将(小)軍というがごとし」と答えたということで有名です。なかなか情緒のある坂道ですね・・・
土蔵相模跡
高杉晋作等が御殿山の英国大使館焼き討ちの謀議をした大妓楼の跡。ファミリーマートの脇に案内札が立っていました。
鯨塚
寛政10年(1798)、品川浦の漁師によって捕獲された鯨の供養塔、鯨塚があるということで探したのですが、東海道を少し外れたところにあって、なかなか見つからず。最後はGoogleさんのお世話になりました(汗)。着いてみたら、こんな大きな鯨のオブジェがあって、小さな児童公園になっていました。
公園の中にあった、鯨塚の案内
北品川商店街を歩きます。この日は「しながわ宿場まつり」の日で、江戸時代の服装に扮した人が、ちらほら歩いていました。
本陣跡(聖蹟公園)
明治元年(1868)、明治天皇が東京行幸の際に宿泊されたそうです。現在は聖蹟公園になっています。この日はお祭りのため混雑していたので、全景の写真は遠慮して、公園入口脇の碑だけパチリしました。
荏原神社
南品川宿の鎮守様です。品川橋の北側すぐのところです。北品川と南品川の境目かな?
脇本陣跡
城南信用金庫品川支店の前が、脇本陣跡です。立て札がありました。
御嶽稲荷神社
小さなお稲荷さんが、街道裏にしっくりとなじんでいました。
長徳寺
境内に閻魔堂があるということで、そうっとお邪魔しました。
天妙国寺
日蓮の直弟子天目上人が開祖したとか。
天妙寺には五重塔があったそうで、これはその礎石です。
品川寺
この日の午後1時から、ここで火渡りが行われるそうで、立ち入り禁止となっていました。たくさんの人で混雑するそうで、早いうちに通ってよかった… 火渡りは相当熱いらしく、一般に公開するのはある程度冷めてからなんですって! 地元の方(?)が教えてくださいました。
釜屋跡
品川寺の向かいにありました。お祭りの出店の奥で、危うく見落とすところでした。お店の奥に入ってそうっとパチリしました。お店の人、ごめんなさい。
幕府の御用宿で、幕末には鳥羽伏見の戦いに敗れた新選組の一行が、ここに泊まったそうですが、この日は、ちょっとそんなロマンを感じる環境ではなかったですね…
千体荒神
ズバリ、火除けの神様です! 社殿に貼ってある大きな「火の用心」の札に目が吸い寄せられてしまいました。火の用心、大事です!
海晏寺(かいあんじ)の入り口道標
何気なく建っていますが、この道標、天保2年に再建されたものです!
海晏寺
北条時頼・時宗の供養塔、松平春獄・岩倉具視のお墓があるそうですが、中までは入りませんでした。
泊舩寺(はくせんじ)
品のいい門構えの向こうに、お地蔵さんが。門の外からそうっとパチリしました。
泊舩寺横の坂道、旧仙台坂(くらやみ坂)です。江戸時代、この坂の中程から上の方に、仙台藩主伊達陸奥守の下屋敷があったことから、そのように呼ばれるようになりました。
網元の家?
はっきり言って、ここを探すのはとても大変でした! 東海道沿いにある大きな古民家・・・のはずなのに、ないないない(´;ω;`) 最後はGoogleで「鮫洲 網元の家」で検索して、アップされている写真の隣のマンションと同じ建物を見つけました。「網元の家」はファミリーマートになっていました。周辺をぐるぐる回って25分経っていました。
残念ではありますが、時の流れは致し方ないと思います。せめて、「ここに網元の家がありましたよ」みたいな表示があればいいのだけれど。街道ウォークの人たちは、跡を見て、過去に思いを馳せるロマンチストが多いと思います(私もそう)。ここにあったと教えてもらえばなぁ・・・
鮫洲神社
「鮫洲神社、鮫洲神社・・・」と探しましたが、八幡神社しかなくて・・・。「鮫洲八幡神社」というのだそうです。見つかってよかった。
品川沖で獲れた鮫のお腹の中から現れた観音様が、海晏寺のご本尊となり、鮫の頭(さめず)は、この神社に祀られたそうです。
さっきの「網元の家」探しで疲れてぼんやりしてしまって、神社の場所が確認できたらほっとして、境内に中に入って説明板とかを探すのを忘れてしまいました。
泪橋(浜川橋)
気を取り直して、再び鮫洲商店街を歩いていくと、泪橋(浜川橋)にたどり着きました。鈴ヶ森刑場で処刑される罪人と縁者が泪で別れたという悲しい場所です。
天祖神社
この辺りの鎮守様だそうです。
浜川神社
これまた、ちょいとビックリ。危うく見落とすところでした。マンションかと思ったら! 写真向かって左手はマンション、右手に幼稚園。神社はマンション2階のルーフバルコニーに。
「浜川神社文書」は、品川区指定有形文化財です。
鈴ヶ森刑場跡 大経寺
「八百屋お七」等が処刑された刑場ということで、前日から気が重かったのですが、隣接する近代的な(現代的な?)お寺にホッとしました。浜川神社といい、こういう感じの、多いですねえ。
刑場跡です。首洗い井戸、火あぶり用鉄柱の丸穴石、礫用木柱の角穴石が残されています・・・といことですが、あんまり意識していなくて、見忘れました。忘れてよかったかも。
磐井神社
別名鈴ヶ森神社です。
叩くと金属音が鳴る石「鈴石」、鳥の模様が浮き出た自然石「鳥石」という社宝があります。どちらも屋内にあり、非公開です。下の写真は江戸の文人による石の由来を記した石碑です。
社の森が目立ったことから、「鈴石の森」→「鈴の森」→「鈴ヶ森」と呼ばれるようになりました。
銀杏の巨木の近くに井戸があり、心正しい人が飲めば清水、邪心があれば塩水になったといいます。特に説明はなかったのですが、これがその井戸の跡でしょうか?
美原不動尊
これより美原の商店街に入ります。美原はその昔、魚市場通りと言われ、大森で獲れた魚を売るお店が並んでいました。南原・中原・北原の三つを総称して三原といい、さらに美原というようになりました。
商店街には、今も海苔問屋さんがたくさんありました。日曜日でお店は閉まっていましたが、シャッターに江戸時代の町並みが描かれていて、楽しいです。
大森稲荷神社
説明書きによれば、五穀豊穣の神様として、この土地の人々が豊作祈願をしていたとか。こじんまりとした神社の境は、きれいに掃き清められていました。
するがや通り(羽田道)道標
内川橋です。
橋の脇にある、するがや通り(羽田道)の道標です。するがや通りは内川のたもとに旅籠駿河屋があったことに由来します。羽田弁天や川崎大師への参詣道でした。
道標より、するがや通りを見ています。これをたどって、川崎大師まで、行ってみたい気がします!
西南日清戦役碑
大森警察氏の裏手に、山県有朋の筆による立派な碑があります。ここはかつて、大森村(町)役場、大森区役所があった場所でもあります。
貴舩神社
大森警察署から先は、第一京浜の歩道をひたすら歩きます。貴船神社は、旧大森村のうち、東海道に面した本宿の鎮守様であったそうですが、現在、第一京浜の拡幅工事中で更地が多く、なんとなく殺風景な中にポツンとありました。背後に見えるのは、京浜急行の高架です。
小堂?
貴船神社の隣に、閻魔大王と延命地蔵が安置されている「小堂」があるということだったのですが、またまた見当たらず・・・。位置的にはたぶんここです。工事に伴い、別のお寺などに移転したのでしょうか。
梅屋敷跡
文政の頃、ここに旅の常備薬「和中散」の販売所を出していた山本忠左衛門が、梅の木をたくさん植えて茶屋を開いたことに始まると言われています。特に梅の時期には多くに人でにぎわいました。徳川家の将軍をはじめ、明治になると、明治天皇も何度も立ち寄られています。
現在では梅屋敷公園になっています。ちょっとさびれた感じですが、中に入ると、文人たちなどの句碑が並び、説明板も充実していて、結構充実しています。
夫婦橋
呑川に架かる橋。その昔は、脇に六郷用水も流れて、二つの川に二つの橋が並んでいたために、夫婦橋と呼ばれました。
熊野神社
境内には稲荷神社と力石があります。地図によれば、第一京浜から一本入ったところにあるようだったので、入口を探すのに少し迷いました。
お参りした後、細い参道を発見したので、歩いてくると第一京浜に出ました。ちゃんと旧東海道から入る参道が残されていたんですね。振り返ってみたら、ちょっといい感じでしたので、思わずパチリしました。
六郷神社
六郷一円の総鎮守です。源頼家・義家が、この地で白旗を掲げて軍勢を募り、岩清水八幡宮に武運長久を祈ったことを起源としています。広い境内に立派な社殿で、風格のある神社でした。
境内の手水石は源頼朝が奉納したものだそうです! ずいぶん古いものが残っているのですね。
寶珠院
玉川八十八カ所霊場八十五番札所です。玉川の札所って初めて聞きました。ちょっと興味が・・・
観乗寺
日蓮宗のお寺だそうで、詳しことはわかりません。ちょっと入りづらい雰囲気だったので入口からそうっと中の様子を見させていただいて、失礼しました。
北野天神
徳川吉宗の乗る馬が暴れだし、あわや落馬かというところを、天神様のご加護で止めたということで、その名も「止め天神」です。新六郷橋のたもとにあります。ようやくここまで来ました!
新六郷橋
新六郷橋を渡ります。車道の横に歩行者用の道がちゃんとあります。
徳川家康は、関ケ原の合戦の前に「六郷橋」を架けましたが、元禄元年(1688)の洪水で流され、以来、明治に入るまでは架橋をやめ船渡しになりました。渡船は川崎宿が請け負うことになり、渡船賃金は、川崎宿にとって大きな財源になりました。
新六郷橋から見た多摩川です。ゆったりとした眺めに、しばし疲れが癒されます。
明治天皇六郷渡御碑
明治元年(1868)、明治天皇が船橋で渡河したのを記念する碑です。
万年横丁・六郷道道標・万年屋跡?
川崎宿の旅籠、万年屋の跡があるらしいのですが、はっきりわかりませんでした。跡地かと思われる場所の向かいに、川崎宿と旅籠についての説明板がありました。
万年屋跡、この辺りでしょうかね? 万年屋は、川崎宿んぽ旅籠の中でも特に有名で、万年屋が出す奈良茶飯は美味しいと評判だったそうです。どんなご飯だったのでしょうね?(ちなみに、かわさき宿交流館で、奈良茶飯の素というのを売っていたので買ってみました。いずれ、報告しますね。)
新宿説明板・旧東海道石標
川崎宿は東海道の他の宿場より遅れて作られたので、新宿と呼ばれていたようです。川崎宿では、このような細長い説明板が随所に設置されていて、街道歩きの助けになりました。通行量の多い生活道路で、邪魔にならないように細長に作ってある配慮に、細やかさを感じます。
川崎宿の旧東海道は、活気のある商店街です。当時の賑わいが、なんとなく重なる気がします。
田中本陣跡
これは見落としません。大変わかりやすい親切な表示ですね。
田中本陣跡。本陣というからには、立派な建物があったのでしょうね。タイムスリップして、見てみたいなあ・・・
助郷会所跡
近隣の農村から徴用された人や馬が集められていたところです。和菓子屋さんですが、ちゃんと案内板が出ていました。写真向かって右端の細長い板が見えますか?
宗三寺
敷地内の墓地に、遊女の供養塔があるとのことでした。
中の本陣跡
この付近にあった惣兵衛本陣は、田中・佐藤両本陣の中間にあったことから「中の本陣」と呼ばれていましたが、江戸後期に廃業となりました。
問屋場跡
中の本陣の向かいにあります。天馬人足、飛脚、本陣の休泊など、宿場業務を監督するのが問屋場です。セブイレブンの脇に、例の細い案内板が立っていました。たとえ味気ない(すみません・・・)コンビニになっていたとしても、こうした案内板を見ると、川崎の町の、歴史への愛のようなものを感じます。川崎には今回、大変好感が持てました。
佐藤本陣跡
川崎信用金庫前に佐藤惣之助生誕の地碑があるとのことのことでしたが。このようなちょっとした休憩スペースになっていました。
碑らしきものはこのくらいしか見当たらず。もっと近くに寄って確認したかったのですが、ちょうどその前に座ってスマホをチェックしている人がいたので断念しました。
小土呂橋碑
ようやく本日の終着点に着きました。この通りに、かつて、なんと幅5メートルもある流れがあったそうです。その堀が東海道と交わるところに架かっていたのが小土呂橋です。
時刻は16時42分になっていました。品川を出発したときはあんなによい天気だったのに、薄暗くなりかけていました。これからは日が短くなる一方なので、要注意ですね。出発をもっと早くするとか、対策しないと。
昼食休憩55分をはさみ、7時間51分、34634歩の街道ウォークでした。