てくてくわくわく 街道ウォーク

週末の東海道てくてく歩きのブログです!

 浮世絵ウォーク 平塚

広重さんの「東海道五十三次」(保永堂版)と街道をめぐるための事前チェック。今回は「平塚縄手道」の画です。

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 平塚宿の境界を示す杭が道の手前に立っているところから、平塚宿を抜けて大磯へ向かう道を描いているものと思われtます。平塚宿と大磯宿の境は金目(花水)の辺りだったので、現在地は花水橋の辺りか?

 街道は田んぼ道(縄手道)となり、田んぼの中を蛇行しながら大磯へと向かっているようですが・・・実際にはこんなにジグザグではなくて、広重の構想によるものとも考えられています。ジグザグにすることで奥行きを深くし、画面三分の一ほどに地平線が設定される低い視点にすることで、正面のもっこりとした丸みを帯びた高麗山が高々と仰ぎ見られるような効果を生み出します。背後の富士山を小さく描くことでも高麗山の大きさを増大させています。また、高麗山の山裾が淡くぼかされているため、田んぼがどこまでも続いているような感じも生まれています。路傍の松の大きさを三段階に描き分ける遠近法も忘れません。写実的のようで実はなかなかのテクニシャン、いつものことながら広重さんに脱帽です。

 広重さんの画と言えば、画中の人物にストーリーがあるのも見どころの一つ。ここでの主役は街道を仕事場とする男たち。手前の後ろ向きの二人連れは駕籠かきです。客を見つけられず、空の駕籠を担いでいます。一人の男が肩に担いでいる長い棒は駕籠に通して使うものですが、ここでは抜き取られ、二人の笠がぶら下がっています。反対方向からやってくるのは平塚宿へ向かう飛脚。上半身裸で鉢巻を閉め、口をぐっと結んで、気合をみなぎらせて走っています。まさに仕事中! 客が見つからずとぼとぼよあるく駕籠かきとすれ違う瞬間です。対照的な両者を描くことで、広重は何を訴えたかったのでしょうか? 

 右手の角ばった山は、信仰の山として有名な大山です。大山と富士山と高麗山と。三つの山が描かれた贅沢な構図からして、広重さんが一番描きたかったのは、山なのかもしれないとも思えてきます。実際、高麗山の山肌の描き方は特筆するに値するものです。横長の点がたくさん打たれていますが、これは北栄の山水画に始まる、米点と呼ばれる表現を取り入れたものです。広重さんが米点の由来を理解していたかどうかは不明ですが、山岳表現の一手段として身につけていたことは確かです。広重さんは、新しい手法をこの画で試してみたかったのかもしれませんね。

 

【参考】

『広重と歩こう東海道五十三次』安村敏信 岩崎均史 小学館

『謎解き浮世絵叢書 歌川広重 保永堂版東海道五十三次』町田市立国際版画美術館 二玄社

 

 ここまで読んでくださってありがとうございました。次回も広重さんの浮世絵「大礒 虎が雨」について書きます。また、訪ねて来てくださると嬉しいです。

 

 

 

 


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クローズアップ! 大磯宿

 箱根駅伝を見ていると、今まで通った道、これから通る道が映って、面白いです。大磯、もうすぐ行くからね!と思いながらこのブログを書いています。(ちなみに、今は、1月2日です)

 早速、大磯宿をクローズアップ!!

 

 大磯町は、相模湾や高麗山、鷹取山などの豊かな自然が暮らしの場に近接しており、また、長い時間をかけて郷土が培ってきた伝統や文化が大切に受け継がれることによって、自然的、歴史的、文化的に魅力のある町として発展してきました。 古代までさかのぼることができるその歴史とは・・・

 

古代・中世~近世以前

 大磯町には数多くの遺跡があり、発掘調査などによって多くの資料が出土しています。

 大化改新後の大宝令(702年)によれば、余綾郡伊蘇郷(大磯・西小磯・東小磯)と、同余綾郷(国府本郷・国府新宿)、大住郡高来郷(高麗)の、2郡3郷から成っていたことが知られています。「大磯」の初見は、正倉院御物の中の天平10年(738年)の墨書銘で、「大磯郷」の文字がみられます。
 平安時代になると、相模の国府が置かれ、文字どおり地方政治の中心地として活況を呈しました。
 やがて、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、距離的に近いせいもあり、大いに栄えました。戦国時代には、高麗山や王城山、城山などの自然の要害が、小田原北条氏の衛星的な出城として活用され、軍事用の道も整備されました。なお、鎌倉時代初期の曽我兄弟の仇討ちを題材にした軍紀物『曽我物語』で知られる曽我十郎と大磯の遊女虎との伝説を偲ぶ史跡が、多く存在しており、街道ウォークでは是非、チェックしたいところです。

 

江戸時代

 大磯は鎌倉時代から古東海道の宿駅であり、鎌倉郊外の保養都市(若殿輩の遊び場)でしたが、その後、徳川家康が江戸に幕府を開くと、東海道が整備され、それまで御獄神社の前の官道(鎌倉・古東海道)を通っていた人々も東海道を通るようになり、官道沿いの人家も次第に東海道沿いに移転するようになりました。

 元和6年(1620)には、尾上本陣の祖先市右衛門が大名宿を始めましたが、これが大磯宿の始まりとされています。
 さらに寛永12年(1635)に参勤交代の制度が実施されると、大名行列をはじめ東海道の往来が一層はげしくなり、大磯宿も起点の日本橋から八番目の宿場として大いに賑わいをみせました。

 ちなみに、古花水といい、かつての花水川の流路であった場所が、平塚宿の西の境です。古花水には長さ六間(約11メートル)の土橋が架かっていました(現在は暗渠)。ここから東海道は高麗寺村、大磯宿、加宿東小磯村、西小磯村、国府本郷村、国府新宿、二ノ宮村といった村々を貫いていました。

 

明治以降

 明治維新により大磯は宿場町としての機能を失い、一時期、衰退の一途をたどりました。

 しかし、転機は訪れます。明治18年(1885)、初代・陸軍軍医総監を務めた松本順が、西洋医学における先端医療のひとつとして、「海水浴」を推奨し、照ヶ崎海岸に海水浴場が開設されました。

 また、明治20(1887)年には、大磯駅が開業しました。当初は平塚から国府津までの間に駅は必要ない、という計画でしたが、松本順が当時の初代・内閣総理大臣・伊藤博文に相談し、大磯駅が誕生します。明治30(1897)年には、伊藤博文が温暖な大磯の気候が気に入り、居を移しました。これに続き、歴代総理大臣(大隈重信、加藤高明、西園寺公望、寺内正毅、原敬、山縣有朋、吉田茂)ほか、多くの政財界の重鎮たちの別荘が数多く建築され、保養地としての大磯の名が全国に広まりました。大磯駅前には、優良避暑地第1位を示す「海内第一避暑地」の石碑があります。

 

戦後~現代

 戦後は、吉田内閣の成立と長期政権により、大磯町の第一歩が踏み出されました。

 吉田茂は、養父・吉田健三が購入した邸宅で幼少期より過ごし、首相在任中には週末を過ごし、退任後には隠棲しました。退任後も政治への影響力は絶大で、多くの政治家が吉田のもとに通い、「大磯詣」と称されたほどです。

 宿場町から避暑地へ、華麗な転身を遂げた大磯町ですが、国の重要無形民俗文化財に指定されている小正月行事の左義長をはじめ、相模国の有力神社が集まる国府祭、豊漁を願う御船祭、子どもたちによって受け継がれてきた西小磯の七夕行事など、四季を通じてさまざまな民俗行事が今も行われ、人々が守り育んできた文化や暮らしぶりが伝えられています。

 自然と調和した首都圏近郊都市・大磯町は、平成元年には町制施行100周年、平成16年には、合併50周年を迎えました。平成29年10月1日現在、12,491世帯、31,449人です。

 

 各時代ごとに花開いた文化を随所に残す、リゾート地へ華麗なる転身を遂げた大磯宿

という理解でいかがでしょうか?

 

 ここまで読んでくださりありがとうございました。明日は、浮世絵についての記事をアップします。また訪ねて来てくださると嬉しいです。

 

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【参考】

大磯町ホームページ

大磯町ホームページ

大磯町観光協会ホームページ

http://www.oiso-kankou.or.jp/entry.html?id=27562

大磯町の観光情報サイト イソタビドットコム

http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/look/index.html

 

 


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先取りふむふむ 平塚→大磯

 あけましておめでとうございます。本年も当ブログを、どうぞよろしくお願いいたします。

 今年1年で、どこまで歩みを進めることができるでしょうか。早く行きつきたい気持ちもありますが、ひとつひとつ丹念に観たいという思いもあります。一回のウォークで、その日の終着点に行きつくために先を急ぐか、時間を割くか、ペース配分を上手にするために事前チェックは欠かせません。

 というわけで、早速、今年初のウォーク、平塚→大磯の「先取りふむふむ」を始めます。

 

 

お菊塚

 お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の一人娘で、怪談「番町皿屋敷」のヒロインとして伝えられています。
 江戸時代から当地に伝わるお話は【お菊は、平塚宿の役人・真壁源右衛門の娘で、小町と呼ばれるほど器量の良い娘さんだったそう。行儀見習いのため江戸の旗本・青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことあって菊を斬殺したといいます。また一説によると、主膳の家来がお菊を見染めたが、菊がいうことをきかないので憎しみの余り家宝の皿を隠し、主人に菊が紛失したと告げたので、菊は手打ちにされたとも伝えられています。お菊、24歳。すみれが咲きだす旧暦2月のことだったと言います。死骸は、罪人の例にならって、長持に詰められて江戸から平塚宿まで送り返されてきました。 馬入の渡しで娘の遺体と対面した源右衛門は、「もの言はぬ 晴れ着姿や菫草」と句を詠んで悲しんだそうです。そして、先祖の墓側に埋め、処刑人の例にならって墓標をたてずに栴檀の木を植えました。】
 ここまでが言い伝えられてきたお話です。その後、昭和27年の秋、戦災地復興の区画整理のためにこの墓所が移転されることになり、空襲で焼けた栴檀のやけぼっくいの下を発掘したところ・・・やや小ぶりで歯並びの揃った頭蓋骨が出てきました。小柄で器量よしだったというお菊さんを彷彿させる頭蓋骨だったそうです。

 「お菊塚」がある紅谷町公園は、お菊さんのお墓があったお寺の旧墓域だった場所です。

 なお、この事件を伝える当時の資料は残されていません。類似した話は全国に分布して存在し、平塚のお菊の事件があったされる元文5年以前にも「皿屋敷伝説」は存在していたそうです。これらから考えると、平塚のお菊事件の実在は定かではないとも言えます。

 

 

江戸方見附跡

 現在、平塚市民センターのところに江戸方見付跡の碑が立っています。

 各宿場の両端には、城門に似た「見附」が設けられており、一般的に江戸側の出入口にあるものを「江戸見附」、京都側にあるものを「京方見附」とか「上方見附」「京口見附」と呼んでいました。
 現在、その名も見附町に復元されている「江戸見附」は、明治初期に駐日イタリア公使のバルバラーニ伯爵が母国に持ち帰った写真をもとに復元されたものです。

 長さ3.6㍍、幅1.5㍍、高さ1.6㍍の石垣が再現されています。石垣の上には竹矢来が組まれており、ここまで忠実に再現された見附は東海道には存在しません。

 なお、見附は宿の端に置かれましたが、必ずしも宿駅の境界ではなく、宿駅境界は木柱の傍示杭を建植して示しました。

 

 

八王子神社

  事前情報なし。当日のお楽しみ。

 

脇本陣跡

 脇本陣は本陣の補助的な役目をし、大名や公家の家来など、身分の高い人が利用しましたが、特権階級の宿泊のない時は農民や町民など庶民も泊まれたのが特徴です。

 

高札場跡

  高札場は幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した札を掲示した場所を言います。

 

東組問屋場跡

  問屋場は二十四軒町と西仲町にそれぞれ1カ所ありました。宿役人は問屋3名、年寄6名、帳付11名、馬指6名、人足指6名で構成され、二十四軒町と西仲町の問屋場に毎月10日毎に問屋1名、年寄1名、帳付3名、馬指2名が交替で勤めました。

 

本陣跡

 参勤交代の大名のほか勅使、宮門跡、公卿、公用幕府役人などが休泊する大旅館を本陣といいます。

 平塚宿本陣は、代々加藤七郎兵衛を名乗っていました。記録によれば、建坪163坪、座敷数が20あり、門・玄関・上段の間が取り付けられていました。他宿の本陣より小規模であったことから、主として宿泊より小休のために利用されたと考えられます。

 現在は、神奈川銀行平塚支店の一角にその史跡碑があります。

 

宝善寺

 事前情報なし。当日のお楽しみ。 

 

西組問屋場

 問屋場(といやば)とは、幕府の公用旅行者の荷物の運搬や馬の手配を取り扱う場所で、駅・役所・警察の役目も負っていました。西組は1601年に西仲町に置かれました。

 その後、参勤交代によって東海道の交通量が激増したため、平塚宿は隣接の八幡新宿への加宿を幕府に願い出て、その際、東組問屋場が、1651年に増設されています。
 西組問屋場跡地の江戸風の建物は、宿場を模して建てた消防団のものです。

平塚跡

 平塚は、なぜ平塚と呼ばれるようになったのか・・。その由来とされるのが「平塚の塚」です。
 言い伝えによると、ときは平安時代の中期、天安元年(西暦857年)のこと。桓武天皇の孫に当たる 平 真砂子(政子)というお姫さまが、京都から東国に下る途中に、この地でお亡くなりになりました。その柩を埋めて塚を作ったところ、塚の上が平らであったことから「平塚」の地名が起こった・・・というものです。
 その遺構とされる塚が、「平塚の塚」として今もあります。

 *近くにある「原田家の石造りの土蔵」要チェック

 

上方見附跡

 各宿場の両端には、城門に似た「見附」が設けられており、一般的に京都側にあるものを「京方見附」とか「上方見附」「京口見附」と呼んでいました。平塚宿では京方見附と呼ばれています。

 

花水橋

  平成の一里塚があるということですが・・・?

 

善福寺

 親鸞聖人は、度々相模国・国府津を訪れ、近隣の人々に念仏を勧められていたといわれています。その聖人が国府津に留杖の折り、教化を受けた平塚入道によって開基されたお寺です。

 平塚入道とは… 父は曽我十郎、母は虎御前 で、俗姓を曽我十郎祐成の子祐若 ( すけわか ) と言いました。父の曽我十郎が仇討ちという本懐を遂げたとき ( 『曽我物語』 ) 、すでに母である虎御前 ( 虎女 ) は懐妊中でした。そして事件のあとに生れた男の子が、祐若でした。成長して源実朝より平塚の荘を賜り、河津三郎信之と名のりました。ところがつらつら思うに、父祖いずれも天寿を全うせず悲運の最期を遂げし因縁を考えてこの世の無常を感じ出家。平塚入道法求禅門 ( ひらつかにゅうどうほうぐぜんもん ) と名のりました。この時期、親鸞聖人もたびたび国府津を訪れており、1229年、平塚入道は聖人のもとを訪ね、直ちに弟子となり「了源」という法名を賜り、母・虎御前の生地の近くであるこの地に草庵を結んだのが、善福寺です。

 善福寺では、寺伝にしたがい木造伝了源坐像を親鸞聖人坐像としてお給仕されています。開基了源の坐像。鎌倉時代後期の作です。神奈川県には寺院も多く禅宗の頂相彫刻はかなりの数が見られるが、浄土宗系の肖像彫刻はきわめて作例が少なく、本像はそうしたもののうちでも、もっとも古いものと思われ、地方作的なくずれ、肖像彫刻に多い類型化も見られない、本格的な作として貴重な例です。

 境内に岩山がありますが、そこにある横穴式古墳は縄文時代の遺跡で、現在8個残っています。 楊谷寺横穴墓と同じ7世紀後半から8世紀始め頃に造られたものだと推定されています。

 

 

茅葺の旧家

  果たして、残っているかどうか・・・?

 

慶覚院

  高麗寺の末寺で、本尊千手観音菩薩は海中より出現した秘仏と伝えられています。

 高来神社境内に、かつて大磯宿にあった慶覚院が移転していて、この慶覚院に、県重要文化財に指定された建治四年(1278)三月造立の木像地蔵菩薩坐像があります。

高来神社

 高麗神社ともいわれ、神功皇后の三韓征伐のころ、武内宿彌(たけうちのすくね)が三韓の神を移したと伝えられていますが、実際には高句麗からの渡来人が創建したと考えられています。その変遷は・・・

  717年僧行基菩薩がこの地を訪れ、高来山に登って千手観音像を本地仏として高来寺を創建したとあります。鎌倉時代になり朝鮮半島で高麗王朝が繁栄し、朝鮮を高麗と呼んでいましたが、この頃より高麗寺と呼ばれるようになりました。明治元年の神仏分離によって、高麗寺は特定の檀家を持っていなかったのと東照権現を祀ってあったため廃寺となり、お寺の一切の仏像関係は現在の慶覚院に移され、明治30年高来神社へと改称しました。

  神社入口大鳥居の右側にある 高来神社の石碑は、徳川頼倫侯の麗筆です。
 徳川頼倫侯とは・・・紀州徳川家城主、徳川茂承が高麗に土地を購入し別荘を建てたので、高麗山のふもとの人は紀州徳川家の別荘を紀州さんと呼んでいました。 頼倫侯は紀州徳川家の14代目です。

  境内には力石があります。江戸末期には大磯海岸で若者たちが集まって力競べが行なわれていました。大きい石を両腕で持ち上げる競技があり、高麗の若者が優勝しました。丸い型の大石を 女石 といい、長い方を男石と名づけています。

 境内の古木にも注目。 樹幹の心材が枯死腐朽し空洞化しているスタジイの古樹の凹部に,ヤブニッケイが密着生息しているものです。樹齢はスタジイが推定400年、ヤブニッケイは100~150年です。このような例は各種各様のものがありますが、外観が完全に一本の樹に見え、しかも違和感なく一本化した樹は大変めずらしいものです。町の文化財に指定されています。

 

虚空蔵堂

  虚空蔵と熊野権現を祀っています。ここには下馬標があり参勤の大名は東照権現が併祀された高麗寺に最敬礼をしました。

 

高来神社上宮

 平塚宿から、西の大磯宿に向かう正面に、お椀を逆さにした形のこんもりした山、高麗山(こまやま)があります。
 この山にからんで、今に伝わる「留め女」のエピソードがあります。
 「留め女」は旅籠の女中さんで、客引きもするのですが、夕刻が近づきだすと客引きをする留め女たちが旅人を奪い合う光景が宿場内でよく見られました。江戸から京へと急ぐ旅人の袖をつかんでは、 「あの山を越えないと大磯宿には行けませんよ!」と、往く手に見える高麗山を指さします。その山を見た旅人は、これは確かに越えるのは難儀しそうだと宿泊を決めるわけです。実際は、山の周りの平坦な道を歩くだけなのですが。その様子を美人画風に描いた錦絵が 歌川国貞の「東海道五十三次之内・平塚図」です(夕ぐれに提灯を手にした留め女 背景に高麗山が描かれています)。
いまも東海道から、高麗山が昔と変わらぬ風情で見えており郷愁を誘います。

 

化粧井戸 

  『曽我物語』の主人公、兄の曽我十郎の恋人である虎女にまつわる旧跡です。
 虎女は17歳で大磯の菊鶴という長者にもらいうけられ遊女になりました。 当時の遊女とは江戸時代のような零落した女性が行き着く暗いイメージではなく、むしろ知識人であり歌舞などの技芸を厳しく躾られ、時には教養も身につけた女性たちであり、神聖な存在として巫女の代わりをするようなこともありました。虎女は十郎が仇討ちの本望を遂げ命を落とすまでの2年間及び63歳で生涯を閉じるまでの晩年を大磯の地で暮らしています。その虎女が化粧をする際に使用した井戸、それが化粧坂の東海道松並木にある化粧井戸です。

化粧坂の一里塚

  化粧坂(けわいざか)の中ほどに一里塚跡があります。海側には紫梅・檀木、左側は榎が植栽されていました。

 

松林

  慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に勝利をおさめた徳川家康は、慶長6年には東海道に宿駅の制度を設け、その整備を行っています。次いで慶長9年には、36町を一里(約3.9㎞)として一里塚をつくり、街道筋にはマツやエノキなどが植えられました。大磯町内の化粧坂や中丸にあった一里塚、山王町の旧道、大磯中学校前、中丸付近の松並木はこの時に整備されたものです。一里塚や松並木は旅人の休息の場となり、旅程の目安になる大切なものでした。

 化粧坂の松並木は、いずれも見事な松で、中には海風により大きく傾斜しているものもあって、海岸の旅の厳しさを感じさせます。

 

江戸方見附跡

 各宿場の両端には、城門に似た「見附」が設けられており、一般的に江戸側の出入口にあるものを「江戸見附」、京都側にあるものを「京方見附」とか「上方見附」「京口見附」と呼んでいました。

 

日枝神社

  境内に多数の庚申塔があります。

 

三沢橋

  事前情報なし。当日のお楽しみ。

 

神明神社

  神明町の地名由来となり、神明町の氏神として信仰を集めました。

 

 ここまで読んでくださり、ありがとうございました。明日は、「クローズアップ! 大磯宿」をアップします。また、訪ねて来てくださると嬉しいです。

 

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【参考】

『ちゃんと歩ける東海道五十三次』八木牧夫 山と渓谷社

平塚市観光協会の観光情報サイト 湘南平塚ナビ

http://www.hiratsuka-kankou.com/guidemap.html?id=5398

平塚市ホームページ

平塚の文化財 | 平塚市

平塚市博物館ホームページ

www.hirahaku.jp

国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所ホームページ

平塚宿を歩く

大磯町観光情報サイト イソタビドットコム

http://www.town.oiso.kanagawa.jp/isotabi/index.html

 


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お土産 茅ヶ崎→平塚 食べてみた!

 茅ヶ崎→平塚で買ったおやつあれこれを、以前にアップしていましたが、食べてみたのでご報告します!

 

www.lupinus-shiroyagi.com

 

 

小林の落花生
 

お店のイチオシ「味付落花生」

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 お店独特の秘密の味付ということでしたが・・・

 秘密というより、シンプルな塩味。とてもほどよい塩味です。塩加減が絶妙。文句なしに美味しい。薄皮ごと食べてくださいとのことでしたので、そのようにしましが、皮によくある苦みが全くなくてびっくりしました。もっと大きな袋で買ってきてもよかったな。

 

衝動買いしてしまった「ほととぎす巻」

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 袋から出してみたところです。小さめ。お箸の先で軽く持てるくらい。

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 温かいごはんとどうぞということでしたので。

 食べた後の辛子の辛さで「ヒイー」となるところがほととぎすの鳴き声に似ているのが名前の由来だというので、ビビッて食べてみましたが、大丈夫。

 基本は甘いピーナッツ味噌味をシソの葉で包んだもの。アクセントに辛子。

 家族の一人は、「ピーナッツ味噌味だけの方がいい。」と言い、もう一人は、「後から辛さがツーンと来た」と訴えましたが、私は、甘味噌と辛子の絶妙なバランスが好きです。とても美味しいと思う。ただし、家族でパクパク食べたのは私だけでした・・・



でかまん菓子舗

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 お店の目玉商品、のし餅大の「でかまん」ではなく、手のひらサイズですが。

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 中は、つぶあん。早速パクリ。ん、美味しい。特に皮が美味しい。歯ごたえがあって美味しいです。大きいのも、いつか食べてみたいな。

 

 ここまで読んでくださってありがとうございました。

 これをもって、今年最後のブログにいたします。来年もまた、どうぞよろしくお願いいたします。また、訪ねて来てくださると嬉しいです。

 


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街道ウォークのお宝 茅ヶ崎→平塚

  旅先でパチリした説明板の写真の数々は、歩いて得た貴重な情報。今回もそんな旅のお宝をアップします。旅の記録「第8回茅ヶ崎→平塚」①②の補足になります。併せてご覧ください。

www.lupinus-shiroyagi.com

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海前寺

 

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 江戸時代は封建的で気の毒な話が多いかと思いきや、こういうちょっといい話(見逃してくれるとか、今回のウォークの最後の丁髷塚みたいにうまく取り計らってくれるとか)が散見していたりします。こんなこぼれ話、いつか集めてまとめてみたいなぁ。

 

八王子神社

 

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 第二次世界大戦で供出された鐘についての説明です。


一里塚跡

 

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 判読しにくい写真ですみません。現存する一里塚と道路を挟んで向かい側にあった説明板です。平成22年にポケットパークとして整備して、かつてのように榎の木を植えてみたと書いてあります。一里塚はどこも9㍍四方と決まっていたという説明にも、へぇぇぇ・・・と思ってしまいました。ちゃんと規格があったのかぁ!



旧寛永寺石燈籠

 

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  かつて徳川家に献上されて上野の寛永寺にあった石灯籠が戻されてここにあります。寛永寺には、まだまだたくさん石燈籠があるのでしょうか。今度、見てみようか・・

円蔵寺

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 なぜ、このお寺が、乃木希典関連のものをあれこれ置いているのか、今になって疑問がわいてきたのですが、よくわかりませんね。碑の写真が鮮明でないのも残念。情報用の写真は鮮明に撮らなくてはと反省。

 

第六天神社

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 第六天様についての説明がおもしろいです。西日本に皆無に近く、神奈川県内でも二社しかないという珍しさ。織田信長が信仰したことから強靭な神様だと言われているそうです。

 

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 このお寺は、江戸無血開城の功労者の一人、山岡鉄舟の掛軸があることで有名です。

説明板の鉄舟の人生訓、しげしげと読んでしまいました。しごくまっとうな、真面目な方ですね・・・ 掛軸には、この人生訓が書いてあるのでしょうか。

 

金剛寺

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南湖の左富士碑

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 静岡県の吉原にも、富士山が左側の見える場所があるのですね。どんなところなのでしょう? いつか行きますよ。


鶴嶺神社と参道

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 参道の記念碑です。またまた読みにくくてすみません。

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 大イチョウについては、神奈川県のものと茅ヶ崎市教育委員会のものと、説明板がふたつ。

 

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 参道の途中にあった歴史広場、なかなか説明板が充実していました。

 

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 昔の絵葉書の写真、面白いです。鳥居の写真、東海道と参道の様子がよくわかります。

 

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 鳥居の脇で遊ぶ子どもに、目が釘付け・・・

 

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神明神社

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 またまた読みにくい写真ですみません。逆光なもので。撮り方に工夫が必要ですね。

 

旧相模川橋

 

ここは国の指定文化財なので、相当力を入れて、公園を整備しており、説明板も豊富でした。でも残念なことに、説明が足元のタイルだったりするせいか、泥をかぶっていたりしてきれいな写真が撮れません。一応アップしておきますが、判読不能なもの多数。次回から、使い捨てミニハンディモップをリュックに忍ばせて行こうか・・・ 説明関連の写真撮影に必要かも!

 

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上国寺

 

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信隆寺

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「本堂の御本尊様にまず合唱」という一文に「そうだそうだ」と感じ入りました。まずご挨拶して、それから見学。この心得大事。

 

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明治天皇馬入御小休所思址碑

 

 説明板が日陰になったりして読みにくいので、2枚アップしました。読みやすさはどっちもどっちですね。二つで補い合ってお読みください。

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陸軍架橋記念碑

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馬入の一里塚

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 塚の跡は全く残っていませんが、こうして丁寧な説明板があるのは、とてもありがたいです。

 

丁髷塚

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 鉄砲宿での開墾を見逃してくれた海前寺の佐々木卯之助に続き、今回二つ目の、ちょっといい話。

 

 ここまで読んでくださりありがとうございました。今回、何より反省したのは、写真の撮り方のまずさ。もっと腕を上げねばと思います。

 


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「まちなみ」ウォッチ 茅ケ崎→平塚

 街を歩きながら、「ん?」と気になった場所や、心に残った風景をアップします。名所・旧跡などの事前のチェックポイントでの「ん?」は、基本ここには含まれません。それでは、早速、茅ヶ崎駅からスタートします。

 

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 平塚駅北口です。

 ロータリーに出ると手形のモニュメントが。写真中央の男性のすぐ右に台があるのがわかりますか? 茅ヶ崎ゆかりの有名人の手形のモニュメントの台です。こうしたモニュメント台が、たくさんありました。

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 気になる有名人の方は・・・

 

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 「海その愛」加山雄三さん。なるほど。

 

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 「きぼうの未来圏へ」宇宙飛行士、野口聡一さん。

 野口さんは、茅ヶ崎の出身だそうです。

 

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 「温故知新」歌舞伎俳優・12代目市川團十郎さん。

 曾祖父にあたる9代目市川團十郎さんが市内に別荘を持っていたそうです。

 

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 「宇宙をめざせ」宇宙飛行士・土井隆雄さん。

 宇宙飛行士の方、二人目。

 

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 この街道ウォークでは、マンホールのふたの写真をコレクションしています。他のことに気を取られ、忘れてしまいそうですが。

 茅ヶ崎と言えば、やっぱり湘南、海ですね。

 

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 海前寺を探していると、「とうふや」という看板が、ありました。門前のお豆腐屋さんでした。京都の南禅寺を、ふっと思い出しました・・・

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 山門を入って左にお豆腐屋さんがありました。この日は残念ながら定休日でした。どんなお豆腐を売っているのか、ちょっと気になりますね。

 

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 本村の交差点の近くに大きな木がありました。「タブノキ」だそうです。説明板の写真をアップします。

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 海前寺から八王子神社へ向かう、街道の一本裏の細道です。なんとなくいい感じだったのでパチリ。

 

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 旧家とおぼしきお宅の立派な門も、そうっとパチリ。

 

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 十間坂の交差点です。実際の十間坂は、もう少し先かも。100円ローソンの向かいに、「湘南クッキー」の自動販売機というのがあったので、横断歩道を渡って見に行きました。

 

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 この建物の中に、クッキーの自動販売機が、たくさん並んでいます。ど・れ・に・し・よ・う・か・な。

 

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 お店の外にも、自動販売機。カラフルな塗装が目を引きます。

 

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 これ、買いました。くろやぎ(同行人・夫)が「湘南ビーチdeティータイム」、私は「波がしらヨーグルト味」を選びました。

 

 ちなみに、自動販売機に掲げてあったプレートです。

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 日本橋から59㌔。あ、丸いポスト、発見。

 

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 ポストがある細道を少し入ったところに、お地蔵様の祠がありました。プーさんもいますよ。

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 面白かったので、近づいてパチリしました。

 

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 十間坂は、この辺りかな? 十間坂2丁目です。ここまで歩いてきましたが、特に坂道ではありません。昔はもっと勾配があって、近年になって、ならされたのでしょうか?

 

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 第六天神社の境内に、歩道橋がダイレクトに接続しています。なかなか珍しいので、パチリしました。

 

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 歩道橋からの眺めです。

 

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 「飾り屋」ってなんでしょう? 骨とう品やさんかな?

 

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 お店の中を、外から見たところ、お寺や神社にあるような古い置物なども、陳列されていました。街道ならではのお店かも。

 

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 飾り屋さんの近くに、こんな昔ながらの風格のお宅がありました。街道沿いには、このような旧家を、ちょくちょく見かけます。これも街道ウォークの楽しみの一つです。

 

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 地元産落花生の専門店です。

 

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 南湖の左富士の碑のすぐ近くにある「鳥井戸橋」です。

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 欄干に富士山模様を発見。

 

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 下町屋橋の手前にある「でかまん菓子舗」

 先ほどの「小林の落花生」、この「でかまん菓子舗」、このあとの「弘栄堂」(ちょんまげ最中)については、先日ブログにアップしています。

 

www.lupinus-shiroyagi.com

 

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 でかまん菓子舗から間もなく、相模川の旧橋脚のモニュメントがある公園です。早速このような柱があるので、見落としようがありません。

 

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 公園の足元にこのようなタイルの説明がたくさんあったのですが・・・泥に汚れていたりしてよく読めないものもあり、ちょっと惜しい感じ。

 

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 立派な模型もありましたが、これも泥がかかっていて、ちょっと残念。

 

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 こちらは掲示板の説明。ちゃんと読むといろいろわかりそうだけど、先を急ぐので斜め読みで失礼します。

 

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 モニュメントのある公園横の小出川です。左に見えるのが公園。右の高架が新湘南バイパスです。

 

 

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 この表示、気がついたら撮るようにしているこの頃です。

 

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 いよいよ平塚市に入りました!

 

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 馬入橋の欄干です。「かながわ橋100選」なんですね。確かに長くて立派で眺めもよい、素敵な橋でしたよ。

 

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 橋の上からの一枚。丹沢の山並みがうっすらと。川面にモーターボートの波紋が広がってきれい。

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 ちょんまげ最中の弘栄堂です。

 

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 こちらは、青空に映える看板。その後ろの洋風の建物が「ホテルサンライフガーデン」です。ちょっと、ミスマッチ。

 

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 そうそう、平塚と言えば、七夕ですね。

 

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 丁髷塚を探して迷い込んだ蓮光寺の境内で、見つけました。平塚の七福神の一つが、ここにあるようです。平塚七福神巡り、最近、新しい観光スポットとなったようです。

www.scn-net.ne.jp

 

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 蓮光寺の横の細道から、ホテルのチャペル「グランドビクトリア湘 南」が見えます。19世紀の英国・スコットランドで誕生し、3万キロの海を渡って湘南に甦ったとか。

 

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 平塚は囲碁のまちでもあるらしい・・・ 知らなかったなぁ。

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 なぜ、囲碁のまちなのかは、こちらをご覧ください。

 

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 そしてもちろん「七夕」のまちですね。駅の改札前に、ちゃんと大きな七夕飾りがありましたよ。

  ここまで長々読んでくださり、ありがとうございました。次回は、説明板の数々をアップします。また訪ねてくださると嬉しいです。

 


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第8回 茅ヶ崎→平塚②

 旅の記録の後半は、鶴嶺神社の鳥居からです。

 

鶴嶺神社鳥居

 

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 街道の右側にそびえる大きな赤い鳥居。遠くからでもよく目立ちます。街道をしばらく離れますが、入ってみましょう。

 

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 大鳥居より松並木の参道が、1キロほど続きます。最初は、車の往来がとても多くて、なかなか写真を撮るような雰囲気ではありませんでした。やっと切れ目ができたので、すかさずパチリ。

 

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 てくてく歩いて、やっと二つ目の鳥居と本殿が見えてきました。鶴嶺神社は平安時代に起源を持つとも言われる古社です。

 

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 鳥居に手前に道祖神がありました。きれいにお掃除されてお花も飾ってあって、いいですね。

 この隣に、「女護ヶ石」というのがあって、説明書きによると「祓え給え、清めえ」と唱えながら、石を3回なでて、続けて治してほしいところを3回なでると治ると書いてあったので、そのようにしてみますと・・・

 

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 「授かり石」でした。いやいやこれは間違い。

 

 その隣が、女護ヶ石でした。この写真の、向かって左側の石です。

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 今度こそ念入りに。ウォークキング膝が痛くならないように、膝をなでなで。

 

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 やっと本殿に到着。石段に向かって右に、有名な大イチョウがあります。

 

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 これです。樹齢推定1000年。源義家が植えたと言い伝えられています。

 

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 ここも、初詣に向けての準備で、神主さんが忙しそうです。

 

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 「かわらけ投げ」をやるための場所がありました。

 

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 神鳩とおみくじ。初穂料を納めると、手前にあるような、おみくじを抱えている小さい鳩をいただけます。小さい鳩にお願い事を書いてここに奉納しますが、家に持って帰って、飾ってもいいそうです。

 

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 またまた境内にお願い事の石。今度は「がん封じ」だというので、真剣にお願いいたしました・・・ さっきの小さい鳩さんもたくさん。

 

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 女の人を守ってくださる神様の神社がありました。向かって左側に針塚もあります。

 

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 これです。針供養もしてくださるのですね。女の人にやさしい神社です。来てよかった。いいことありそう♪

 

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 もう一つ、小さな神社。


弁慶塚

 

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 行きは見落としてしまったのですが、大鳥居のすぐ脇にありました。「弁慶塚」の文字が歩道側から反対でよく読めないので、行きは「なんだこれ?」とスルーしてしまったのですが、帰りにくろやぎ(同行人・夫)が、反対側の歩道から「あった!」と見つけました。今回も冴えてるくろやぎ。

 弁慶塚は、里人が頼朝の落馬を憂い、義経一族の霊を慰めるための里人が造りました。


神明神社

 

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 鶴嶺神社のあとのせいか、こちらは簡素な印象。

 

 

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 本殿です。

 

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 道祖神もありました。

 境内に、陰陽師・安倍晴明が東下りの折、喉を潤したと伝えられる清明井戸があるということでしたので、本殿の周りをぐるぐる探してみましたが、それらしきものは見当たらず。

 

 

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 と思ったら、入口の所のありました!

 

旧相模川橋脚

 旧相模川橋脚は、小出川の手前の、たいへん目立つ場所にあります。絶対に見落とさない! 公園のようになっています。茅ケ崎市の文化財の中でも、かなり力を入れて、蝶さ・研究・保存されているらしいことを事前チェックで感じていたので、楽しみにしていました。

 

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 旧相模川橋脚は、大正12(1923)年9月1日の関東大震災と翌年1月の余震によって、水田に橋杭が出現した全国的にもまれな遺跡です。
 なお頼朝はこの橋の落成式の帰途、義経一行の亡霊に驚いた馬が暴れて落馬してしまったことが原因で翌年死亡したといわれています。鎌倉期はここが相模川であったと言われています。

 という予備知識ですが。ふーむ、頼朝は、義経の亡霊が怖くて川に落っこちたのか。心のやましいことがあったんだな。だから、弁慶塚なんか、作らせたりしたんじゃないの? 川に落ちたのは馬や義経のせいではなく、自業自得なんじゃ?

 な、からすくん。キミはどう思う?
 


上国寺

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 上国寺の入り口です。

 

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 本堂です。ここに安置されている永正11年(1514)造立の木造日蓮坐像は、全国の日蓮像のうちでも古い方で、貴重なんだそうです。

 青いポリバケツと手桶。お掃除中ですかね? ここも初詣に向けて、準備中かな。

 

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 台の上のお人形が、キュート。庶民的な感じが面白くて、パチリしてしまいました。


信隆寺

 

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 本堂です。ここの木造日蓮坐像も、古いです。永禄7年(1564)造立です。

 

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 本堂手前の休憩コーナー。お彼岸の時など、気候が良ければ、ここで一休みするのもいいですね。


 寛永元年(1624)の創建時の鰐口が残っているとの事前情報がありましたが、どこにあるのか、よくわからなかったです。



男女双体道祖神


 銅葺屋根の祠の中に納まっていますって事前情報。あ、これですね。

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 手前の丸い二つの石は、何だろう?

 


道祖神


 二体の道祖神が祠の中に納まっています、ということですが・・・ あ、あった。スタンプラリーみたいだな。

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 小さな小さな道祖神ですが、ぽかぽか陽が当たって、暖かそうです。


馬入橋

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 とうとう馬入橋まで来ました! 長い橋ですね。さすが、相模川。川の位置は江戸期になると、ここに変わっています。
 頼朝が落馬したとき、馬が川で溺れて死んでしまったので馬入川と呼ばれるようになりました。この一件から架橋は不吉と言われ、江戸時代、相模川(馬入川)の渡河は船渡しでした。 

 ありがたいことに、現代では橋が架かっているので、渡りましょう♪

 

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 橋の上から。なかなか良い眺めです。



明治天皇馬入御小休所思址碑

 

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 明治天皇がお休みされた記念碑があるとのことでしたが、少々迷いました。ホテルサンライフガーデンの車寄せにありました。写真手前左です。

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 ちなみにこのホテル、結婚式場もある大きなホテルです。19世紀の英国・スコットランドで誕生し、3万キロの海を渡って湘南に甦ったという教会・「グランドビクトリア湘 南」が隣接しています。


陸軍架橋記念碑

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 関東大震災によって馬入橋が倒壊したときに、陸軍工兵大隊が急遽派遣され復旧したことを記した碑です。今の自衛隊みたいな役回りですね。ご苦労様でした・・・

 


馬入の一里塚

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 日本橋より15里目。往時、北側の塚前には井戸、向かいには川会所や川高札があったそうです。

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 京都へは151里、大坂へは122里だそうです。(碑の左側の文字)まだまだ、遠いですね。



丁髷塚


 喧嘩が元で16名の若者が死罪を命じられましたが、代官は若者たちのまげを切り斬首に代えて、切り落としたまげを埋めたという丁髷塚(ちょんまげづか)ですが・・・ なかなか見つからなくて・・・ Googleさんに聞いたら、蓮光寺というお寺の墓地の中だというのですが、似たような(失礼・・)墓石の中から見つけ出すのは至難の業です。たくさん歩き回って、やっと発見しました。

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 この画像だけではアプローチがわかりにくいので、あと3枚アップします。

 

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 国道1号線と旧東海道の分岐点から見たところです。トヨタの販売店と理容室が並んでいる辺りの細道を入ります。

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 ここを入って右側です。墓地の一番手前なので、ここから入ればわかりやすかったです。(私は、街道の1つ向こうの道から探してしまったので、見つけるのが難しかったです。)

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 細道から入った所。

 

 

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 平塚駅に着きました。やれやれ、お疲れ様。

 時刻は15時51分。6時間45分、25012歩のウォーキングでした。

 

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 ホームから見た夕日です。今日は日没前に目的地に着くことができて、よかったです。

 

 ここまで、読んでくださってありがとうございました。次回は、まちなみに焦点をあてたレポートをアップします。また、訪ねて来てくださると嬉しいです。

 

 


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